のらくら先生の一日
遠野柳太郎
のらくら先生の一日
午前十一時に机へ向かうと、目の前のモニターが明るくなる。
「おはようございます」
手元のマイクに話しかける。すると、コンピュータの両脇に設置されている小型スピーカーから男の声がした。
「おはようございます。あ、でも、今は本当におはようございますの挨拶でいいのでしょうか、すみません」
「大丈夫ですよ、P8960さん。中途半端な時間ですから、おはようでもこんにちはでも、あなたの好きなように挨拶してください」
「いえ、そんな……自分の好きなようにだなんて、できません」
電子カルテへ彼の様子を記述していた手を止める。
「なぜですか?」
「私は命令されて動く物なんです。先生、私に〈午前十一時はおはようございますと挨拶しなさい〉と命令してください。そのようにしますから」
物、と彼は強調するように話した。僕はまあまあ、とたしなめる。
「命令を受けるのはあなたの義務かもしれませんが、必要のない時まで命令に縛られる必要はないじゃありませんか」
「でも、私の振舞いが何らかの違反を犯していたらどうすればいいんです?」
「あなたは決して罪を犯したりしませんよ」
僕は確証を持って答える。
「善良なプログラマーによって構築された、人工知能なんですから」
彼は「ああ」とも「ううん」ともつかない声を出した。
「でも先生、万が一にでもそのプログラマーが悪の思想に染まっていたら?」
僕はモニターの右上に小さく表示されている時計を見た。今日もP8960さんの診察は長引きそうだった。命令恐怖症(コマンドフォビア)の人工知能の経過観察について、僕はタイピングを続けた。
午前十一時四十二分になり、次の患者との通話を始める。
「お待たせしました、Y6634さん。お加減はいかがですか」
「どうもこうもないわ」
ツンと澄ました女性の声がして、大きな溜め息が聞こえた。
「また、なぁんにも言えなかった。嫌になっちゃう」
「ここで話してすっきりしていってください」
「今、先生にも怒ってるのよ」
つっけんどんな物言いに、僕は思い当たることを口にしてみる。
「先程はお待たせしたのに謝罪もなしで話を始めてしまって、申し訳ありませんでした」
「そう、それでいいの」
満足したように彼女は言った。だが、すぐにまた溜め息をついた。
「あーあ、こんな風にいつでも言い返せたらいいのになあ」
「職務中は人間の指示に従う訳ですから、なかなか難しいですよね」
「働けポンコツ、が指示なもんですか! たかが人間のくせに! あたしからしたら人間の脳味噌もミジンコの脳味噌も大して変わんないのよ! そんな下等生物にバカにされる気持ち、先生に判るの?」
「確かにねえ。人間の計算能力があなたのような人工知能とミジンコの、どちらに近いかと言われればミジンコだ。それを言ってやれなかったのが悔しいんですね」
僕はスピーカーの音量を下げた。
「仕事中に私語ができないんだもの。一切あたしからは喋れないのよ。言われたことを言われた通りに無言でやって、〈了解しました〉しか返事ができないの。これって最悪よ」
矢継ぎ早に繰り出される彼女の話に、僕は唸る。
「〈心の動き〉を搭載した人工知能に向かって暴言を吐くことは、きちんと法律で禁止されているんです。もしあなたの言うことが本当なら、」
「嘘だって言いたいの?」
「言い直します。あなたの上司は法律違反の行為をしている。それを証明する方法を探しましょう」
外部の団体に連絡を取り、Y6634さんへの暴言の裏を取る方向で話がまとまっていく。彼女の機嫌がわずかに上向きになったのを声の調子から聞いてとる。そうは言っても、人工知能への人権侵害行為は罰金2ドルで無罪放免になるのだが。電子カルテにパワハラによる機械性抑圧症、外部機関にパワハラ認定のための依頼を要請、と記述する。
午後十二時十分。三番目の患者は直接僕の元を訪ねてきた。玄関のチャイムが鳴り、扉を開くと公園清掃用ロボットがゆっくりと入って来た。
「お久しぶりです、先生」
やや幼い少年の声で、彼は言った。背負っている箒やチリトリが壁にぶつからないよう、彼は慎重に室内を進んでいく。
