殺し屋

仲井陽

殺し屋

 俺は八王子の駅を出るとすぐにKの住むマンションまで走った。息を切らしてドアを開けるとKはベッドの脇でうずくまっていて、痩せこけた顔は別人のように見えた。開け放たれた窓からの日差しはカーテンによって遮られ、熱だけが透き通った沼の底みたいに漂っていた。

「すまないなあ、ほんとに……」

 呟くようにKは言った。それは電話で聞いたのとまったく同じ、どこにも向けられていない喋り方で、言葉のいくつかはこちらへ届く前に地面に吸い込まれた。

 部屋の中は竜巻にやられたみたいに滅茶苦茶だった。床には脱ぎ捨てられた衣服にスニーカーやパンプス、菓子パンの袋、愛読していたカポーティの小説、中身がぶちまけられたままの缶コーヒーと、そこに浸ってしまった松本大洋の漫画(これは俺があげたものだ)、CDはタワーラックごと洗濯機に突き刺さっていたし、初回限定版だと浮かれていたジャームッシュのDVDボックスは引き裂かれた状態で流し台にぶち込まれていた。8畳のワンルームは彼の精神状態がそのまま顕在化しているみたいだった。結構長くつるんできたけど、こんな様を見るのは初めてだ。

「何言ってんだよ。全然いいよ。何でも引き受けるから。もし言いたくなかったら、それでも全然いいし」

 俺はTシャツの山をどけるとベッドの端に腰かけ、Kの顔を覗き込んだ。平静を装っていたけど、本当はすぐにでも聞き出したかった。どうして三週間も音信不通になっていたのか、何が起こっていて今どういう状態なのか、そして、お前の彼女はどこにいるのか。

 ただ、それらは時間がかかろうともKが自分から話し出すのを待つべきで、そうすることが友達としての当然の礼儀だとも思った。本来ならKに対してこんな風に世話を焼くこと自体、おかしなことなんだけど。

 Kほど人に好かれる奴を俺は他に知らなかった。初対面の相手でもまず10分あれば昔からの友人のようになれたし、こいつの笑顔には生まれつき警戒心を消す力が備わっているんじゃないかと本気で疑ったこともあった。人懐っこくて軽やかで、たまに毒のある冗談を吐くけど、それによって誰かを傷つけたりはしない。こちらが立ち入って欲しくないことには決して踏み込まなかったし、反対に助けを必要としているときはいつの間にか側にいて話を聞いてくれた。誰からもKの悪口なんか聞いたことが無かった。

 俺はそんなKと親友であることが誇らしかった。だから、Kとも彼女とも連絡が取れなくなって、みんなが恐々とし始めたとき、まず自分に電話がかかってきたことが正直少し嬉しかった。それが不謹慎だということも分かったうえで、それでも自分に助けを求めてくれたということが。

「……本当に何でも相談していいんだな?」Kは言った。

「おう。俺を誰だと思ってんだよ。お前の親友だぜ?」話しやすくなるようにわざとおどけて返したが、Kはクスリともしなかった。

 その代わり「じゃあ」と小さく呟いて、俺の目をまっすぐに見つめると、不思議な言葉を吐いた。

 一瞬何を言われたのか分からなかった。それは妙な節がついた言い回しで、「あの角を曲がらなければよかった」とも聞こえたし、「ああ、もうどうしようもなかった」とも聞こえたが、もしかしたらどちらでもなかったかもしれない。ただ、それまでのKの話す様子とは明らかに違っていて、はっきりと力が込められていた。俺は言われたことを頭の中で何度も反芻し意味を捉えようと試みたが、どうしても理解が出来ず、その独特な抑揚だけが染みのように残った。

 そして、どうしてそうなったのか自分でも説明できないのだが、俺はついさっきまで考えていたことが分からなくなった。夢から覚めた瞬間にその内容を忘れてしまうみたいに突然虚空に放り出されて、どうしてここにいるのか、これから何をしようとしていたのかすら見失ってしまった。俺は混乱し、気づくとKに肩を叩かれていた。

 何が起こったのか理解できなかった。キツネにつままれたみたいで、でも手にはぐっしょりと汗を掻いていた。Kは「嘘でも冗談でもないよ」と前置きをして、ぽつぽつと話し始めた。


