最終章:devil and scarecrow
玲美と出会って二十年以上が経ったいま、玲美は夫と子どもと愛人がいて、私は結婚して離婚して子どもはいない。いまのパートナーの鳴子(なるこ)とは付き合って一年ほどだ。
鳴子とは、串焼き屋のカウンターで出会った。国立大出の大手メーカーに勤める鳴子は、性格も穏やかで、背もそこそこ高く、日本人離れした彫りの深い顔立ちをしている。面白みこそないが、どこをとっても八十点の高得点をたたき出すバツイチ子持ちの男だ。
世間からは、凪のような穏やかで優しい人、と見られているだろうが、私には、アップデートしないボットのように思えていた。場面にあわせてインプットされた喜怒哀楽を表現してみせる人型の何か。ビー玉の目は何にも興味を抱かない。当然、執着などしない。玲美とはまるで違う温度感のなさに興味を引かれたのだ。
鳴子の元妻は、はじめこそ八十点の男に飛びついたようだが、十年もの間、ともに生活するなかで彼の違和感に気づいたのだろう。本質を見抜くことも言語化することもできながったが、薄気味悪さだけは感じとったようで「キモい」と鳴子を遠ざけたようだ。やがてパート先で不倫を繰り返すようになり、「このような状況になった場合、離婚を選ぶのが一般的である」とインプットされているのであろう鳴子は、離婚を判断したそうだ。
冬の匂いがしはじめた頃、鳴子と箱根に向かうことにした。箱根の紅葉シーズンは終わっていたが、私の目的はロマンスカーの展望席に乗ることだった。ずっと乗ってみたかった後ろ展望席の一列目がとれたのだ。前方と後方に設けられたパノラマビューの展望席は、もちろん前方が人気だったが、私は新宿のビル群が遠ざかっていく様子が見えるという後方に乗ってみたかった。
新宿駅の小田急線改札を通り、ガラス張りのロマンスカーの頭が見えてくる。あれがこれから乗る後ろ展望席だろう。気持ちが高揚してきて、座席までの道のりもカメラに収めようと思い立った。しかし先ほど購入したカフェラテの入った紙袋が邪魔で、スマホを構えづらい。横を見ると、無表情の鳴子が数メートル先に目線を向けていた。乗車するドアまでの距離でも目測しているのだろう。ポールハンガーに掛けるように鳴子の腕に紙袋をひっかけ、スマホのカメラを起動させながら座席へと歩みを進めた。
後ろ展望席から見える新宿駅はどん詰まりだ。数メートル先で線路が終わり、水門のような扉で先が閉ざされている。通路を挟んで隣には男性二人が先のない線路に熱心に一眼レフを向けていた。撮り鉄だろうか。スマホで写真を済ませる、箱根旅行気分の女に見えるであろう私など彼らは見向きもしないが、私はこの場に熱情がある彼らの存在が嬉しい。
鳴子は大人しく着席し、静かにカフェラテを流し込んでいる。新宿駅の構内で「なんでもいいよ」という彼に、私と同じものを買った。あとで「あの紅茶、美味しかったよね」とでも言ってみようか。
後ろにくん、と引っ張られる感覚とともに、列車が動き出した。進む方向に線路が続いているのではない。踏まれたばかりのレールが目前に現れては奥へ奥へと延びていく。もうすぐだ。駅を越えたらビルたちが姿を現す。それらはやがて群れとなり、絵の具みたいな青色の空の下、いったいどんな姿になるのだろう。
高まる鼓動のなか、スマホの録画ボタンを押して動画を取り始めた。と、ポロンとLINEの通知が鳴り、心のなかで舌打ちする。音もバイブレーションもONにしているから、動画に入り込んでしまうのだ。一度録画を止め、撮り直ししようとした瞬間、またポロンと通知があった。連投かよ、と思う間もなく、ポロン、ポロン、ポロンと続き、通知が止む様子は見られない。人の状況など考えず好き勝手に連投してくる奴なんて、知り合いには一人しかいない。
メッセージを開くと、案の定、玲美だった。やっぱりね、とほくそ笑んだ刹那、ふいに強烈なパンチをくらう。
<愛人が浮気した。絶対に許さない。とりあえず慰謝料二百万円ぶん捕った>
この後も、<クズが><殺してやる>などと続いているが、まずは一打目だ。愛人が浮気、許さない、慰謝料……すべてがおかしい。
<玲美が慰謝料を受け取る資格なんてな
打って消す。
<お金を絡ませるのはやめておきなよ
×を長押しする。
<ムカつくのはわかるけど、玲美は怒れる立場じゃない
×××××……。ダメだダメだ。全然違う。いや違わないけど。どれもいまの玲美に響くわけがないのだ。
いまの?
それも違う。いつだって玲美には常識も一般論も普通も届かない。
玲美には「玲美が思ったこと」しか存在しない。玲美フィルターを通る時、彼女が感じる以外のすべてのことは消えてなくなる。玲美は、自分を棚に上げてない。いけしゃあしゃあでもない。(結婚してるわたしが言えた口じゃないけど)(わたしの立場で言うのは変だけど)(不倫してるのはわたしも同じだけど)――玲美にはカッコで括られた前提なんて存在しない。
ずっとそうだったのに、言葉にしないだけで「普通に考えて」カッコに括られた前提が、前置きがあるのだと思っていた。私も私フィルターを通して玲美を見ていたに過ぎない。
ビルが群れになる。それぞれ個別だった建造物が群れをなし、ひとつの塊になっていく。隣の撮り鉄たちが、興奮気味に言葉を交わし夢中でシャッターを切る。熱気が伝わってくる。
そうだ、せっかくとった最後尾の最前列。
それでもスマホを構える間もなく、玲美の呪いは続いている。
<会社にいられなくしてやる>
<セクハラで訴える>
<慰謝料倍とる>
<マジ殺す>……
通知OFFの設定に手こずってる間に、きっとビル群は何かに変わる。毎夜眺める東京駅のビル群が、怒ったオウムの群れになるように。画面を見て終わるより、せめて目に焼き付けようか。鳴り続けるスマホを握りしめ、諦めと覚悟を決める頭の片隅では、玲美心をくすぐる一言を考えてしまう自分がいる。
ふと、目の端にiPhoneを手にした鳴子が映った。私と撮り鉄たちと、二列目以降からも感じる人々の熱を察して、「このような情景はカメラで撮るものだ」と判断したかもしれない。わずかな希望を抱いて鳴子を見ると、色のない眼差しでスマホを見つめているだけだった。何かのサイトかアプリか、動画でも見ているのか。いや、「目的地までの暇な乗車時間はスマホを見るのが一般的」と判断したのだろう。お前の目は、映り込みも反射もしない干からびたビー玉だから。
鳴子を感じると、色彩は曇り、景色は濁る。鳴子が作る色褪せた世界が、玲美の赤黒い血の色にネオンカラーすら混ざる煉獄の世界とは違って、時に心地よかったのは嘘じゃない。
自分でもわからないくらいに微かな笑みを浮かべて、呪いの便りに返事をする。
<悪魔と案山子はどっちが強い?>
漢字が苦手な玲美は、きっとほんの少し手が止まる。ただし二分ももたないだろう。
塊は遠く幻影になっていた。たったいま踏みしめた蛇はぐるぐる泳いで渦巻きをつくり、背後から巻き取られる私はやがて蜃気楼すら見失うのだろう。助け出してほしいわけじゃない。案山子は好きじゃないけど、悪魔は嫌いじゃないからね。
だって、あの子は。 深水龍 @sonoru
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