第88話 国見青音 35歳 ―冬③―
それから、いくつもの駅を通り過ぎて、途中で電車を乗り換えたりしながら共通の思い出や、それぞれに過ごしてきた日々を語り合った。
俺が専門学校の頃に大月さんの結婚を知って、泣きながら勉強をしたという情けない話を終えたところで、車内アナウンスが流れ始めた。
『ご乗車ありがとうございました。まもなく終点大垣、大垣です———』
「もう大垣か…」
車窓から外を眺めると、進行方向の右手には遠くに池田山が見えている。
「話してたらあっという間だったね。その後、国見君は専門学校の頃に付き合っていた彼女と結婚したの?」
「いや、専門学校の頃の彼女とは卒業してから少しして別れたよ。それで、職場の後輩と結婚したんだ」
「そっか、そうだったんだね」
大月さんは穏やかに笑っている。
もうすぐで大月さんとの会話も終わるのだと思ったときになって、ふとあることを考えた。
大月さんに恋をした20代前半の頃には、大月さんの言葉は虹色の輝きを放っているように感じていた。大月さんの口からこぼれる言葉の節々に、俺に向けられた言葉以上のメッセージが隠されているような気がして、その虹色のメッセージを見落とさないようにと何度も頭の中で大月さんの言葉をリピートしていた。
しかし、12年ぶりに再会して言葉を交わしてみると、大月さんの言葉にもう虹色の輝きは見えなかった。その代わり、何一つ言葉以上のメッセージなど隠されていない、どこまでも澄んだ透明な輝きを感じた。
これはきっと、大月さんの言葉が変わったわけではないのだ。俺自身が大月さんの言葉を素直にそのまま受け取れるようになっただけのことだと思う。
20代前半の頃には大月さんが俺に好意を持ってくれているのだと信じたくて、言葉の中から無理矢理に俺に向けられたメッセージを探し出そうとしていたが、今の俺にはそんなことをする必要がなくなったのだと思う。大月さんが結婚したということを知ってから、長い時間をかけて俺はちゃんと大月さんへの恋を終わらせることができたのだと思う。
電車が終点の大垣駅に到着すると、降車する人たちの流れにのって電車を降りて、階段を上がっていくと改札が見えた。
専門学生時代には何度も通った改札を、まさか大月さんと通過するなんて想像もしていなかった。
改札を出ると通路は北口方面と南口方面へ別れている。これで最後になる気がして、通路の真ん中に立ち止まった。
「大月さんはどっち?」
「あ、私は南口に友達が迎えに来てくれるからこっちだよ」
大月さんが南口へと続く階段を指さした。
「そっか、俺はこっちだから…」
北口側にあるショッピングモールに集まることになっていたため北口を指さした。
ほんの少しだけ、ほんの少しだけ名残惜しい気がした。
しかし、それ以上に清々しさを感じる。胸の奥に残っていた大月さんへの気持ちの残像が、ようやく消えて「さよなら」が聞こえたような気がした。
ただお互いに思い出を語り合っただけのことだが、もしもこうして偶然大月さんに再会できなければ、その思い出も二度と語られることはなかっただろう。
振り返ってみればたいして何もなかった二人だった。それでも、俺にとっては大切なことを気づかせてくれた特別な人だ。
大切な人がいるのなら、いつも素直に精一杯の愛情を伝えなくてはいけない。そのことを気づかせてくれたのは大月さんだ。
大月さんに恋をして、そして失って、死ぬほどの後悔をしなければ、俺はそんな当たり前のことにも気づけなかったのだ。
———今の俺なら大月さんに素直に気持ちを伝えられるのに…。
大月さんが結婚してしまった後、後悔に沈む日々の中でそんなふうに思うことが何度もあった。
しかし、それは後悔を乗り越えて大切なことに気がついた後の俺だからできることであって、10代の頃や20代前半の頃の俺にはやはりできなかったのだ。
大月さんを傷つけてしまったこともあったが、10代の頃の自分も20代の頃の自分も、大月さんとの関係の中で手を抜いたことはなかった。いつだって当時の自分なりに真剣に悩んで進むべき道を選んできた。今の俺ならもっと他の道を選ぶこともできるだろうが、やはりそれは激しい後悔を経た「今の俺」だからなのだ。
それに、今はこの道を選んで良かったと思っている。愛する妻と出会い結婚をして、可愛い子どもたちに恵まれて、これ以上に求めるものは何もないと思える。どうしようもない後悔の日々も、ここに至るために必要なことだったように思う。もう二度と大切なものを失わないために、今の俺は妻と子どもたちのことを精一杯愛することができる。
12年ぶりに再会した大月さんも、きっと同じように家族のことを精一杯愛しているだろう。要するに、今はお互いに幸せなのだ。
別れ際だというのに、胸の中は温かな光に満たされている。
俺は大月さんに向き直って少し胸を張ってみせた。
「じゃあね、大月さん。会えて良かったよ。ありがとう」
俺が言うと大月さんも柔らかく微笑んだ。
「私も国見君に会えて良かったよ。ありがとう。お互い元気に子育てがんばろうね。じゃあね」
そう言って、お互いに背を向けた。もう振り返る必要はない。俺には俺の、大月さんには大月さんの道があって、それぞれの道を大切な人たちとともに歩んでいけばいいのだ。
大垣駅の北口を出ると、12月にしては温かな日差しが降り注いでいた。早朝から晴れていた静岡とは違って、こちらは雨でも降ったせいか路面が濡れてキラキラと輝いている。
ショッピングモールに向かう前にポケットからケータイを取り出して、妻にビデオ通話をかけた。
数回の呼び出しコールの後、画面に妻の顔が映し出されてのんびりとした声が聞こえた。
『もしもーし。大垣駅着いたー?』
「うん、今着いたとこだよ」
『おーい、パパから電話だよー』
妻が子どもたちに呼びかけると『パパー!』と賑やかな声が画面の奥から聞こえてきて、小さな二つの顔が画面いっぱいに映し出された。
『パパー!今からばぁばっち行ってくるよ!』
「いいねぇ。ばぁばっちでいっぱい遊んできな」
『あ、青音。帰りに寄れたら名古屋でぴよりん買ってきてー』
妻からのお土産依頼の間も、電話の向こうから『ぴよりん!ぴよりん!』と賑やかな声が響いている。
今日一日、小さくて可愛い二人の怪獣を任せてきているのだから、何としてもぴよりんはゲットして帰らなければ。
「オッケー! ぴよりん買って帰るよ」
『ありがと! じゃあ、結婚式楽しんできてね。こっちも今からばぁばっち行ってくるよー』
「うん、ありがとう。気をつけていってらっしゃい。じゃあね」
『パパ! バイバーイ!』
画面に映っている妻と子どもたちに手を振って、ビデオ通話を切った。
妻や子どもたちの笑顔を見て、やはり俺はこの道で良かったのだと思う。大月さんと話すことで思い出した後悔に沈んでいた日々も、現在の幸せをつかむためには必要な日々だったのだ。
ケータイをポケットにしまい顔を上げると、ショッピングモールの向こうに見える空に、鮮やかな虹が架かっていた。
雨上がりの道に一歩を踏み出した。
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