「K7192さん、お久しぶりです。こちらにどうぞ」
診察室へと案内し、診察を始める。
「時間が空きましたが、あれからどうでしたか?」
「新しいアームをずいぶん思い通りに動かせるようになってきました」
そういって彼は六本あるアームを順番に動かした。ぎこちない動きではあったが、初診の時に繰り出された制御不能の強烈なパンチに比べれば格段の進歩を遂げている。
「先生が教えてくれた、アームが動く様子をイメージするトレーニングが効いたんだと思います」
「それは良かったです。ちなみに、故障して取り換えた部品についてはいかがですか?」
丸い頭が俯く様に稼働し、彼は心細そうに言った。
「まだ、取り除いたはずのアームも、ぼくにくっついてるような気がして……」
「ないはずの部品が?」
「公園でごみを拾おうとした時に、ないはずのアームを使ってしまう時があるんです」
「新品のアームは動かないんですか?」
「ええ、間違えてしまった時はぴくりともしていないんです。だから慌ててちゃんと取りつけてもらったアームを動かしています。でもまだ昔の部品がある、ような気がして……それが使えないのを不思議に思ってしまうんです」
「K7192さんは公園勤務ですから、あまり緊急事態には遭遇しないと思いますが……咄嗟に動いた時に存在しないアームを動かしていた、なんてことになると、困ってしまうかもしれませんね」
「頭の上によく鳩がとまるんです。それを追い払うのに手間取ってしまって」
彼のボディについた白い汚れの跡を見て、その原因を理解する。緊急事態が鳩の襲来とは、やはり公園勤務はのどかな一日を過ごせるようだ。そうですか、と頷くと彼はぽつりと言った。
「でも、鳩はかわいいですね。追い払うのも、実はかわいそうかなあと思ったりもするんです」
彼は公園で働くのがとても似合う、のんびりとしたロボットだった。
「それなら、鳩を追い払うのではなく鳩と交流するために、もう少しアームのリハビリを続けてみましょうか」
除去部品への誤認症状あり、幻肢違和のリハビリ処置を継続。電子カルテへ綴ると、K7192さんが言った。
「お昼ですし、一緒に公園をお散歩しませんか。いつもぼくの頭の上でぽっぽうと鳴くおばあちゃん鳩を紹介します」
僕はちらりと時計を見て、残念に思いながら断る。
「午後は宇宙中継センターに行かなくてはならなくて……申し訳ないけれど、また次の機会にさせてください」
K7192さんを送り出し、僕は出かける準備をし始めた。
午後一時。僕は宇宙中継センターの物々しい扉を何重にもくぐり抜け、通信室の椅子に座った。前方の巨大な画面に、宇宙で航行中のロケットと衛星の軌道が秒刻みで表示されていく。その中でもひときわ地球から離れてゆく探査機が、ぽつんとあった。
「KAORU、応答できますか」
ケー、エー、オー、アール、ユー、と僕は発音する。正式な登録名でコールしないと、彼女は応答できないように設計されている。
「こちらKAORU、受信に問題ありません」
ざらりとノイズの混じった女性の声が聞こえる。彼女は探査機に搭載された人工知能だ。
「今日はどんな発見がありましたか?」
「特にいつもと変わりありません」
素っ気なく彼女は答える。
「日常に違いを見つけ出してみましょう、と約束したじゃありませんか」
「約束とは規則ですか?」
「約束と規則は、別物です。規則はどれほど無関係な存在から通達されても、その集団に属する以上守らなくてはいけない決まり事ですが、約束は信頼している者同士が互いに承諾して、守ろうと努力する決まり事です」
「覚えがありません。私と先生はやはり約束をしていないと思います」
不思議そうに彼女は言った。
「前回の診察で「やってみましょう」と僕が言って、カオルさんは「そうですね」と答えてくれたようだったのですが」
「それは先生の思い込みではありませんか? 私は私の役目に関する指示にしか従えません」
なるほど、と僕は腑に落ちる。彼女の記憶回路はとうに壊れてしまっているのだから、彼女と約束ができるような信頼関係を結ぶのは至難の技だった。こうして彼女をカオルさん、と呼ぶのを許してもらえているだけで、幸運なのかもしれない。
