暫定的にさようなら

草森ゆき

暫定的にさようなら

 私が姫路さんの隣を歩いた時間は春よりも短い。手を握った時間になればもっと少なくて、でもいつまでも記憶に残り続けていて並んで歩いた住宅街の細道の忘れ去られたような空間が私の中では切り離された永遠だ。

 無駄骨ばかりの付き合いだった。姫路さんが一人暮らしの私のアパートにやって来たのは冬が終わりかけた何者でもない時期で、ちょっと泊めてー、すぐ出て行くから! と明るく笑いながら上がり込んできた。唖然として中に入れてしまったが私と姫路さんは別々の知人を介して集まった飲み会の席で一度顔を合わせただけで、どうして私の部屋を知っているのか焦りながら聞いたけれど返ってきたのは歌だった。米津玄師の有名な曲。紺堂ちゃんこれ歌ってたじゃん、飲み会のさー二次会のカラオケ。歌って……たっけ? やっぱり覚えてないよね、うんうん、歩けなくなった紺堂ちゃんを背負って連れ帰ったのわたしなんだよねー。え、うそ、だって気付いたらベッドで寝てたから私ちゃんと帰って来たのかなって。違う違う、住所聞き出しながらわたしが運んだ。うわ、ごめん! あはは! ちょっとだけ泊めてくれたらチャラね!

 断れるわけはなくて、私は姫路さんを期間限定の同居人にした。姫路さんは斜め掛けされたスポーツバックをどさりと床に置いて、一息ついてから私を見た。笑っていたけど玄関口にいた時とは全然違う途方に暮れかけたような笑い方で、でも、私は結局最後までそっちのほうが好きだった。

「本当にありがとう」

 そう言った姫路さんに私はなんて返しただろうか。

 どうしてだろう、細かいところが思い出せない。


 二週間だった。姫路さんは仕事を辞めているらしく、私が出勤している間も部屋の中にいることが多かった。帰宅するとキッチンにはなにかしら夕飯が用意されていた。米は高くてあまり買わなかったから、パスタが多かった。姫路さんの作るケチャップオンリーのナポリタンは異様に美味しく、仕事終わりの疲れた体が喜んで一生懸命食べた。紺ちゃんて嫌いな食べ物ないの。いつの間にかあだ名で呼ばれていた。嫌いな食べ物、高野豆腐かな……? なんとなく不愉快な舌触りだから例に出すと姫路さんはぱっと目を見開いた。

「嫌いな食べ物で高野豆腐が出てくるの、なんか面白いね」

「えっ、な、なんで?」

「んー、あんまり食卓にのぼらないイメージっていうか……?」

「あー……私の親が好きだったみたいで、実家ではわりと出たし……姫路さんは嫌いな食べ物ないの?」

「あるにはあるし、ないにはないかなー」

「なにそれ?」

 姫路さんは口を閉じた。食卓用の小さな折りたたみテーブルに肘をついて、掌に顎を乗せ、瞼も閉じた。

 変な地雷を踏んだかと焦ったけど、

「この状態で食べれば、なんでも食べられると思う」

 極普通の口振りで返ってきた。

「ゴミでも食べられるの?」

 ナポリタンをフォークに巻き取りながら聞いた。もちろん冗談だった。

 伏せられていた瞼が、アイシャドウを煌めかせながらゆっくり開いた。視線が合って口へ運ぼうとしたナポリタンが皿の上に落ちた。伸びて来た掌に手首を掴まれていた。どうしたの、とか、手冷たい、とか。目を見つめることにばかり意識がいって声に出なかった。ひんやりした指先は透明のマニキュアで艶めいていた。

 不意に指は離れていった。姫路さんはふっと目を逸らし、でももうゴミは食べたくないな、と静かに言った。

 私はよくわからないまま頷いた。小学生の頃の姫路さんが、ゴミ箱に捨てられた給食を食べていたという話なんて知らないに決まっていたから頷いた。


 はじめて会った飲み会の日について、ベッドに入りながら何度も思い出す。私の知人である奴原と姫路さんの知人である久坂部が意気投合して、怪奇小説だか幻想文学だかについて話し込み始めたから、余った私と姫路さんは初対面ながらぽつぽつと話をした。居酒屋は安く、だからというわけでもないけどうるさかった。あちこちで店員と客が叫んでいた。お客様お帰りでーす! ありがとうございましたー! そんな大声の合間で姫路さんはギムレットを飲み、私に笑い掛けて、あの二人仲良くなっちゃったねー、と奴原と久坂部のコンビを見ながら言っていた。自分が何を話したかなんてわからない。とにかくずっとアルコールを飲んでいた。人見知りだから初対面の姫路さんとうまく話せないこともあったし、彼女の瞼も指先も話し方も笑い掛ける仕草も、丁寧に作られた綺麗な立ち振る舞いがそれこそお姫様みたいで自分の普通さが恥ずかしかった。

