密室の青春=(愛情+引きこもり)に訪れたとある変化

茜あゆむ

第1話

(母に抱きしめられる夢を見た。オキシトシンの放つミルクの香りの体臭が胸をいっぱいにして、こみ上げてくる懐かしさに首を傾げた。安心、という名の香り。私よりもずっとあたたかい母の身体がぎゅっと押し付けられ、夢を見ていると気付いた私はその生々しさに驚いてしまい、夢から覚めたあと後悔した。抱きしめかえせばよかった、と。)


 紬が目を覚ましたことを感知したサポートAIが暖房機に働きかけ、室温を調整する。かすかな照明が点灯し、壁紙には淡い色彩が移ろって、部屋は胎動する。

 カーテンが開いていくが、まぶたをゆっくりと開けた紬はベッドから手を伸ばして、それを制した。薄布はふたたび幕を閉じ、部屋は暗灰色に沈んだ。


(灰色の海辺。東西に干潟が続く長い海岸線には、白波が立っている。険しい断崖と白い海鳥。塩辛い波しぶきが家をきしませる、灯台のふもとの崎守の小屋。)


 春の海がそうであるように、絶えずうねり、ゆらいでいるのは壁紙だった。

 壁紙には発光酵素がフラクタル構造に配してあり、パターンは人間の視覚では認識できないほど微細な模様で構成されている。ミクロの模様は人間の水晶体で圧縮され、視神経を通じて、視床下部へと至る。そこでは自動生成された壁紙の模様が、状況に応じたホルモンの分泌を促し、情緒をコントロールする。


 安眠効果がある、といって紬の父が作らせたパターンは灰色と乳白色のグラデーションだった。


 学校へは、今日も行けないと連絡を入れる。


+++


「ガニメデとルナリアンは教科書で読んだね?」


 という父の問いに、紬は頷いた。


「それじゃあ、被造物という言葉の意味も分かるかい?」


「つくられたもの、ってこと」


 知らないはずの場所を懐かしく思う気持ちは、どこからやってくるのか。覚えてもいない記憶が突然に思い出されて、それは本当にあった出来事なのか。


「人類は木星の裏側でつくられたんだ。そこで初めに覚えたことは、恐怖だった。息が詰まりそうな感覚を、どうしてぼくらは”怖い”だと知っているんだろうね」


 神経シナプスがフラクタル構造を取り、パターンは再帰する。感情は構造化され、記憶と結びついて、新たなパターンを描き出す。


「すべての感情はつくりだされたものなんだよ」


(すべての感情はつくりだされたものなの?)


「私の気持ちも、つくられたものなの?」


 そうだよ、紬、と父は言った。


「思い出せないことの中に、紬を方向付けるものがあるんだ」


+++


(額縁に飾られた絵(のようなもの)がある。鮮明な緑の抽象画は壁紙の切れ端に描かれている。それは絵はがきほどの大きさで、表面はごわごわしている。)


 それは、幼いころに紬が壁紙にした落書きだった。だが、彼女はそれを覚えていない。見かけるたび、これはなに、と父に尋ねるが、尋ねたことさえ忘れてしまう。覚えていることが出来ない。


(白い幾何学の花が咲く。丘陵と草原。緑の五線譜の丘。そして、多幸感。花の甘い香りが私の胸をいっぱいにして、湧き上がる愛おしさに思わずむせる。するはずのない匂いはどこから来るのだろう。決して壁紙からではない)


 壁紙は春の野のグラデーションを映し出している。淡い青空と新緑の草原。もつれる稜線は風に揺れる草葉の残像めいている。

 微細なフラクタル構造が描き出す壁紙の色彩・描線は一瞬として同じものはなく、刻一刻と移り変わっていくパターンが思い起こさせるのは、いつも同じ感慨だった。


 このパターンを眺めるたび、紬は魅せられたように動けなくなる。


(お母さん……?)


 呟いてみても、返事はない。


「もう、こんなところに落書きして」


 父の思い出話は、いつも決まった始まり方をする。母の声音を真似て(似ているのかは分からない)落書きを見つけた場面から、はじまる。


「こんなところに落書きして、とお母さんの声がしたんだ」


(パレット、絵の具、筆、筆洗。床に広げた道具で足の踏み場もない。落書きしているところを見られてしまい、声に振り返った)


 紬は、父の思い出話の中に、自分の記憶を見る。声が景色になる。言葉が彩る。


(日焼けした写真、琥珀色の記憶。黄昏を古びた記憶の色だと思う。無数の結晶、直方体でできていて、折り重なった層は色で見分けることが出来る。色の断面が劈開で、割れやすい。思い出の結晶。)


