3. 宵の明星



 ついに決行の日。夜。  

 あたしたちは夜を待って、夜宵の家の前に立った。今日、あたしたちは夜宵の家にいる化け物を退治する。この時間、夜宵によるとあいつはお酒を飲んでテレビを見ているようだ。   呼吸の音が、心臓の音が、うるさく感じる。  

「こっちよ」

 夜宵の案内に続いて、足音を忍ばせて二人裏口からこっそり侵入する。テレビの笑い声がこの状況にマッチしない。あたしたちの息遣いが聞こえていないか、ひやひやする。

 あいつはテレビの前に転がって酒の瓶を傾けていた。

 背後に忍び寄って、息を詰める。横にいる夜宵とアイコンタクトを交わしたあと、木製バットを振り下ろした。


 あたしの振り下ろした先は肩だったけれど、夜宵は空振りしてしまった。

 あいつは振り返ると、ぎょっとした様子でこちらを見た。その視線の先にはぶるぶる震えながら構えているあたしと、夜宵の姿があった。咄嗟に夜宵を守ろうと夜宵を後ろに隠す。

 あいつの目が恐怖から怒りに変わっていくのが手に取るように分かった。ほんとうに獣みたいな、ぎらぎらとした目だった。

 足が震えて動けない。

 化け物はあたしの髪をひっつかむと、反対側の拳を握りしめてあたしの顔に振り下ろした。バットは手を離れ、子どものあたしの身体は簡単に吹き飛ばされた。

 身体中に激痛が走り、頭がくらくらとする。

 怖い。緊張で麻痺していた恐怖感によって、身体がガタガタと震えていた。

 あたしたちは男の人がこんなにも恐ろしいものだと、全然分かってなかった。

 初めて、殺されてしまうと強く思った。

 歪んだ視界で化け物をみつめると、あいつは怒りで顔が歪み、下卑た笑いを浮かべて、あたしを見下ろしていた。怒った男の人はこんなにも怖かったのか。それを夜宵はいつも耐えていたのか。  

 化け物の背後で夜宵がバットを振りかぶる。

 いけ! あたしに気を取られているうちに倒せ!

 夜宵は震えながら木製のバッドを化け物の背中に振り下ろした。

 ──ごきっ。

 人体からするとは思えない音がした。振り返った化け物の目に、怒りの色が宿る。明らかに危ない目をしていた。化け物はふらふらになりながらも隣の台所へ歩いて行く。

 早く逃げようとするも、立ち上がれない。夜宵も腰が抜けたのか、座り込んでしまっている。

 戻ってくる足音がする。早く、ここから逃げないと! 

 どうにか立ち上がったところで、夜宵の背後に化け物があらわれた。荒い呼吸に、血走った目で夜宵を睨みつけている。 

 夜宵は座り込んだまま、焦点の合わない目で床をみていた。

 キラリと光が反射する。化け物の手には冷たく光る包丁が握りしめられていた。

「夜宵っ、後ろ!」  

 夜宵はあたしの声に反応して咄嗟に背後を振り返り、逃げるのが遅れてしまった。

 ̶ ̶その遅れが命取りだった。  

 鈍色の包丁が夜宵のお腹に沈んでいく。

「やめてえ!」  

 あたしは叫んだ。

 夜宵が自分の腹を見て、口からごほっと血が吐き出す。夜宵の真っ白なワンピースが一瞬で赤く染まっていった。次の瞬間、化け物が包丁を抜き、今度は心臓を狙って振り下ろそうとしていた。  

