第77話 国見青音 20歳 ―水平線②―

「今日は晴れて良かったね。暖かくなったし」


 助手席の窓から外を眺めながら大月さんが言った。


 数日前に西野さんに「彼氏がいるのに国見をドライブに誘うって、元カノはどういう心境なんだろうね」と言われた言葉が気になってはいたが、やはり大月さんと二人でドライブができるということは嬉しくて、大月さんがどんな心境なのかなど気にならないくらいだった。


 運転席側の窓を少し開けると、3月の春風が吹き込んでくる。


「ほんとにドライブ日和だな。どこか行きたい場所はある?」


 大月さんを迎えに行き、目的地は特に決まっていなかったがとりあえず車は走り出していた。


「う~ん…。どこでもいいんだけど、海に行くのはどうかな?」


「海か、いいね。海に行くなんて何年ぶりかな」


「近くても意外と行かないよね。私もかなり久しぶりだなぁ」


 大月さんの提案で海を目指して車を走らせ、30分ほど走ると海水浴場の入り口が見えてきた。


 夏には多くの海水浴客たちで賑わう砂浜も3月ではちらほら人がいる程度で、海上で波待ちをしているサーファーのほうが多いくらいである。


 がら空きの駐車場に車を停めて車を降りると、潮の匂いとともに波の音が心地よく響いてくる。


 大月さんと二人で砂浜に向かって歩いていくと、ウェットスーツを着てサーフボードを抱えた見知らぬ中年のサーファーに「お、カップル?今日はデート日和だね~」と声をかけられた。


「えっと…」


 一瞬言葉に詰まった。「そうです。カップルです」と答えられたらどんなにいいだろうかと思いながらも、大月さんには彼氏がいるのだし嘘をつくわけにはいかない。しかし、見知らぬサーファー相手に「カップルじゃありません」と改めて否定するのも空しいし、ためらわれる。


「…、本当に良い天気ですね」


 カップルと言われたことを否定せずに、なんとなく受け流した。大月さんはどう思っただろうかと顔を向けてみたが、ただ気まずそうに微笑んでいるだけであった。


 砂浜に立って海を眺めると、澄んだ空気のおかげで伊豆半島が見えている。


「こうして見ると、伊豆なんてすぐ近くに感じるのに、車で行くとなると遠いんだよな」


 なんとなく思ったことを口にした。


「そうだよね。3時間くらいかかるのかな?」


「うん、伊豆の先端のほうまで行くってなると4時間近くかかるかもな」


「うわぁ、けっこうかかるね。でも、なんとか日帰りできそうな距離だね」


「日帰りか…。せっかくそこまで行ったら、一泊くらいはしたいけどな」


「うん、たしかに。じゃあ、今から行っちゃう?」


 笑顔で言う大月さんの言葉が冗談だとわかっていても、ドキッとしてしまった。


「…そうだな、じゃあ行っちゃうか」


 俺も冗談で返した。いや、本当は…、本当に行ってしまいたいくらいだったが、やはり俺にはそこまでやれる度胸はない。


 もしも恋人同士だったなら、こんな思いつきでも勢いで旅に出ることもできたのだろうか。誰にも、何にも気をつかうこともなく、二人だけで気の向くままに旅をして、同じ家に帰ることができたならどんなに幸せだろう。


 しかし、大月さんには彼氏がいて、その彼氏とどこかに旅行に行ったり、二人でいくつもの夜を過ごしたりしたのだろうかと考えると、目の前で打ち寄せている波のように、後悔と痛みが押し寄せてくる。


 一人で勝手に切ない気持ちになっていると、大月さんが「あっちに行ってみよう」と指をさした。その方向を見てみると、砂浜から海に向かって長い堤防が伸びていて、数人の釣り人らしき人が見える。


「うん、行ってみよう」


 堤防に向かって歩いて行くと、砂浜に足をとられてふらついた大月さんが、俺の右肩につかまった。それは一瞬の出来事だったが、昨年末の飲み会のときと同様に全身に稲妻が走るような衝撃があった。


「ごめんごめん、ふらついちゃった」


 大月さんは何気ないふうで謝る。


「いいけど、大丈夫?」


 俺も何気ないふうを装って答えたが、体は痺れて心臓は飛び跳ねていた。


「うん、ありがとう。大丈夫だよ」


 微妙な距離を保ったまま堤防まで歩いていくと、大月さんが堤防の先のほうまで歩いていき、優しい春風の中で澄んだ空を見上げた。


 ———あぁ、綺麗だな…。


 俺はその姿を少し離れた所から眺めていた。ほんの数メートルなのに、遥か先に行ってしまったような気がした。高校卒業からの約2年間で大月さんは新しい恋をしてさらに大人びて、夢に向かって真っ直ぐ進んでいる。それなのに、俺はわがままに仕事を嫌がりながら薄暗い毎日の中でしゃがみ込んでいるだけで、一歩たりとも進めていない気がした。陽の当たる坂道を上って行く大月さんと、じめじめした薄暗い部屋の窓からそれを眺めているだけの自分…。そんなことを考えると、急に自分が惨めに感じられてきた。


 中学や高校の頃と同じように笑顔で話していても、大月さんと俺の間には想像以上の距離があるのだ。「好きな人」から「憧れ」へと変わりつつあるような気がした。


 胸を締め付けられるような苦しさを感じながら見惚れていると、不意に大月さんがこちらを見た。


「ねぇ、国見君。どうして私をドライブに誘ってくれたの?」


 きらきらと輝く水平線を背景にして、大月さんがまっすぐ見つめてくる。からかっているようでもなく、冗談で尋ねているようでもなく、ただ小さく微笑んでいる。


 嘘をついてはいけない、逃げてはいけない、そんな気がした。「好きだから…」「一緒にいてほしいから…」そんな言葉が浮かんだが、ずっと先にいる大月さんに否定されることが怖くて、何一つ自分に自信がなくて、口には出せなかった。


「大月さんともっと話したかったから…、かな」


 嘘ではなかった。大月さんともっと話がしたいと思ったし、大月さんのことをもっと知りたいと思った。


「そっか。ありがとう」


 笑顔でそう言って、大月さんは海の方を振り返った。



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