第86話 国見青音 35歳 ―冬①―

 けたたましいアラーム音が鳴り響いて、慌てて枕元に置いてあるケータイに手を伸ばしてアラームを止めると、画面には5:30と表示されている。


 あれだけ大音量でアラームが鳴ったというのに、隣で寝ている妻も子どもたちも起きる気配はなく、すーすーと気持ちよさそうな寝息をたてている。


 カーテンの隙間から見える空はまだ暗く、夜の気配が残っている。


 もう少し妻と子どもたちの寝顔を眺めていたいが、時間の余裕もそれほどないので静かに布団から抜け出し、7:05発の電車に間に合うように食事や身支度を整えていく。


 式場でスーツに着替えればいいかとも思ったが、それも面倒な気がして家からスーツを着ていくことにした。バッグに結婚式の招待状とご祝儀が入っていることを確認する。


 ———智樹が結婚するなんて嘘みたいだな…。


 岐阜の専門学校に入学した当初、俺は23歳であったが、智樹たちはまだぴちぴちの18歳で「お子さまだな」なんて思っていたが、そんな彼らももう30歳だというから驚きだ。つまり、俺もいつの間にか35歳のおじさんになってしまったわけである。







 3か月前の9月に専門学校の同級生であった智樹から結婚式の招待状が届いた。専門学校に通っていた頃から付き合っていた彼女と結婚するということなので、かれこれ10年ほど付き合っていたことになる。


 数年前に俺の結婚式で久しぶりに智樹に会ったときには「そろそろ結婚を考えている」とは言っていたが、それから思いのほか長い時間が流れてついにそのときが訪れたらしい。


 結婚式は12月に岐阜県の大垣市にある式場で執り行われるということで、今日がその結婚式当日である。


 13時に受付となっているため、11時に招待されている同級生たちと大垣市に集まって、軽めの昼食を食べる約束となっているのだ。


 一通り出発の準備ができたところで寝室をのぞくと、子どもたちは目が覚めたようで布団の中で二人してモゾモゾしている。


「おはよう」


 声をかけるとモゾモゾしていた布団がぱっと蹴り飛ばされ、二人の小さい笑顔が見えた。


「パパー!」


 子どもたちの大きな声で妻も目を覚まして、布団の中で大きく伸びをしている。


「ん~、おはよう。もう出発の時間?」


「うん、そろそろ出発するよ」


 眠そうな目をこすりながら妻が起き上がると、子どもたちも起き上がり駆け寄って来る。


「パパ、お出かけ?」


「そうだよ、お出かけしてくるよ。ママとお留守番しててね」


「え~、一緒に行く~」


 足にくっついてくる子どもたちを抱え上げて玄関まで歩いていくと、妻が荷物が詰まったバッグを持ってきてくれた。


「気をつけて行ってきてね。智樹君にもよろしく」


「オッケー。じゃあ、行ってきます」


 玄関のドアを閉めながら「一緒に行くー!」と声が聞こえてきたが、今日一日は妻に子どもたちのことは任せて、智樹の結婚式に向けて出発した。







 12月の早朝の風は肌を刺すような冷たさで、スーツの上にロングコートを着てマフラーを巻いていても身に凍みる。


 駅の2番線ホームは土曜の7時ということもあり人影はまばらで、みんなマフラーに顔をうずめながら片手をポケットに突っ込んで、もう一方の手でケータイをいじっている。


 何気なく軽く周囲を見回すと一人の女性がこちらを向いていた気がしたが、すぐに顔をマフラーにうずめてしまった。あまりじろじろ見ているわけにもいかないので、俺もポケットからケータイを取り出して「カクヨム」という小説投稿サイトにあふれているネット小説を読み始めた。


 寒さに縮こまりながら読んでいると、静かなホームにアナウンスが流れ始めた。


『まもなく二番線に普通列車豊橋行きが5両編成で到着します。黄色い線の内側へお下がりください。この列車は…』


「あの、すみません…」


 お馴染みのアナウンスを聞いていると、背後から突然声をかけられた。小さくて優しいどこか聞き覚えのあるような女性の声に振り向くと、先ほどこちらを見ていたと思われる女性が立っていた。鼻と口元はマフラーに隠れているが、その顔を至近距離で見た途端に心臓がドクンと大きく跳ねるのがわかった。


「やっぱり! 国見君だよね」


 口元が露わになり、懐かしい笑顔が現れた。


「大月…、さん」


「久しぶりだね」


「あ…、あぁ、久しぶり」


「間違ってたらどうしようかと思ったけど、人違いじゃなくてよかったぁ」


「よくわかったな。俺、あまり変わってないのかな?」


「うん、まぁちょっとおじさんになったような気もするけど」


 いたずらっぽい笑顔を浮かべて顔をのぞきこんでくる。


「おじさんって…。でも、35歳だもんな。お互いに」


 やり返すように「お互いに」を強調して言ってみると「うん…、たしかに」と言いながら大月さんが苦笑いをした。


「それにしても、国見君と会うのって何年ぶりかな?」


 ホームに入ってきた電車の音にかき消されそうな声で大月さんが言った。


「たしか最後に会ったのが俺が専門学校へ行く直前だったから、もう12年ぶりくらいだな」


 電車が停車して目の前のドアから乗り込むと、車内の座席もガラガラだった。


「そっかぁ、もう12年も経つんだね。そんなに経った気がしないなぁ」


 言いながら大月さんが隣に座った。


「どんどん時間が過ぎるのが早くなるよな」


「うんうん、20代の頃も早く感じたけど、30歳過ぎてからもっと早くなった気がする」


「この感じだと、40代になるのもあっという間だな」


「だよね、嫌だなぁ」


 苦笑いする大月さんが隣に座っていることを不思議に感じた。12年ぶりに会ったというのに、話してみるとまるで親しい友人と話しているように自然で、むしろ12年前よりも気楽に話せている気さえする。


 ゆっくりと電車が走り出し、向かい側に広がる車窓には朝陽に照らされた住宅街や工場が流れていく。


「国見君、今日はどこまで乗って行くの?」


「今日は専門学校時代の同級生の結婚式があってさ、岐阜の大垣まで行くんだよ」


「あ、だからスーツ着てるんだね。途中で新幹線に乗り換えるの?」


「いや、家計のことも考えて安く済ませるためにずっと電車で行くよ」


 初めは車で行こうかとも考えていたが、岐阜のほうは雪が心配だったり、結婚式でお酒を飲むことも考えて電車で行くことにしたのだ。


「そっか。実は私も大垣まで行くんだよ。しかも、国見君と同じく電車でね」


 大月さんの行き先が遥か遠くの同じ駅だということに驚いた。早朝に駅で再会すること自体が驚きなのに、行き先まで同じというのはすごい偶然である。


 しかし、大月さんの服装はスキニージーンズとセーターにコートを羽織っていて、結婚式に行くわけではなさそうだ。


「大月さんも大垣まで行くの? でも、そっちは結婚式ではなさそうだね」


「うん、私は大学時代の友達が北海道に転勤するっていうから、その送別会に行くんだよ」


「なるほどな。まさか行き先まで同じなんてびっくりだな」


 そう言って二人で笑い合った。

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