第53話 国見青音 19歳 ―半夜①―

 高校を卒業して会社に入社して、ちょうど一年が経った。数日前から今年の新入社員たちを社内で見かけることが増えた。あと一か月もすれば、新入社員たちはそれぞれの部署に配属される。去年の俺もそうだった。


 特にやりたい仕事があったわけではなく、家から近くて、それなりに名の知れた企業であることを理由に今の会社に入社した。


 ―――やっぱり今日もダメだ。


 会社の手前にある交差点にさしかかると、毎朝のように腹痛に襲われる。日によっては吐き気まで催すこともある。


 今日も信号待ちをしながら腹痛に耐え、交差点の角にあるコンビニでトイレに立ち寄るか悩んだが、就業開始時間まで残り少なかったため、コンビニには寄らずに会社に向かうことにした。


「はぁ…」


 仕事の朝は毎日この繰り返しだ。入社して1か月が過ぎた頃から、腹痛に見舞われるようになった。


 おそらく「5月病」というやつをずっと引きずっているのだろう。引きずり続けてもうすぐ1年が経とうとしているが、腹痛や吐き気に加えて朝からずっとどこか苛々している毎日が続いている。


 出所不明の苛立ちを抱えながら駐車場に車を止める。この会社は工業製品の製造工場で、敷地内にはいくつもの棟が並んでおり、俺の所属している部署は駐車場から一番離れた「保全管理棟」の中にある。


 駐車場から保全管理棟まで約300mの距離を歩いていくと、棟が近づくにつれて腹痛も激しさを増していく。


 ―――うぅ、やばいな。


 なんとか保全管理棟にたどり着いたが、棟内の独特な臭いを嗅ぐとさらに腹痛が増し、少しずつ吐き気も出てくる。


 ロッカーに行く前に、まっさきにトイレに向かう。


 もう一年近くこんな毎日だった。朝を乗り越えたところで、昼間にも不意に腹痛は襲ってくるし、正体不明の苛立ちが常に胸の中でわだかまっている。


 ―――なんでこんななんだろう…。


 トイレにこもりながら深いため息がもれて、なぜか泣きそうになる。


 仕事内容がそんなに辛いかといえば、そうではない。では、人間関係が最悪かといえば、そうでもない。それなりに厳しい上司や気難しい先輩はいるが、個人的に責められるようなことはないし、いじめのようなものもない。同期の社員もすごく仲が良いわけではないが、べつに仲が悪くもない。俺がこんな情けない状態で働いている一方で、同期のみんなはそれぞれの部署で元気に働いている。


 俺は仕事が嫌で嫌で仕方ない。何がそんなに嫌なのかは自分でもわからない。腹痛や吐き気に襲われるようになったのと同じ時期から、仕事を辞めることばかり考えている。毎日、仕事を辞めたいと思いながらも、辞めた後の行き場もなく、辞めたい辞めたいと呪いのように念じるだけで、結局勤め続けている。


 ―――なんで俺はこんななんだろう…。


 毎日トイレの中で自問自答を繰り返して、答えが出ないまま仕事を始める。


「国見君、おはよう。空調機の定期点検の見積もりはもう取ってくれた?」


 事務所に入ると、さっそく先輩が声をかけてきた。


「おはようございます。はい…」


「製造部のほうと日程調整は済んでる?」


「あ、いや…」


「そろそろ調整しといたほうがいいよ」


「はい」


 笑顔の一つも見せずに、なるべく端的に答える。必要以上の会話をしたいとは思えず、声をかけられないようになるべく静かに過ごしている。相手が誰であろうと、内容が何であろうと関係なく、職場で明るく楽しく振る舞う気分にはなれない。とにかく早く一日が終わることを願いながら、嫌々仕事をこなしている。


 先輩や同期たちからすれば、暗くて、不愛想な人間に見えているだろう。間違ってはいないと自分でも思う。本当はこんなんじゃないんだと思う気持ちもあるが、それでも明るく振る舞ったり、元気よくしたりするような気力は湧いてこない。


 ―――学生の頃はこんなんじゃなかったのに。


 最近ではそんなふうに思うことさえもなくなりつつある。


 学生の頃はそこそこ明るい性格だったと思うが、職場にいる現在の俺は見る影もない。


 しかし、退社して職場から離れれば家族や友達と明るく楽しく振る舞っている自分がいるし、休日には腹痛に見舞われることもなく、学生時代のように元気に過ごせている。職場にいるときの自分と、そうでないときの自分との乖離が、日に日に大きくなっていた。



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