 カラオケに行くところまでは、なんとか覚えていた。奴原と久坂部がいたかはわからないが、姫路さんはいた。流行りの曲を振り付けを入れて歌う姿が辛うじて記憶の中にいる。霧の向こう側にあるような記憶だったけど、二度と会わないだろうと思っていた姫路さんが現れたことでじりじりと色を持ち始めていた。

 こんなに綺麗な輪郭の子を初めて見たと私は思っていたんだ。


 姫路さんは最寄り駅まで迎えに来てくれたことが何回もある。コンビニ行った帰りとか、散歩のついでとか言っていた。本当でも嘘でも嬉しかったし、部屋で一緒に過ごし始めてそんなに経っていないのにもうすっかり馴染んでしまっていて、一年以上同居しているような感覚だった。

 最寄り駅からは十分は歩く。駅近くではわらわらと群がっていた人波は、少し離れて細い路地に入れば極端に減った。勤務終わりは当然夜だ。私と姫路さんは並んで細い路地を歩きながら、取り立てて特別なところのない話をあれこれと交わした。

 路地は柵に遮られた下水と隣接していた。歩いている間、泥濘んだ重たい臭いが鼻を突いた。姫路さんがいなくなったあとでも変わらない悪臭のせいで、私はこの路地を通れなくなった。

 臭いは酷くても夜の中で見る流水は綺麗だ。街灯を揺らぐ水面に跳ね返し、光の筋がずっと奥まで続いていた。それを眺めていると、姫路さんが手を繋いできたことがあった。私は反射で握り返してから謝って、姫路さんは夜の住宅街では迷惑な音量で笑い声を上げた。

「紺ちゃんて、本当に手あったかいね」

 冬の気配が残り、春がいつまでも眠っている時期だ。私の手が暖かいのではなく姫路さんの手が冷たかった。ひんやりとした指先が私の手の甲を緩く撫でる。あったかいね。そうもう一度言ってから離れていこうとする手を強く握った。半ば引っ張るようにして歩いた。擦れ違ったスーツの男の人は私たちを見もしなかった。歩行者用の石畳をくたびれたスニーカーで踏み付ける。姫路さんのパンプスはかつんかつんと夜の中で鳴いている。

 どうして私だったの、どうして私のところに来たの。姫路さんならもっと友達がいるはずだし、それこそ久坂部だって。ここまでを言い掛けて飲み込んだ。本当に少ない共通の知り合いである久坂部も奴原も男の人だったから、同性の私を選んだんだってことを自覚した瞬間に殺して欲しくなった。繋いだ手が暖まっていく間に私の魂とか精神とか、目に見えなくてすぐに傷付く器官が死にかけていた。

 ずっと部屋にいても良いよって、私は最後の最後にやっと口に出せたけどその時にはもう色々と遅くて終わってしまっていた。


「紺ちゃん、デートしよー」

 出て行く前日に姫路さんが誘ってきた。コンビニとかスーパーには何度も行っていたけど、ちゃんと出掛けるのは初めてだったし最後になった。

 どこに行くのかなと思ったら、それなりに大型のショッピングセンターだった。お気に入りのブランドでもあるのか、姫路さんは満面の笑みで店舗の立ち並ぶ様子を眺めていた。

 大きな通路に沿って、左右に店が続いていた。一階も二階も同じ構造だ。姫路さんは安価で可愛い服屋を覗き、帽子の専門店を物色し、靴屋に入った。私もせっかくだから少しだけ見た。いいデザインのスニーカーを履いてみて、サイズもちょうど良かったけどちょっと高くて棚に戻した。姫路さんもブーツを見ていたけど買いはしなかった。

 店内のカフェに入り、二人でケーキを食べた。あそこの店の冬物セールをもう一度見ようとか、春ってだけでパステルカラーを推されると萎えるとか、でもすぐに夏だから春物って全然買わないよねとか、フォークでチョコレートクリームを混ぜながら話した、話し続けた。姫路さんは楽しそうで私も楽しかった。またいつでも来られると錯覚出来てしまった。カフェを出たあとの姫路さんは冬物セールの店じゃなくてメンズショップ前で立ち止まりちょっとだけ待っててと私を待たせて店内に入っていった。その後ろ姿を目で追って後悔した。レジカウンターから出て来た男性店員が奴原で、姫路さんは彼を見た瞬間に破顔したから私はそこで目を逸らした。

