第83話 国見青音 23歳 ―旅立ち②―

 歩きながら空を見上げると、澄んだ夜空の高い位置に月が浮かんでいた。風のない静かな夜だが、3月の空気はまだ冷たい。


 小学校まで車で行ってしまおうかと思っていたが、19時では門は閉じているだろうし、車を停めておける所がないだろうと考えて歩いて行くことにした。小学校までは歩いても10分ほどの距離であり、近づくにつれて胸が高鳴っていくのがわかる。


 友人の結婚式で会ってから連絡も取らないまま1年3か月の時間が過ぎたというのに、相変わらず大月さんのことが好きなのだと改めて自覚した。


 小学校の門の前には一本の外灯が立っていて、その下に一人の女性の姿が見えた。


 ―――あぁ、やっぱり緊張するな…。


 背が高く、細いシルエットは中学生の頃からずっと変わらない。


「こんばんは」


 外灯の下で、大月さんが微笑んだ。優しく細い声も変わらない。


「久しぶり。待たせた?」


「ううん、私も着いたばかりだよ」


「それなら良かった。大月さんも歩いてきたの?」


「車で来ようかと思ったんだけど、停められないかなって思ってね」


「車で来なくて正解だったみたいだな」


 小学校の門は予想通り閉じていた。高校の頃に会っていた頃は門はあったものの、閉じている様子はなかった。しかし、ここ数年で防犯のためか門が閉じられるようになったのだ。


 まだ心臓はドキドキしているが、思ったよりも落ち着いて話せて安心した。


「国見君と会うのって、彩子ちゃんと達也君の結婚式以来だよね?」


「そうだな。あの時もほとんど話せなかったけど」


 苦笑いしながら言うと、大月さんも「そうだったね」と苦笑いを浮かべている。


「あの時はてっきり国見君も二次会に来ると思ってたから、帰っちゃったときはちょっと残念だったよ」


「あの頃は仕事を辞めてお金もあまり無かったしな。節約のために…、ってわけじゃなくて、もともと別の約束があって不参加にしたんだよ。二次会は楽しかった?」


「うん、同級生とか知り合いが多かったから盛り上がったよ。しかも、私はビンゴでこんな折り畳み自転車が当たっちゃったし」


 大月さんがケータイの画面を向けてきて、そこに映し出された写真を見ると、淡いグリーンのおしゃれな折り畳み自転車が写っていた。


「こんな景品もあったのか。俺も出ればよかったな」


「そうだよぉ。そしたら折り畳み自転車が当たったかもしれないのに」


 そんなことを言いながら二人で笑った。


 1年3か月ぶりとは思えないほど自然に話せていることが不思議だった。


「それにしても、国見君が岐阜の専門学校に行くって聞いたときは驚いたよ」


 大月さんが小学校の門に寄りかかりながら言った。


「岐阜ってことに? それとも専門学校に行くってことに?」


 からかうように聞いてみた。


「ん~、どっちもかな。でも、岐阜経験者の私としては、岐阜はオススメだよ。ほどよく田舎だし、カフェとか喫茶店もたくさんあったりして楽しかったよ」


「大月さんも4年間住んでいたんだもんな。俺はこれから3年間かぁ。長いような短いようなだな」


「きっとあっという間だよ。しっかり岐阜を楽しんできてね」


「満喫し過ぎて肝心の勉強を疎かにしないように気をつけないとな」


「確かにそうだよね。専門学校はどんなことを勉強するの?」


 大月さんに尋ねられて、高校の頃に夏の神社で大月さんの進路の話をしたときのことを思い出した。あの時は今とは逆に、俺が大月さんに同じような質問を投げかけたのだ。


「言語聴覚士って知ってるかな? その資格を取るための養成学校なんだよ」


「あ、言語聴覚士って確かリハビリの資格だよね?」


 大月さんが知っていたことに驚いたが、大月さんも医療関連の仕事に就いているのだから知っていても不思議ではないのだ。


「そうそう。何か資格を取って今度はしっかり働かなきゃと思って、色々調べてたときに知ったんだよ。でも、静岡県内には専門学校がなくて、近隣で探してたら岐阜にあったってわけ」


「そっかぁ。勉強が大変かもしれないけど頑張ってね」


「うん、ありがとう」


 大月さんが岐阜で4年間を過ごしている間、俺は暗闇の中でもがくような日々を送ってきて、大月さんが静岡に戻ってきたかと思えば今度は俺が岐阜に行くことになり、自分のタイミングの悪さに呆れていたが、もう迷わないと決めたのだ。


 今のままの俺では大月さんに胸を張って向き合うことはできない。ずっと先の方に見える大月さんに追いつくために、もう一度その手に触れるために、俺は岐阜で3年間頑張ってちゃんと資格を取って、静岡に戻ってくると決めた。


 ———だから、待っていてほしい…。


 とは言えない。喉元まで言葉が出かかるが、どうしても言えない。今の俺にはまだ自信の欠片もないのだ。言語聴覚士の資格を取って帰ってこられる保証もないのに、待っててほしいなどとは言えない。もしかしたら、俺が専門学校へ行っている間に大月さんは誰かと結婚してしまうかもしれないけれど…。


 だから、大月さんを諦めるために岐阜へ行くのだ。静岡を離れて大月さんのことを振り返らずに、岐阜で3年間頑張ると決めたのだ。


 ———大月さんに追いつくために…。


 ———大月さんのことを諦めるために…。


 二つの矛盾した気持ちを抱いて、俺は岐阜へ行くことを決意した。たとえ矛盾した二つの気持ちを抱えているとしても、ただ真っ直ぐに迷わず3年間を走り切ると決めたのだ。


 そんなことを考えながら黙っていると、大月さんがこちらを向いた。


「引っ越しの日はもう決まってるの?」


「ああ、明日だよ」


「え? 明日? じゃあ今日会えたのはギリギリだったね」


 大月さんが細い目を開いて驚いている。


「そうだな。このタイミングで大月さんが連絡をくれて嬉しかったよ。会えてよかった」


 言いながら、自分も昔に比べてだいぶ素直になったなと感じた。


「うん、私も国見君に会えてよかったよ」


 微笑んだ大月さんのまっすぐな眼差しが、きらきらと輝いているように見えた。


 目の前にいる大月さんを抱きしめることができたらどんなに幸せだろう。寒い夜に手をつないでいた高校生の頃のように、その手に触れることができたらどんなに幸せだろう。しかし、今はそれはできない。今でも大月さんは大学時代の彼氏と付き合っているのかはわからないが、今さらそんなことを聞こうとも思わない。


 今までに大月さんがくれた数々のチャンスを棒に振ってしまったことに後悔は尽きないが、明日はもう俺はここにはいないのだ。今はただ選んだ道を前に突き進むしかない。


「それじゃあ、今日はありがとう」


 まだ大月さんと話をしていたかったが、夜の冷たさが身体に凍みてきて、大月さんも寒そうに見える。


「私のほうこそ、引っ越し前日の忙しいときに会ってくれてありがとう。3年間頑張ってね! 応援してるよ」


「うん、ありがとう! 頑張ってくるよ」


 別れ際の寂しさに飲み込まれないように、笑顔でガッツポーズをしてみせた。


「じゃあ、行ってらっしゃい」


「行ってきます」


 そう言ってお互いに背を向けた。


 別れ際の大月さんの笑顔が、まっすぐな眼差しが、優しい声が、思い出が、今にも泣き出しそうな心を奮い立たせた。


 



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