 世界が白黒に色褪せていく。その中で、夜宵の真っ赤な血だけが、鮮やかに発色していた。  

 あたしはよくわからない奇声をあげると、落ちていたバットを拾って、振りかぶった。  

 夜宵を助けるんだ。

 不思議と重さは感じなかった。あたしは化け物の頭に、思い切り振り下ろすと、今までとは比べ物にならないほど大きな音がした。

 化け物はゆっくりと振り向き、怒りの色を滲ませてあたしをみつめた。それも一瞬で、白目を剥くと、どすんと大きな音を立てて倒れた。  

 呼吸が荒くなる。

「うぅっ」  

 夜宵が低く唸った。

「夜宵っ、大丈夫?」  

 あたしは一目散に夜宵のそばに駆け寄って、止血しようする。

「大丈夫。だから早く、逃げないと……」

 夜宵はよろよろと立ち上がり、あたしの手を掴んだ。そのまま怪我をしているとは思えないほど、すごい勢いで家を飛び出す。   

 ざぶんと、波の音が聞こえた。夜宵と駅へ向かおうと足を早める。でも、夜宵の手はもう、氷みたいに冷たい。  

「どうしたんだい、お嬢さん? もう帰らないといけない時間だろう?」  

 どくんっと心臓が鳴る。通りすがりの、ジョギングをしていたと思われるおじさんがあたしたちの背後から話しかけてきた。

 冷や汗がこめかみから顎に伝って、アスファルトの上に落ちる。

「はぁい、今帰るところでーす」  

 あたしは明るい声を出して返事をした。

「暁楽、ごめんね。わたしを置いていって。もう、身体が……」  

 夜宵の身体から力が抜けて膝をつく。

「ん? 大丈夫かい……?」  

 あたしたちを心から心配している声色で、おじさんが駆け寄ってくる。  

 ……やめて。来ないで。あたしたちに、関わらないで。  

 あたしの願いは叶わず、雲の隙間から月明かりが漏れて、あたしたちの姿が浮かび上がってしまった。おじさんは血まみれのあたしたちを見て、ひっと小さく悲鳴をあげた。

「きゅ、救急車呼ばないと……」  

 ポケットからスマホを取り出して電話をかけている。

 その背中を横目に、夜宵が崩れ落ちた。あたしは夜宵を支えて、片方の手で止血しようと抑えた。それでも、抑えても抑えても血が溢れ出してくる。

 あたしはたまらずひっく、としゃくりあげた。  

 空を見上げて、夜宵を抱き抱えて、あたしは大声で泣き始めた。こぼれ落ちた涙が夜宵の美しい顔にぽたぽたと落ちる。

 ぐったりとした夜宵がゆっくり目を開けて、あたしの頬に血まみれの手を添える。

「大丈夫だよ」

「えっ……?」

「こんな人生はね、ただの夢だから。誰かの見ている悪夢。だから大丈夫」  

 夜宵は温かくって、諦めたような顔でつぶやいた。弱々しくて震えている身体を抱きしめる。  

 夜宵は慈しみの眼差しをあたしに向ける。一瞬、あわてて警察に電話しているおじさんも、波の音も遮断されたように無音になった。    

 世界で二人っきりになったような錯覚に陥る。  

「ありがとう……。わたしを、救ってくれて」  

 月が雲に遮られて辺りが暗くなる。夜宵の表情が見えなくなった。美しい星空は分厚い雲が覆い、暗くなり、ぽつぽつと雨が降り始めてきた。まるで、あたしの心のように一気にざあざあと降ってくる。  

 サイレンが鳴っている。ゆっくり近づいてきていた。  

 あたしは耐えられず、おんおんと泣き出した。赤く回転する光と非常時を鳴らすサイレンが近くに止まる。少し離れたところで警察車両も止まっている。  

 ジョギングのおじさんが警察官にこちらを指差しながら説明していて、救急車から五、六人の救急隊員がこちらに走ってきた。

 右頬に殴られた跡、左頬に夜宵の血がべっとりと付着しているあたしと、意識がなくなってお腹に穴が空いて、血が止まらない夜宵を見比べて近づいてくる。  

 一人、お母さんと同じくらい歳の女の人があたしに付き添い、他の人たちは夜宵を担架に乗せて慌ただしく運びこんだ。

「どうしたの? 大丈夫? 何があったのかな? 両親はどこにいるの?」  

 あたしはぼんやりとみつめ返すと、女の人の表情が不憫そうに変化していく。  

 心神喪失状態からハッと我に変えると救急車の方へ走り出す。いろいろな器具をつけられた夜宵に縋り付く。すぐに若い救急隊員に引き離されるも、あたしは取り乱しながら哀願した。

「ねぇ、お願い。夜宵を、夜宵を助けて! あたしの親友を助けてよぅ!」






 ◾︎◾︎◾︎






 あたしは救急車に運びこまれた夜宵と一緒に、ここら辺で一番大きな総合病院に搬送された。警察も救急車の跡を追ってきた。

 夜宵はすぐに多くの大人と手術室へ運ばれ、あたしは女の人に連れられて、別の病棟へ連れられて頬の手当てをしてもらった、血まみれなあたしは他の救急患者やその家族の関心の的となった。その間、警察の女の人はあたしに何も聞かなかった。  



 手術控え室に連れられると、女の人は温かいココアを持ってあたしの横に座った。控え室にはあたしの他に、明らかに警察らしいおじさんが二人対面の席に座り、一人はお父さんくらいのおじさん。もう一人はお爺さんの年代に差し掛かっているような人だ。ココアに口をつけると、待ってましたと言わんばかりにおじさんたちが手帳を開き、女の人はおじさんたちに会釈をすると席を立った。  