 ショッピングセンターを出ると夕暮れで、赤みのある風景は幻想的だったけど綺麗だとは感じなかった。帰りの電車はどっちも無言だった。姫路さんはじりじりと暗くなっていく外を見つめていて、私は寝たふりでやり過ごした。俯きながら薄目を開けて彼女を見ると爪先が見えて、マニキュアをただ一色塗っただけじゃないシンプルだけど目を引くネイルアートは誰に見せようと作ったのかななんて考えたけど不毛だった。

 帰宅して、寝て起きて、姫路さんの作ってくれた朝食を食べて、お皿を片付けて。

 姫路さんはそれから改まった様子で私の目の前に座った。

「泊めてくれてありがとう、紺ちゃん。もう大丈夫だから、行くね」

 物凄く軽い声だった。わざとらしいくらいの軽さに私は一瞬騙されかけた。あ、じゃあまたね。そんなふうに返すところだった。

「ずっと、ここに居ても……全然迷惑とかじゃ、ないけど」

 どうにかそう言った。姫路さんはほんの少しだけ驚いてから、眉を下げた。肩の上辺りで切り揃えられた髪の先を指で弾きつつ、でも行かなきゃ、と曖昧な物言いをした。

「行かなきゃって、どこに?」

「んー、ここじゃないとこ……?」

「仕事とか、決めたの」

「まあ、それなりに……どうにかなるかなって感じで」

「違う誰かの部屋に行くってこと?」

「行かない」

 姫路さんの即答に思わず口を閉じた。彼女はにこっと笑い、机に置いていた私の手の上に自分の手を重ねて置いた。やっぱり、どうしても、冷たかった。姫路さんは私だけじゃなくて前からの知り合いの久坂部やショッピングセンターで会っていた奴原にもずっと冷たいんだと思い知らされた。爪の先のネイル、瞼の綺羅びやかなラメ、薄い色のリップ。丁寧に作られた綺麗な女の人。でもその内側は誰も知り得ないんだなって、やっと腑に落ちた。

 紺ちゃん。優しくて流されやすい、紺堂ちゃん。ずっと元気でいてね。

 さよなら。


 姫路さんはいなくなった。連絡先にしていたメッセージツールは退会していて、SNSを探したけれど一向に見つからない。作り置いてくれたいくつもの料理はすぐになくなった。ケチャップオンリーのナポリタンは作ってみたけど同じ味にはどうしてもならず、部屋の近くの細い路地は手を繋いだ感触しか思い出せなくて通れなくなった。

 春が来て、さっさと夏になり、秋のはずだけど暑い時に、偶々久坂部に会った。初めて入った、職場と部屋の中間くらいにあるコンビニで出会した。

 彼は私を覚えていなかったけど、姫路さんの名前を出すと納得したように笑った。

「あいつの相手してたのか、大変だったろ」

「別に……、っていうか、姫路さんて今……?」

「俺も知らねえよ、用が出来たらあっちから勝手に来るやつだし。小学校の頃からそうだよ」

「小学校?」

「うん、同級生だから」

 久坂部は昔の姫路さんについて少し話した。なんでも久坂部はいわゆるいじめられっ子だったらしく、大変なこともあったようだが、いじめがなくなったのはほぼ姫路さんによるものだという。

「あいつ、ゴミ箱に捨てられた俺の給食食ったんだよ。目閉じれば食えるとか意味不明なこと言い出してさ、食ったあともちろん吐いて、先生がすっ飛んできて、いじめやらなんやらが大事件になって結局なくなった。一応お礼言ったら次の日普通に転校してどっか行ってたし、再会したのは高校だけど全然変わってないし、あいつほんと、何なんだろうな」

 何なんだろうね。な、意味わかんねえよな。でも私、そういうところが好きだった。ふーん。好きだったからまた会いたいけどもう会えないような気がする。

 久坂部はそんなことないだろとも、会えないだろうなとも言わなかった。コンビニで買った煙草を店内で開封しつつ、じゃあまたな、とか言いながらどこかに行った。背を向けて違う方向へと歩き始めた。いつまでも暑い秋だけどいつの間にか冬になるんだろうなと思いながら早足になった。横がけ鞄の紐を握り締めた。奴原に連絡して姫路さんと一緒にいるのかって聞いてしまいたいけどいてもいなくても私は許せないだろう。駅を通り過ぎて更に歩く。夜が来る。初めて通る細い路地にわざと入って滞った下水の臭いに嗚咽する。会いたい。姫路さんに会いたい。迷子みたいに歩きながら私は姫路さんが隣りにいた短い期間ばかりに祈る。


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