第二章 obsession

 玲美は批判されることが大嫌いだ。常識を説こうが正解を語ろうが、玲美が否定された、と捉えたら、激しい怒りで手に負えない。ただ、愛人への人格否定ともとれる罵詈雑言を繰り出す玲美に、同意も出来かねるので、ジャブを打つことにする。

「一緒にいて楽しくない愛人なんて捨てちゃえば」

 もはや少しも苦味を感じないカフェラテに口をつけ、カップを傾けながら上目遣いに玲美にもの申してみる。

 我ながらいいジャブかも。

 本来、玲美のような夫がいる立場での恋人は、恋愛を楽しむための存在だろう。その目的を果たせてないなら意味がないし、同時に不倫という非道徳的なことも止められるなら一石二鳥だ。それに加えて、玲美が「捨てる」立場にある、といった玲美心がくすぐられるであろう言い回しで表現する。

 案の定、玲美は、笑みを堪えたような満更でもない顔をして「まあね」と小さく返す。

 私の絶妙なジャブは、いつも心地いいらしい。玲美の的外れな紗瑛心くすぐり風と違って、玲美心を満たす発言ができる私は、彼女に「(ちょうど良い)意見をしてくれる友だち」として重宝されてきた。

「でもあいつ、わたしがいなくなったらマジでヤバいから」

 よく聞くダメンズ好きの女のセリフを、玲美は夫持ちの立場で恥ずかしげもなく言い放った。

 やっぱりね。玲美は絶対に愛人を手放さない。

 私は、玲美あるあるな回答にほくそ笑んだ。


  ***


 玲美の執着心は尋常じゃない。

 私には、玲美と二度ほど距離を置いた時期がある。一度目は、私が社会人になりたての時。理系の玲美と泰は大学院へと進学していた。その頃は、私たち三人に、同じ塾のバイト仲間だった博士過程に通う辻さんを交えてよく飲みにいっていた。

 相変わらずの実家住まいの上、安定した収入を得るようになった私は、私のおごりで玲美と食事することが当たり前になっていた。玲美は得意のいけしゃあしゃあを発揮して、私に気兼ねすることもなく「色違いで服を買おう」「お揃いのアクセサリーをつけよう」などと言っては、食事以外でも私に二人分のお金を支払わせた。「私、玲美の貢ぐ君じゃん」と口を尖らせるポーズだけをとって笑う私は、いつか「女」と一括りにされた時よりも身近な存在であることが嬉しかった。

 当然、泰と辻さんとでいく飲み会も、玲美と二人分支払っていた。飲み会の帰り道は、駅までの道幅のせいもあって、二人ずつ並んで歩く。玲美は決まって辻さんと二人で歩いていた。玲美は博士過程へ進もうか悩んでいると言っていたから、先輩である辻さんに聞くことがたくさんあったのだろう。私は、修士を取ったら就職する、という泰と、就職活動の話をしながら同じ道のりを歩いた。


 ある時、玲美から「辻さんの電話番号を教えて」とメールがきた。玲美と辻さんが二人並んで歩く姿を思い出し、玲美が知らないとは意外だな、と思った。いつものように飲みの誘いの電話をかけてきた辻さんに、「玲美に辻さんの電話番号を教えたよ。話したいことがあるみたい」と伝えると、彼は一瞬息を呑んで、神妙に「わかった」と返答した。

 博士過程の相談の続きでもするのだろう、と思っていた私の予想は大きく外れ、玲美は辻さんに激怒したらしい。どうも辻さんから玲美に<社会人だからといって紗瑛に玲美の分も毎度払わせるのはダメだろう>といった内容のメールをしたらしいのだ。

 辻さんはわかってない。玲美を否定してはいけない。そもそも私の意思も理解できてない。

 私が実はそう思っている、とでも伝えたのか、彼女がそう解釈したのかはわからないが、玲美の怒りの矛先は私に向かった。「文句があるなら自分で言ってくればいいじゃん。裏で言うなんてサイテー」と、中学生女子の喧嘩のようなキレ方をされた。とんだ濡れ衣だな、とは思ったが、辻さんも少なくともはじめは善意で言ったのだろう。仮に「そう伝えるように頼まれたんだ」と嘯いたのだとしても、玲美のマジギレ攻撃から逃れるために日和ることは想像に難くない。