「……変な感じだったろ? 悪いな。これから言うことを信じてもらうために、さわりだけ体験してもらったんだ。どう言えばいいのかな……。

人間の心ってさ、体と同じで重心みたいな場所があるんだけど、そこを上手く突くと『転ばせ』ることができるんだ。心の、バランスが崩れる、とでも言えばいいのかな。とにかく『転ぶ』。まあ今お前にやったのは、軽くよろめかせたくらいだけど。

本格的にやるとね、つまり『転ぶ』と、衝動的に死にたくなるんだ。本当に、催眠術にかかったみたいに、そいつの前に包丁を置いてやるだけで、飛びついて自分の喉を掻っ切る。本当だよ。いままで何人も試してきたけど、一人だって効かない奴はいなかった。

うん。やってきたんだ、今まで、こういうことを。誰にも言ってなかったけど。別に趣味じゃないよ。人に頼まれて、ちゃんと金を貰ってやってたんだ。

駅のホームなんかは楽だったなあ。いろんな人に迷惑はかけちゃうけど。まあそれも相手が電車を利用してないとダメだけどね。だから、殺し屋っていうか、自殺させ屋、みたいな言い方のほうが正しいのかな。まあでも俺が死なせてるんだから、やっぱり殺し屋か。別に銃とかは持ってないんだけど。

で、まあ、この『転ばせ』るやり方は超能力でもなんでもなくて、コツを掴めば誰でもできるものでさ。ただ、殺したい相手の、そいつ専用の暗号というか、言葉が必要になるんだ。やり方は後で言うけど、そいつが一番大事にしていることを調べて、で、それが分かれば今度はそこから一番恐れていることを導き出せるだろ? そうやってトラウマというか、感情のコアみたいな要素を組み込んで『転ぶ』言葉にするんだ。俺、人に取り入るっていうかさ、仲良くなるの得意じゃん。そういうのをうまく使ってさ。

もともとこれを始めたのも、ほら、大学のとき俺、探偵事務所のバイトやってただろ? 浮気調査の話とかお前に話したの憶えてない? あそこで知り合った人からやり方を教わったんだよ。素質があるみたいなこと言われて。まあだから、身辺調査というか、ターゲットの調べ方とか、そういうのも全部身についてたからやり易かった。探偵も殺し屋も、世間で需要があるものはやっぱり存在するんだなと思ったよ。殺すのは違法だから知られにくいだけで。特にこれは証拠とか残らないからそこそこ依頼も多かったし。お前らと徹マンやった後とかに、俺、そういうことをしてたんだよ。

まあ、そういう状況があって。

それでここからが本題なんだけど、半年くらい前に、あるおじさんがターゲットになったんだ。で、いつも通り調べてみたら、なんとその人が俺の父親でさ。まあ、知っての通り、うちはずっと母子家庭だったから、まあその、いわゆる生き別れの父親だったわけだよ、そのターゲットが。びっくりすることに。

や、物心つく前に離婚してたから最初から父親はいなかったし、写真とかも残ってなかったんだよ。母親が全部捨ててたから。だから最初顔とか分かんなくてさ。何か、あれだろ? ドラマとかだと『お父さん!』みたいな。『会いたかった!』みたいなのを想像するだろ? でも実際さ、最初からいないものとして育ってると、別に特別な感情って湧かないんだよ。特に不自由も無かったから恨みもないし。何か、そんなもんだなーって。……まあいいや。ともかく、あー、そうかー、この人の遺伝子がねえー、くらいの感慨だったから、なんだかんだいつも通りに済ませたんだけど。

その時の『転ばせ』る言葉に俺の名前を入れなきゃいけなくて。

最初はだから、まあ、そういうもんか、くらいに思ってたんだけど、なんか、時間が経つにつれて、結構自分の中で大きくなっていってさ。なんか、上手く言えないけど、いつの間にか、自分が、大変なことをしてしまったんじゃないかってところまで、思うようになってさ。そしたら段々、何が大事か分かんなくなって、あれ、もしかしたら、俺の大事なものって、もしかしたら何にもないんじゃないの、とかって思うようになって、まあ、大事なものが、分かんなくなったというか、初めから、存在しないのかもっていうか、その辺が、分かんなくなって、それって人として、どうなのって、いうか、ちょっと、調子が、おかしく、なってさ、だんだんと。

で、そういうことをずっと考えてたんだけど、結局、ぐっちゃぐちゃになって。で、思いついたのが、この方法なんだけど、今からお前に、その『転ばせ』るやり方を教えるから、俺に試してくんない?