 おじさん警察官はメモをとる姿勢で、もう片方のお爺さん警察官はあたしをじっとみつめて、話しかけてきた。

「お嬢ちゃん、名前は?」  

 しわがれた優しい声だった。

「望月、暁楽」

「両親は?」

「今、東京に、仕事に行ってます」

「そうかぁ、歳幾つ?」

「十、五さい」 「中学生?」

「いえ、高校生です」

「あの子も同じ学校の友だち?」  

 おじさんは『手術中』のランプがついた扉に視線をやって尋ねた。あたしはゆっくりとかぶりを振る。

「夜宵はうちの管理している別荘にきた女の子です」

「管理している別荘?」

「両親が管理人をしている別荘です。そこで会いました」  

 本当は違うけど、夜宵との出会いを正直に言う気にはなれなかった。

「そっか、あの子の名前は?」

「桐生夜宵さんです」

「ありがとう。それで、どうしてこんな状況になったの?」

 あたしは震えながらうつむいた。化け物を退治したから、とは言えなかった。

「どうしたの?」  

 警察のおじさんが心配そうな顔であたしの顔を覗き込んだ。握りしめた手の甲にぽたぽたと涙がこぼれ落ちていく。警察のおじさんたちの困ったような空気を感じた。

 呼吸が苦しい。息ができない。苦しい、苦しい。様子のおかしいあたしに気がつくと、おじさんが近くの看護師を呼びに行った。呼吸が早くなって、胸が痛くなる。息が苦しい。  

 ベテランそうな、年配看護師があたしの隣にくると、背中をさすった。

「過呼吸ですね。紙袋持ってきて」  

 年配看護師が若い看護師に指示を出している。

「看護師長、持ってきました」

「ありがとう」  

 そう言うとあたしの頭に紙袋を被せてきた。視界が暗くなり、気が逸れる。だんだん落ち着いて呼吸が落ち着いてきた。

 自分で紙袋を取る。

「ありがとうございました」  

 年配の看護師にお礼を言う。

「いいのよ。気分は良くなった?」

「はい」

「聴取は続けられそうですか?」

「無理ですね。メンタルケアが先です」

 そんな時、

 ̶ ̶プツッ。  

 ランプの消える音がした。『手術中』のランプが消えている。震える足を無理やりにでも動かす。  

 手術室から医者や看護師が大勢出てきた。どの顔を見ても暗く、最悪の考えがよぎって、頭が真っ白になる。

「夜宵は?」  

 医者の腕に縋りつきながら叫んだ。

「夜宵は大丈夫なの?」  

 あたしの声はほとんど悲鳴だった。

 医者はあたしの視線から逃げるように、悲痛な表情を浮かべて絞り出すように告げた。      

「桐生夜宵さんは、手術中にお亡くなりになりました」  

 それは、あまりにも残酷な事実だった。やっとあの化け物を倒したのに! 自由に、なれたのに。  

 あたしはしばらく呆然と立ち尽くしていたけれど、我に返ると、あわてて手術室から出てきたストレッチャーにしがみつく。

「嫌だ嫌だ嫌だ。駄目だよ、あたしを置いていかないで。夜宵いぃ」  

 夜宵の亡骸を抱きしめて獣の咆哮のような声をあげる。  

 何も映してくれない、乾いた瞳を見開いて動かなくなっていた夜宵を滲んだ視界で見た。苦しそうで、だけど穏やかな表情だった。  

 背後に人の気配を感じる。そうだ、警察の人だ。ここにいたんだ……。 

 あたしは警察のおじさんの方を振り返る。おじさんたちは沈痛な面持ちであたしと夜宵を見ていた。医者も、看護師も痛ましそうにこちらを見ている。

「おじさん! 夜宵が殺されちゃった。あの化け物に! 捕まえてよぅ。うわあぁぁぁぁぁん!」  

 叫ぶように告げたあと、滝のような涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。看護師たちが駆け寄ってくる。  

 失うくらいなら、関わらなければよかった。この辛さも知らなくて済んだのに。  

 ̶ ̶ねぇ、夜宵。あたし、もうどうしたらいいのかわからない。   

 真夜中の病院にあたしの泣き声がこだましていた。






 ◾︎◾︎◾︎






 その後のことは、全然おぼえていない。いつの間にかあたしは病室で寝かされていた。辺りを見回すと、あたし以外誰もいなかった。精神面を考慮されたのか、なんにせよラッキーだった。

 続いて自分を見る。左腕には点滴が打たれていて、血塗れのワンピースは脱がされて、ピンク色の病衣を着せられていた。

「今何時だろ」  

 声は掠れて、咳き込んでしまった。昨日の大泣きで、喉も荒れているようだった。ベッドの隣に置かれていた冷蔵庫を開け、冷やされた水を取り出してぐびぐび飲んだ。五百ミリのペットボトルのうち、半分飲み終える。  

 夜宵を思い出す。途端に涙腺が緩み、ぽろぽろとベッドに落ちて、染み込んでいった。  

 もうこの世にはいない、あたしの親友を頭に浮かべる。あたしは声が漏れないように、両手を顔に覆って泣いた。指の隙間から小さな嗚咽の声が漏れる。  

 洗面台の前に立つと、真っ赤でぐちゃぐちゃになった顔があった。大きく深呼吸して蛇口を捻る。水を掬って顔にかける。涙が止まるまで、顔が冷えるまで。何回も何回も繰り返した。  

 再び鏡越しにあたしを見る。あたしの中に夜宵がいた。

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少女には宵の星を @eri_han

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