 かと言ってそんなことを玲美に言おうものなら、火に油をそそぐだけ。だからと言って、冤罪の私が謝るのも違う。

「私は玲美におごりたくないなんて思ったこともないし、裏で玲美のことを悪く言ったこともないよ」

 一度だけそう事実を伝えて、私は玲美の怒りが収まるまで、距離を置くことに決めた。

 罵詈雑言のメールが来ても返事をしない。電話がきても出ない。弁解も謝罪も批判もしない。反応のない私に、玲美は留守電にメッセージを残すようになり、それでも反応しないと、手紙が郵送されてきた。最後の手紙には「もう許したから会おう」と書かれていた。玲美にしては引いた方かな、と数カ月ぶりに再会を果たし、この件は終わった。

 それからは、この件は私たちの間でタブーとなり、現在に至るまで一切話題にしたことはない。だからいまだに事の真相はわからない。


 二度目は、一年近くも連絡を絶った。私が新卒で入社以来勤めていた会社を辞めた時だ。自分の気持ちと価値観とプライドと、そして人生がかかっていて、この時ばかりは玲美を優先することはできなかった。

 きっかけは、営業部への異動の内示が出たことだった。入社以来、専門性が高い仕事をしてきたつもりだったが、どう見ても玉突き異動で、営業部での働きに期待されている風でもない。人事に意図を尋ねても「二年我慢したらまた異動あるからね」と言われて納得ができず、残っていた有給休暇に新年度になって付与されたばかりの有休も全部使って転職活動をすることにした。

 玲美にすべて吐露すると、怒りの琴線に触れてしまったらしい。玲美はこの頃、技術職からマーケティング部署へと異動していて、営業部とセットで動く仕事だと言っていた。だから私が、営業部を卑下している、と解釈したようで、近しい仕事をする自分への批判だと捉えたのだろう、「営業を侮辱するな」「転職を考えるなんて仕事ができない奴がすることだ」と、頭ごなしに説教された。

 このモードになった玲美は収拾がつかない。玲美の誤解を解いている時間はなかった。こればかりは私の人生だ。これまでのように玲美心をくすぐってる場合ではない。そうして玲美と距離を置くことを決めた。

 と言っても、神奈川の郊外に住む玲美と連絡を断つことはそう難しくはなかった。しかし時代も進み、以前よりも玲美の攻撃手段は多い。電話、メール、会社のメール、LINE、LINE電話、あらゆるSNS……知る限りの連絡先を総動員して連絡をよこした。それでも私は、この時ばかりはブロックという手段も使って一切の返事をしなかった。

 やがて玲美は『営業は「会社の顔」です』とか『すごい営業』みたいな本を郵送で送ってくるようになった。調べると郵便を受け取り拒否するには、赤字で「受取拒否」と書いて押印した上でポストに投函するらしい。自動的に弾いてくれるブロックとはわけが違う。そこまでの勇気はないまま、本棚に営業職志望かというくらい営業本が増えていった。それでも私は無事に転職先を見つけ、玲美に黙って新天地で働きだした。


 営業本が最後に届いてから半年以上経ったころ、ブロックを忘れていた古いメールアドレスに<近くに行く用事があるから会いたい>とメッセージが入った。退職にも営業にも一切触れていないその内容から、鎮火したと判断した私は、玲美に返事をすることにした。会う前に転職先を告げると、知った名の企業だったからだろう、<会社のこと聞きたい!>と、何事もなかったような返事がきた。約一年ぶりに会っても、玲美は大批判してたことなどおくびにも出さず、「新しい会社どう?」と普通の人みたいに話し始めた。

 この件も、いまだに話題になることは一切ない。


                  ***


 玲美の執着は普通の範疇を超えている。玲美から仕掛けてきたからといって、彼女がいらないと思う前に、相手側から去ることは絶対に許されないのだ。地獄の果てまで追いかけてくる。

 人によってはホラーなのだろうが、私は何とも思わない。こんなにまで執着されることなどないからだ。少なくとも私にはできない。こうまで執念を持って追い求められるのは、それはそれで光栄なことだと思う。束縛を愛情と勘違いすることに似てるのかもしれない。

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