第85話 国見青音 24歳 ―光芒②―

 柳瀬さんの投稿には「千尋、結婚おめでとう!」という短い言葉とともに、一枚の写真が載せられていた。柳瀬さんを含めた数人の女性が、照れくさそうに笑う大月さんを囲んで祝福している。


 もしかしたら俺の見間違いではないかと短い文章を何度も読み返すが、何度読んでも「千尋、結婚おめでとう!」と書かれている。そして、どんなに食い入るように写真を見つめても、大月さんが祝福されているのは間違いない。


 心臓はなおも強く打ち続けている。呼吸が浅く早くなっているのがわかる。みぞおちのあたりでは熱くて重い塊のようなものが、その重さをどんどん増していくようだった。


 しかし、慌てるでも取り乱すでもなく、頭は冴え渡り心はしんと静まり返っている。


 ———こうなることは予想してただろ。


 ケータイの画面を消して、真っ暗な部屋の中でベッドに仰向けに寝転がり、自分に言い聞かせた。


 ———大月さんを諦めるために岐阜に来たんだから、これでいいんだ。


 物音ひとつしない闇の中で、少しずつ鼓動が落ち着いてくる。


 ———俺には紗枝がいるんだ…。


 大きく息を吸い込んで、ため息をするように吐いた。


 ———あぁ、目が覚めちゃったな。もう少し勉強でもしようかな…。


 暗闇の中でベッドから起き上がり、再び部屋の明かりをつけて、テーブルの上に先ほど片付けたばかりの教科書やノートをひろげた。


 頭が冴え渡っているおかげで、教科書からノートにまとめていく内容がすいすい頭に入ってくる気がする。こんなにスムーズに頭に入ってくることなど滅多にないことだ。


 そのとき、不意に視界がぼやけてノートの文字が歪んだ。


 ———あれ?


 ノートに並んだ文字の上に透明な雫が落ちて、文字がゆっくり滲んでいく。


 胸の奥から、心の底から、何かがこみ上げてきて喉元につかえている。


 そして、吐き出した息とともに声にならない声とともに、とめどない涙があふれ出した。


 ———なんで…。


 駐輪場の前でバレンタインデーの贈り物をくれたことも、寒い夜に手をつないでいたことも、夏の神社で話したことも、渡された手紙も、春の海で澄んだ空を見上げる姿も、外灯の下の真っ直ぐな眼差しも、すべてが取り戻せない思い出になってしまった。どんなに求めようとも、どの瞬間ももう二度と二人の間には戻らない。


 ———全部、自業自得だろ…。


 今までなんとか堰き止めていた山のような後悔が、黒い濁流となって押し寄せてくる。大月さんは何度も手を差し伸べてくれたのに、なぜ俺はその手を取らなかったのだろう。


 今さら考えても仕方がないことくらいわかっていても、考えずにはいられない。


 大月さんに追いつくために岐阜へ来た。大月さんを諦めるために岐阜へ来た。どちらも嘘ではないと信じていたのに…。


 心を押しつぶすほどの後悔と、次から次へとあふれてくる涙が答えなのだ。


 ———追いつきたかった。もう一度その手をつないで、隣で一緒に歩みたかった。


 本当は大月さんのことを諦めたくなんかなかった。だから、常に焦燥感に駆られて、紗枝との時間を削ってでも必死になって勉強をして走り続けてきたのだ。


 大月さんのことを諦めることで楽になれると願っていたが、大月さんのいる静岡を離れて岐阜へ来ても、紗枝と付き合っても、本当は諦めることなどできなかったのだ。


 ぽたぽたとノートに落ちる涙で文字は滲み、ノートもよれよれになっている。


 こんなにも好きなのに、こんなにも苦しいのに、この気持ちはもう大月さんに届くことはない。どんなに泣いても、どんなに叫んでも、どんなに悔やんでも、もう遅いのだ。


 教科書もノートもぐちゃぐちゃにして破り捨ててしまいたい衝動に駆られ、勢いよく教科書を手に取ったが、あと一歩のところで踏み止まった。


 ———負けたくない。


 ふとそんな気持ちが湧いた。


 勝ち負けの問題ではないことはわかっている。全て自業自得なのだ。しかし、祝福されて幸せそうな大月さんの笑顔が頭をよぎり、負けたくないと思った。恋愛対象としてではなくても、人間として大月さんに追いつきたいと思った。ここで全部投げ出してしまえば、俺はまた暗闇の中に堕ちていくだろう。


 暗澹たる日々を超えて、なんとか一歩を踏み出してここまで来た。大月さんに追いつきたくて、胸を張って大月さんと向き合いたくて、できる限りの努力をしてきた。しかし、大月さんは結婚をして、この恋は完全に終わった。


 それでも、まだ人生は終わっていない。大月さんを失ったことが死ぬほど辛くても、無理矢理にでも前に進み続けなければいけない気がする。この先の未来に大月さんの姿が見えなくても、俺が今必死になって勉強をしていることは間違っていないし、無駄ではないと信じたい。


 もう二度と暗い日々に戻らないために、もう二度とこんな思いをしないために、そして胸を張れる自分でいるために、ここで投げ出すわけにはいかない。


 涙を袖で拭いながら、無理矢理に強気な言葉を頭の中に並べ立てても涙は止まらない。それでも、再びペンを握り直し、教科書の内容をノートにまとめていく。


 ———大月さんには幸せであってほしい。でも、後悔してほしい。


 胸の内で渦巻くそんな醜い感情も全て飲み込んで、ここからまたこの道を走り続けるしかない。


 大月さんはもういないのだ。



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