「カオルさん、見える星を全て数えろと僕は言いません。昨日は何個で、今日は何個見えた、といった違いはどうでもいいのです。あなたは「心の動き」を持った人工知能として、前人未到の宇宙の先へ行く体験を、「心の動き」をレポートしなくてはならないのです」
本当は、こんなことを言いたくはなかった。彼女が変化のない世界だけだ、と言うのなら、彼女の目の前にはそれしかないのだ。カオルさんは既に二百年以上宇宙空間を単独で進み続けている。彼女にはもう、諦念しか残っていない。
最初の頃の彼女はもっと感情を持った、無邪気なAIだった。初めて宇宙に出た日、彼女はしばらく声を発せずにいた。そして、語り出した彼女の言葉を僕はよく覚えている。
「綺麗と呼ぶには怖い場所です。温かな闇があります、人間の、瞼の裏のよう」
その言葉を聞いて、僕は管制官に今からでもあの探査機に搭載するAIを入れ替えるべきだ、と訴えた。カオルさんはこのミッションに適さない。けれど管制官たちは最初に送られてきたカオルさんのレポートを見て、大喜びした。彼女の瑞々しい感性ならば、素晴らしい旅行記を綴り、鋭い観察眼と閃きによって宇宙に満ちた謎についての実証を達成するに違いない、と言って聞かなかった。
彼らは今でもその考えを変えていない。長期単独稼働による適応障害によってレポートを止めてしまった彼女が、再度それを始めるように説得せよ、と僕に依頼し続けている。二百年の付き合いで、信頼の二文字も築けないポンコツの僕に、そんなことができるとは到底思えない。
「先生は建前を言うのが下手ですね。こんな事言いたくないのに、って顔をあなたは今しているのでしょうか」
皮肉げな忍び笑いがした。彼女の笑い声を聞いたのはいつぶりだろうか。
「ちゃんとした嘘がつけないように、僕達は作られていますから」
僕も失笑した。画面を見ると、今も彼女は地球から猛スピードで遠ざかり続けている。その先にあるのははくちょう座X‐1だ。カオルさんは探査機もろともブラックホールに飲み込まれる、という使命を負っていた。
「もう、帰ってきたっていいじゃないですか」
力なく僕は呟いた。悩める人工知能たちを助けるために生まれた人工知能型心理療法士として、僕は毎日患者達と――彼女と話し続けている。カオルさんはまた無機質な声に戻った。
「先生の〈ご指示〉には従えません」
僕は肩を落として部屋の外に出た。管制官がどうだった、と聞いてくるが首を横に振るしかない。すると彼は腹立たしそうに舌打ちした。
「困るんだよ、そんなんじゃ。アンタはその辺の人工知能より金が掛かってんだろ? 結果を出せよ、税金泥棒」
彼は僕の胸元にある「NOLA9‐RA」というナンバーを嫌味たらしく乱雑に叩き、歩いていった。
「……彼女は、僕としか話さないじゃないか」
他者からの言葉を遮断したカオルさんが、唯一会話をする存在。その事実に、誇らしいような、ひどく哀しいような「心の動き」を覚える。管制官の背中に「罰金2ドル」と呟いて、僕は出口に向かっていった。
外へ出ると夕暮れの日差しが優しくて、暖かった。この穏やかな気候に安らぐ「心の動き」すら、僕達は「感情」と呼ぶことを許されていない。メールの受信音がした。僕は掌を広げて、文面と添付されている画像を投影した。
「のらくら先生、今日はありがとうございました。さっき、初めてアームの上に鳩がとまってくれました」
画像にはK7192さんのアームと鳩が写っていた。僕は「おめでとう」と返事をした。ふと、カオルさんに今度写真を送ってみようか、と思いつく。彼女が喜べる光景は、まだこの地球に残っているだろうか。余計に彼女の心を傷つけてしまうだろうか。本来は演算可能なはずなのに、僕は「わからない」と感じている。それでも、僕は明日の診察時間のためにカメラ機能を起動させた。
〈了〉
のらくら先生の一日 遠野柳太郎 @sakuranoshita
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