「お母さんの声は、書斎にいるぼくのところにも聞こえていた。けれど、少しの間静かになって、不思議に思っていたら、お母さんに呼ばれたんだ」


 紬の落書きは、書斎から出てきた父の目にも映る。父は落書きと、母を交互に見比べた。母は白い歯を見せる。


(歯を見せた母が、笑っているのだと気付くまでに時間がかかった。)


「これ、残しておこうと思うんだけど」


 父は笑う。いいね。


「紬はちゃんと覚えていたんだね」


 緑の五線譜の丘。

 鮮明な緑の抽象画。

 春の野のグラデーション。


 それは二人の思い出の丘だった。


「あの時、紬はお母さんのお腹の中にいたんだよ」


 だけど、紬は思い出せない。睦まじく話している両親に、疎外感を覚えている。両親が話すような意図で、紬は描いたわけではなかった。それを問いただすこともできない。


 まして、母の顔さえ鮮明ではなかった。


(大きな結晶でできた顔は、一瞬ごとに割れ、砕けて、その表情を無数に変える。砕けた結晶の一つひとつにもお母さんの顔はあって、それぞれが違う表情をしている。)


 母は笑う。結晶が砕ける。結晶の中には、かなしみ・くるしみがある。けれど、母は笑っている。どんな感情も笑って済ませてしまう。


(笑わなくてもいい場面で笑う人だった。)


 顔を思い出せなくても、知っていた。


(お父さんの話を聞いていたから?)


「記憶の遺伝だよ」


 すべての感情はつくりだされたものなんだよ、と父は言う。


+++


 お母さんに抱きしめられる夢を見た。甘く気怠い香りが私の身体を包み、微睡みのような安心感に満たされる。すべて、スキンシップを媒介としたオキシトシンの分泌によるものだと理解しているけれど、私はその心地よさに身を委ねる。これが夢だと気付いているから。


 私はお母さんを抱きしめる。想像していたよりも、身体はずっと小さかった。抱え込むような姿勢で、私の胸元に収まってしまう。それがかなしくて、涙がこみ上げた。


 お母さんの表情は見えなかったけれど、笑っているのが分かった。お母さんがくすくすと声を上げるから、胸がくすぐったい。


「どうして笑ってるの?」


 と私が聞くと、だって抱きしめ方がお父さんと同じなんだもん、とお母さんは言う。


「いつ教えてもらったの?」


 仕方ないじゃん、と答えた声が、自分で想像していたよりも不機嫌で驚いてしまった。怒らないで、とお母さんが言った。


「お父さんに似て、身体が大きいのね」


 ごめんなさい、と私は呟く。母は少し間をおいて、


「何が? 怒ってないよ?」


 と言う。私を見上げているお母さんの顔が、私にはやっぱり見えなかった。白い歯を見せているのだけが分かる。


「お母さんの顔を思い出せないの」


 私がそう言うとお母さんは、あはは、と笑った。


「大丈夫、私も人の顔を覚えるの苦手だったから。だけど、そうだね、思い出せないのはさびしいね」


 いい方法を教えてあげる、と母は私の顔を指差す。何を意味しているのか分からなくて固まっていると、今度はお母さんは自分の顔を指差した。


「紬は私に似ているからね。まあ、私の方が美人だけど?」


 言わなくてもいいことを言って、お母さんは笑った。


「会いたいときには、いつでも会えるよ」


 壁紙の模様がゆっくりと変わっていく。


+++


 母を夢を見ていた。


 長い春休みが終わり、始業式が始まる朝に紬は目覚める。


 紬が目覚めたことを感知したサポートAIは暖房機を働かせ、室温を調整する。カーテンが開けられて、部屋に朝日が差し込んだ。


 紬はゆっくりと起き上がり、音を立てないよう窓へ近付いた。窓から見える景色はいつもと変わらず、何百回と繰り返されてきた朝が、今日も始まろうとしている。


 紬は手を伸ばして、窓の鍵を解いた。


 甘い花の香りが、風に乗って、部屋へ飛び込んでくる。身を包むような心地よい室温は、春の風に吹き飛ばされた。風は、ほんの少し肌寒い。


「室温が変化しています。窓を閉めてください。」


 AIが警告音を鳴らす。


 けれど、部屋にはもう紬はいない。


 真新しい制服に袖を通し、紬は玄関の扉を開ける。


 何百回と繰り返されてきた朝の中に、紬は歩き出していく。

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密室の青春=(愛情+引きこもり)に訪れたとある変化 茜あゆむ @madderred

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