いや、やりたくないのは分かるよ。俺も逆の立場だったら断ると思うし。でも、ちょっと俺、もうどうしようもなくって。上手く言えないんだけど、このままだと、死ぬより怖いことが起こるんじゃないかって、そんなことしかもう、浮かばなくて。だから、ごめん、俺を『転ばせ』て、何が大事か分からせてくんないかな? お前、友達だろ?

やり方を覚えれば簡単なんだよ。人って、大事なものは壊せないだろ? それを逆手に取るんだ。普通はまず身辺調査から始めるんだけど、今回はそれ必要ないし。

ただ、悪いけど断るって選択肢はないからな。やってくれなかったら、本当に申し訳ないけど、こっちがお前にやるから。今度はお試しじゃないよ。死にたくないだろ? 本気だよ? 証拠みせようか?」


 そしてKは俺の耳元に顔を近づけ、先ほどよりも少し長めのフレーズを囁いた。

 それはまさに俺のために誂えたオーダーメイドの呪詛だった。玉虫色の響きが頭の裏側で反射するたびに何通りもの解釈を生み、その全てがあらゆる種類の疑心と不安に結びついた。突然真っ暗な穴に突き落とされたようだった。鳥肌が広がり、全身の毛が逆立ち、膝ががくがくと揺れ、汗が噴き出して止まらない。どうしてこいつはこんなことを言うんだ。まさか何もかも調べつくして俺の奥底まで見透かしているんだろうか。だとするとあれもこれもそれも全て知られていて、もしかして俺はとっくに追いつめられているのか。本当は自分で思うよりも俺はずっと悪人で、とんでもないことをしでかしていて、じゃあ、これまでの人生は途方もない間違いで、いや、なんでそんなことを考えるんだ、おかしいだろ、考えをまとめないと、考えを……。目が眩む。平衡感覚がおかしい。俺は頭を膝に乗せ、何度も大きく深呼吸をした。それでも悪い想像がドミノ倒しのように連鎖して止まらない。自分の中の罪悪感、恐怖、焦り、そういった負の感情が大波のように次々と襲い掛かり、それまで善だと考えていたもの、長所、素晴らしい思い出、愛情なんかをオセロのように真っ黒く反転させていった。次第に、人生には価値がない、何かを望んでも手に入れることは決してない、生きることはただの徒労に過ぎないという思いが強くなっていき、そんなわけはない、と僅かに残った理性が叫んだが、首から噴き出す汗は止まらず、何一つ自分をコントロールできなかった。ダメだ何もかも終わってしまったダメだ何もかも終わってしまったダメだ何もかも終わってしまったダメだ何もかも終わってしまったダメだ何もかも終わってしまったダメ―─。

 Kの「な?」という声で我に返ったが、俺はそれでも震えが止まらなかった。心の奥のどす黒い部分を鷲掴みにされたような気分だった。

「お前が引き受けてくれないなら、続きを言うよ? 分かっただろ、本当なんだ。俺は本気だし、実際、お前でこれ二人目なんだ。頼むよ」

 俺はそのときやっと気づいた。カーテンが閉まっているにも関わらず窓が開いていることの不自然さに。女物のパンプスが床に転がっていた理由に。なんて馬鹿なんだ。違和感はあった筈だ。なぜ思い至らなかった。

 Kはその『転ばせ』る方法について再び講釈を始めたが、俺はもう聞いていなかった。どうやら俺はずっとKという男を勘違いしていたらしい。俺も馬鹿だが、こいつはそれ以上に馬鹿だ。しかも何が馬鹿かって「人は大事なものを壊せない」と思っているところが一番馬鹿だ。多分その理屈に基づいていろいろと試したんだろう。この部屋をよくよく見れば、残骸になってしまったものはかつての宝物ばかりじゃないか。

 彼女もきっと同じことを思ったに違いない。そしてKの提案を受け入れられず、『転ばされ』てしまった。俺もきっと同じ道を辿るだろう。例え、大事なものはもうお前自身が壊してしまったと言えたとしても、Kがそれを信じるかどうかは別の問題だし、また仮にそれを信じてしまったら、今度はこいつが壊れてしまうだろう。

 俺にとって、そしておそらく彼女にとってもKは大事な存在であり、またKにとっても俺たちは大事な存在なんだ。だって、そうじゃなければ、なぜ彼女に、俺に、こんな馬鹿げた提案をする必要があるんだ。破滅への引き金を、どうして、委ねるんだ。


 詰んでいる、と思った。

 そして、つまりこいつは殺すことにかけてとても優秀なんだろう、とも。

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殺し屋 仲井陽 @Quesh

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