第76話 国見青音 20歳 ―水平線①―
4人での飲み会の後、夜中に大月さんからメールが届いた。
居酒屋では大月さんを意識し過ぎてまともに話ができず、家に帰ってベッドに入ってからも胸が苦しくて眠れなかったが、大月さんからのメールで胸の苦しさは一気に喜びに変貌を遂げた。
メールを確認すると、[一度は断ったけれど、やはりドライブに行きたい]といような内容だった。
以前、俺から誘ったときには断ったくせに…、とは毛ほども思わなかった。大月さんと二人でドライブに行けるという嬉しさで頭の中はいっぱいだった。我ながら単純な男だと思ったが、心の底からこみ上げてくる嬉しさは本物だった。
先ほどまでは胸が苦しくて眠れなかったくせに、今度は嬉しさと興奮で眠気が吹き飛んでしまい、幸せな眠れない夜を過ごした。
翌日の日曜日も大月さんからのメールの余韻と、次の土曜日には二人でドライブに行けるという嬉しさにどっぷり浸りながら過ごしたが、月曜日の朝になり会社が近づいてくるにつれて、その嬉しさもドロドロとした闇に飲み込まれていくようだった。
就職してもうすぐ丸2年が経とうとしていたが、未だに会社の手前の交差点に差し掛かると腹痛や吐き気に襲われるし、混み合っている食堂では人目が気になり震えてしまってまともに食事もできない状態が続いていた。業務はなんとかこなしていたが、心の中では常に「仕事を辞めたい」という言葉が呪文のように繰り返されていた。
———今週末には大月さんに会える。
二人でのドライブを希望の光にしながら、今週もなんとか窒息せずに薄暗い毎日を乗り切っている。
大月さんと再会したことで気持ちが前向きになったおかげか、以前に比べればいくらか腹痛や吐き気も減ったような気がする。
恋の力はすごいなと思いながらも、スプーンを持った右手が震えてしまって、今日もカレーをうまくすくうことができない。
水曜日の今日は午後から会議があるため、仕方なく食堂が混み合っている時間帯に昼食を食べに来たが、やはりとても食べられそうにない。窓際の隅の席に座れたため、震えはいつもよりはマシな気もするが、それでもこのありさまだ。
食べるのを諦めようとしたとき「この時間に食べてるなんて珍しいね」と背後から声をかけられた。
女性の声に振り返ると作業服を着た西野さんが立っていた。
「ここ空いてるよね?」
そう言いながら西野さんが隣の席に座る。
「食べられないなら、私があーんしてあげよっか?」
顔をのぞきこんでからかってくるが、西野さんにからかわれるのは嫌ではない。むしろ、隣に座って声をかけてくれたことで独りでいることの緊張が解れて、手の震えが少しずつ治まっていく。
「あーんしてもらいたいとこだけど、なんとか自分で食べられそうだよ」
軽い冗談で返す余裕も出てきた。
「なぁんだ、残念」
言葉とは裏腹に笑顔でカレーを食べ始めた西野さんは、焼肉でもカレーでも大きな口を開けて美味しそうに食べる。
俺も震えの小さくなった手でなんとかカレーをすくい、口に運ぶことができた。
「そういえばさぁ、土曜日どうだったの? 元カノと飲みに行ったんでしょ?」
カレーを口いっぱいに詰め込んで、ハムスターのように膨らんだ頬の西野さんに尋ねられた。
西野さんとは一年前に二人で焼肉を食べに行って以来、時々二人で外食に行ったりドライブすることがあり、成人式の数日後に二人で焼肉を食べに行ったときに大月さんとのことを話したのだ。
「ああ、友達と4人で飲みに行ったんだけど、そこでは大月さんとは全然話せなかった。でも…」
「でも?」
興味津々といった様子で口にスプーンをくわえたまま止まっている。
「今週末の土曜日に二人でドライブに行くことになった」
俺が答えると、西野さんが大きく目を見開いた。
「えぇ? ドライブは断られたって言ってなかったっけ?」
「一度断られたけど、飲み会の後に[やっぱりドライブ行こう]ってメールが来たんだよ」
「ふぅん。でも元カノには彼氏いるんでしょ?」
「まぁ、そうだな…」
「なんだかねぇ…。彼氏がいるのに国見をドライブに誘うって、元カノはどういう心境なんだろうね」
そう言って西野さんはどこか不満そうな顔で再びカレーを口に運び始めた。
大月さんがどういうつもりでドライブに誘ってきたのかは俺にもわからない。たしかに大月さんには彼氏がいるが、俺に対する気持ちもゼロではないのかもしれない…、そんなふうに馬鹿な期待をしている自分がいる。
しかし、じゃあ俺はどうするのか。大月さんが俺のことをどう思っているのかわからない状況で、告白でも誘拐でもして彼氏から強引に大月さんを奪うような真似ができるのか…。否。そんなことできるわけがない。ならば、ただドライブをして、それでさよならするのか…。それも否。
———それなら、俺はどうすればいいのだろうか。
何度も何度も自分に問いかけながら、週末を待った。
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