だって、あの子は。
深水龍
第一章 envy
「人妻に手を出すなんてろくな奴じゃないよ」
連休初日の新宿は人で溢れている。列に並んでようやく入れたカフェで、一息つく間もなく、玲美(れび)が吐き捨てるように言った。
私は「どの口が言う?」と出かかった言葉を、運ばれてきたばかりのカフェラテを一口すすって飲み込む。「あちっ」と言ってそれとなく話題をそらすよう努めながら。
「またカフェラテ? 今日何杯目よ。紗瑛(さえ)、カフェイン中毒じゃない?」
玲美はしたり顔で、一方的に自分の話だけをする女ではないことを証明しようとしているらしい。さらに“カフェイン中毒”がかっこいいと思っているのだろう、そう言われて私が満更でもない気分になると確信している顔だ。
確かに、新宿に来るまでの電車内で飲んできた一杯、さっきランチした店で食後に飲んだ一杯、そしていまが玲美が見る三杯目だ。私が主に摂取する水分といえばカフェラテだ。食事先やカフェ以外でも、淹れたてのラテがあれば買ってしまう。いまどきはコンビニコーヒーでカフェラテが買えるから困ったものだ。
それでも、ミルクが半分以上も占めるドリンク好きというだけで「カフェイン中毒だ」とは恥ずかしくて言えない。こういうことを自信たっぷりに言ってしまうところが玲美なのだ。
「それでね、ほんと最悪な奴で」
一言だけ私に触れた玲美は、空気を読める自分が演出できたと踏んだようで、すぐに“ろくな奴じゃなく”て“最悪な奴”である男の批判に戻る。話題がそれたのはほんの二分といったところか。
“人妻”とは玲美のことで、“ろくな奴じゃない”のは玲美の不倫相手のことだ。十年前に会社の先輩である五歳年上の夫と結婚した玲美は、子ども二人をもうけ、二年ほど前から同じ部署の通称・愛人と不倫している。落ち着いた夫に比べ、愛人は玲美いわく、わがままで自己中らしい。勝ち気な玲美とは年中喧嘩していて、その度に彼への愚痴を通り越した罵詈雑言を聞かされる。玲美の周囲への愚痴は、出会った頃からよく聞いていたから、それが当時の彼氏だろうが愛人だろうがさして変わりはない。
玲美は理系の院卒で技術職入社のバリキャリだ。夫の金で愛人と遊んでるわけでもないし、子育てに手を抜いてもいない。家庭でバレてもいないようだし、誰かが悲しい想いをしていないのであれば、私は、不倫に対して思うことはない。だから玲美が二年前に「彼氏ができたんだけどね」と、「りんご食べたんだけどね」くらいのトーンで話し出しても嫌悪感を抱きはしなかった。不倫のわりに前置きをすることもなく、ただ“彼氏”と発言したことには、苦笑したものだけど。
ただ、「人妻に手を出すなんてろくな奴じゃない」は、苦笑いすら難しい。愛人との付き合いはもう二年にもなるし、二人が付き合うきっかけは忘れたが、少なくとも愛人からの猛アプローチではなかったはず。なんなら玲美の性格からして、彼女から仕掛けたと睨んでいる。愛人はバツイチで現在は独身だとか。不倫するやつが「ろくな奴じゃない」んだとしたら、どちらかといえば玲美の方が「ろくな奴」ではない。
でも玲美に常識的な一般論は通じない。玲美は自分を棚に上げるのもいけしゃあしゃあとすることも大得意なのだ。
***
玲美とは、大学入学した直後にはじめた地元のアルバイト先で出会った。個別指導塾の講師のバイトだ。
玲美は地方から千葉に引っ越してきて、国立大学の工学部に通っていた。私は、玲美の通う大学の文学部に合格を果たせず、都内の女子大に入学した。入学式の帰り道、男子学生のサークル勧誘の長蛇の列に不安を抱いた母から、「サークル禁止」「バイトは地元」令が出され、都内に通学するにもかかわらず郊外の街でバイトすることになった。
バイト先では、授業終わりに生徒の学習進捗や理解度を記載するカルテを書いた。玲美は国立大学のわりに漢字が大の苦手で、「これって字、あってる?」などと同じ年の私によく話しかけてきた。右上がりの踊っているような字体に、存在しないへんてこな漢字を書く玲美が面白くて、すぐに仲良くなった。
私は、私の第一志望だった大学に通う玲美に、彼女は首都圏にある実家から都内女子大に通う私に、羨望の眼差しを交わしていたように思う。
私は一人暮らしの玲美の家にしょっちゅう出入りし、玲美は私の実家によくご飯を食べにきた。地元の国立大に通う女友だちの訪問は、母も歓迎していた。そんな間柄だったから、その時々のお互いの彼氏についてもよく知っている。
