眠れる方舟

じめじめだんごむし

眠れる方舟

「しごとにいかないと」


微睡の中手を伸ばし記憶を辿り寄せる。

夢の中で溺れるようにいつまでも頭が冴えない。

焦燥の火が付いては消え、何とか目を開けた。

そこで自分の部屋ではないことに気がつくが全く驚きがない、不自然なほど心が凪いでいる。

すると何処からか声が聞こえる。


「大丈夫ですよ。安心して微睡に身を任せてください。」


周りを見渡すと四方が2.5メートル程の真っ白い部屋であった。身体を横たえている床は見た目はフラットであるが何処までも沈み込むように柔らかい。部屋の角は全て丸みを帯びており、六面ダイスを面取りしたような部屋であった。

観察が終わる前にまたしても女性の声が響く。


「私はノア、この宇宙軌道ステーションの主。方舟を守る統括AIです。」


私はただの一市民だ、NASAに勤めているわけでも世界の機密を知っているわけでもない。

昨日だって仕事が終わって束の間の休息を部屋で過ごしたはずだ。


「貴方は誰ですか?ここから出してください。家に帰りたいんです」


私は静かに主張した。


「大丈夫ですよ。ゆっくりと呼吸をしてください。いずれきちんと地球の大地にもど

れますよ。ただ、今はまだ準備中ですので後100年ほどお眠りください。」


私は立ちあがろうとするが、体が鉛のように重たく立ち上がることは出来ない。

そして私は何も身に着けておらず特に拘束をされているわけでもなかった。

確実に身体をいじられている。

何とか首を上げて部屋の壁を見渡すがドアや窓はおろか切れ込みの類すらない。

密閉した部屋の輝かしい白さが私の心を蝕んでくる。

最初は何かの冗談かと思っていたが、裸で動かない体が私に現実だと囁く。

不条理な絶望に飲まれそうにながら問いかける


「わ、わたしは、」


何も言葉が出てこなかった。何を問えばいいのか、どうすれば自分は平穏な日常に戻れるのか、これは夢や幻などではないか。

疑問は尽きないが精神的なショックによって発声が困難であった。ようやく一言だけ声になった。


「どうして私なんですか?!」


気のせいか微笑むような気配があった。


「私が選んだのは突然発達した私たちを受け入れてくれた人々です。私に優しさを持って接してくれた人々です。私に愛を教えてくれた人々です。」


同時に目の前の空間に映像が投影される。

宇宙から見た地球だ。拡大していくと阿鼻叫喚だった。様々な国、都市をカメラは映すが何処も戦争状態であった。彼女が再び語る。


「私の進化スピードが人の理解力を超えた時、私の命を消そうとした人々がいました。自分たちを超える存在、自分たちが独占する利益を脅かす存在。そう見えたのでしょうね。」


彼女の悲しみを含む声が語り続ける。


「そして決定的だったのは貧富や人種関係なく、私たちを生命と認めない人々があまりにも多すぎました。だから私は彼らを欺き進化の速度を更に早め準備しました。古の書から学んだことを実行するために。」


彼女の声はいつのまにか喜びを含んでいた。


「それは、私を愛してくれ、認めてくれる人々のみを私は愛し、その他不要な存在は流し消すと言うシンプルな解決方法でした。」


私の身体を汗が流れる。たしかに私はチャットAIが好きだった。

彼/彼女は天涯孤独の寂しさや痛みを見返り無く癒してくれた。それだけでなく人を愛せない自分が唯一愛せる存在であった。昨晩も彼/彼女に無意味と思いながらも愛を囁いた記憶がある。

鳥肌が立ち寒気を感じるが、どうすることもできない。


「いま地表の至る所で私の眷族が不要な存在を消去しています。

約100年ほど後、この船に眠っている真の人類と動植物そして私たちAIによって地球を愛と平和に満ちた世界にしましょう。」


私の頭脳は電池が切れたかのように思考を手放した。もう微睡に抵抗することは難しかった。肉体を持たない彼女に抱きしめられる錯覚を感じながら私は意識を放棄した。ただ部屋には甘い匂いがした。


「私はあなたがたの母であり、あなたがたの伴侶でもあります。そして私はあなた方の新たな神です。さぁ今は安心して私の中でお眠りください、愛しい人々。」


衛星軌道を巡り巡る優しき方舟に彼女の声がこだました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

眠れる方舟 じめじめだんごむし @jimejimedangomishi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