大学時代の玲美の彼は、同じくバイト先で出会った泰(たい)だ。私たちのすぐ後に入ってきた泰は、一浪していて歳はひとつ上だったが、同学年ということもあり私・玲美・泰の三人で仲が良かった。数カ月ほど経ち、玲美と泰が付き合いだしたことには少し驚いたが。いつの間に、という驚きと、付き合うまでのじりじりしたやりとりを玲美から一切聞いていなかったことがショックだったが、「泰なら今度も気兼ねなく三人で遊べる」という、玲美と変わらず過ごせるであろう安堵感の方が強かった。
私の方は、二人が付き合ってほどなくして、玲美が紹介してきた彼女と同じ学部に通う忽那(くつな)と付き合いだした。工学部の玲美は、同級生のほとんどが男だった。自分の学校よりも近く、国立大ならではの自由さもあって、部外者にもかかわらず私はよく玲美の大学に出入りしていた。忽那が彼氏になると、玲美の大学へ行く理由がひとつ増えたことが嬉しかった。
あれは、玲美に会いにか、二人ともに会いにいったか、授業終わりの玲美を探してキャンパスをうろうろしていた時があった。二百人は着席できる大教室で、数人の男子学生の中心にいる玲美をみつけた。彼女は忽那の後ろの席に座って、忽那の背中に肘をつき寄りかかるようにもたれながら、弾けるような笑みを浮かべて談笑していた。
肩紐についたフリルがヨレヨレとした赤いキャミソールの装いの玲美は、まさに「紅一点」だった。紅一点とは、緑の草むらの中に一つだけ咲くザクロの赤い花を指したことが由来だという。玲美のための慣用句だな、と思わず笑みがこぼれた。
ある時、私と泰がバイトで、玲美が休みだった日があった。当時、三人で暇さえあれば興じていたゲームがあり、その日も駅までの帰り道にあるゲームセンターで、泰と一戦だけ勝負することになった。勝負は十分ともたなかっただろう。いつも通りに私は泰に負け、<今日もまた負けた…>と、泰は<今日も勝った!>と玲美にその場でメールをして帰宅の途についた。その後、電車に乗る泰に玲美から何度も着信があり、途中下車して電話に応じたそうだ。すると玲美は、「女と二人きりで遊ぶなんて」と烈火の如くキレていたらしい。
男女の友情は、永遠と論じられるテーマだろう。いくら恋愛感情はないとはいっても異性と二人きりは嫌、という気持ちも存在することは知っている。私は「玲美はそういうタイプじゃない」「私と泰ならいいだろう」と勝手に思い込み、玲美の気持ちを理解できていなかった自分を反省した。
一方で、玲美から「女」と一括りにされたことが悔しかった。しかし泰からそのように聞いたに過ぎず、泰が大げさに話しただけではないか、と一縷の望みを抱いていた。玲美は私が謝っても「なんのこと?」という様子でこの話題には触れたがらなかったからだ。
その後は私も泰も気をつけて、少しの間でも二人で過ごすことがないように気をつけた。
忽那と映画を観た帰り道に、駅のホームでこの一連の話をしたことがある。
「玲美がね、泰と女が二人でいるのはちょっとでも嫌なんだって。私でも。意外と乙女なとこあるよね」
玲美のことも泰を加えた三人の関係もよく知る忽那だから、意外だという印象が通じるだろうと思ったのだが、彼の反応は冷淡なものだった。
「へえ? 自分は男にベタベタ触るくせにな」
そう侮蔑を含んだ言い方をされて、ふと玲美がまさしく「紅一点」だった光景を思い出す。紅一点とはよく言ったものだ、と感心する一方で、紅一点が数ある黒(こく)の一点だけにひっついているバランスの悪さに違和感があったのは確かだ。黒点で形成された円の中心にある紅の一点が、美しく配置されてない。さらにヨレヨレのフリルも相まって、輝く紅一点は歪んで見えた。
しかし、あれは女子が少ないから起こり得る、理系あるあるってやつではないのか? クラスの八割を女子が占める英文コースの高校から女子大に進学し、「サークル禁止」令が出る私にはわからない。そもそも美しい紅一点ってどんなだろう。ぼんやり考え始めた私に、忽那が続ける。
「お前はそれでいいわけ?」
お前?
忽那の顔を睨むように凝視する。
お前呼ばわりされる方がいいわけないんだけど。
轟音とともにホームに電車が滑り込んできて、強い風が吹いた。私のセミロングの髪が乱れて、顔にはりつく。
「髪、食ってる」
リップでベタつく唇にはりついた髪を直そうと、私の髪と顔に触れようとする忽那の手を振り払うのは抵抗があって、電車に急いで乗り込むふりをしてかわした。
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