13-7

 夕方になると、大雨が降り始めた。

 あたりは日差しで明るいが、雨はバケツをひっくり返したように降り注いでいた。

 路面には、ひび割れた足跡が刻まれておりそこに雨水がたまっていく。

「体が冷えるな」

 これはアリスへの義理のために走っているのか。彼女の両親なんて、もう死んでいることだろう。では、これは彼女への愛か。

 とにかく、城を目指して走る。街の中心に近づくに連れて、追跡者は姿を変えていった。そこに、凛香は現れない。彼女は、与えられた任務が失敗に終わったことで失望の中に沈んだのか、それとも俺たちの竜巻のような逃走に巻き込まれてしまったか。

 どちらにしろ彼女が生きているとは思っていない。

「帆風。大丈夫か?」

 腹には、二か所の大穴を開け、腕は元の細いものから、肉片が飛び出し何倍にも肥大化させていた。

 血痰を詰まらせ、せき込む帆風に聞こえているかは怪しいが、彼女の体を支えるために注意深く、傷を避け腰のあたりに手をやる。この手がなければ、彼女は立っていることすらままならない。

「うん。宗くんの願いをかなえるまで死ねないよ」

 かすれた声だった。満身創痍。こんな姿をかわいそうと思わないのは、罪だろうか。それとも彼女に罪を与える人間として当然の思考か。

「手をつないで歩いたことなんてなかったよね。二人でいるときだって、ほかの人に見られないかばかり気使って。だから私もわざわざ人が少ない道を選んでいたんだよ。それでも離れて歩くし。でもあれは嬉しかったなぁ。こんな今日みたいな日。私の折り畳み傘で一緒に帰るの」

「しゃべるのも、しんどいだろ」

 少し目元を歪めたのを見て、失敗だったなと思った。

「……。もう少し、喋りたかったなぁ」

「あの時は俺の愛とか、好きとかいう感情は、君を汚してしまきがして、そんなことしたらいけないと思っていたんだ」

「ピュアすぎ!」

 乾いた呼吸音が小刻みに震える。

「ちがう。君が大人すぎるんだ。先に進みすぎなんだよ」

「宗くん好きだからね。」

 帆風は小さく繰り返した。

 門は開かれていた。仙崎は、この光景にある計略を思い出していた。しかし、たとえそれが罠だとしても、今は、ひび割れた足跡の上を通る追手がいなくなったことに安堵することが先で、その先を考える余裕なんてなかった。

 二人は、歩みを緩める。

 素肌に食い込む小石が徐々に体に自然を与えてくれた。

 地面に溜まった雨水が骨までしみ通り痛みを感じ始めていたが、逆に言えば、そのような些細な痛みを感じるだけで済んでいるという奇跡。

「奇跡かぁ……」

 犠牲に目を瞑るのはやめようか……。

 彼女の闘争は凄まじかった。押し寄せる人の波には、渦巻くような血流を身に纏いまっすぐに突っ切り、大地を割るような一撃必殺を放つ敵には、体の一部を犠牲にし溢れ出す出血で、半ば自殺攻撃のような形で飲み込んでいく。そりゃ神も彼女に味方するはずだ。

 誰も彼女の前では逆らえない。

 そしてついに、喉元に刃を付きつけるところまで辿り着いたのだ。それが、この完全撤退であり、丸裸で開城された姿なのだ。

 仙崎も思わず武者震いする。恐れ、戦慄、予感。どれもこれも、この現状と比べれば体を凍えさせるには程遠く、どうでもいいことに思えてくる。一つ言えるのは、仙崎は先へ進む決心したことだろう。

 アリスの体を連れて向かうのだ。彼女の願いを叶えようと前進する。ここまで悪魔のおかげで来れた。あと少し……。

 仙崎は最後の足枷となる言葉を吐いた。

「さっさと片付けて、俺たちの生活を取り戻そう。この街には、俺たちの居場所はない。ここを出て旅に出るんだ」

 言っていると、繋がれた腕にそっと帆風が頭を預けてきた。

「宗くん。まだ、振り回らなきゃいけない」

「いい。すべてやる」

 それを聞くと、帆風の目が大きく見開かれた。

「殺しちゃうかもよ。だって、私独占欲強いし。それに、あいつらなんかに君を殺させたくない」

「いいよ」

 アリス自身もそう望んでいたかのように、すらりと喉を通り抜けたが、それが彼女の言葉かは定かではなかった。しかし、優しい声音だった。

 帆風もそれで落ち着いたのか、腕に押し当てた彼女の顔からぬくもりがしみ込んできて、アリスの腕はやわらかく溶かされていく。

 そして、そこに鋭い歯を立て、一気にかみ砕いた。

「うぐっ‼ ぐぅぅぅぅぅうぅ……」

 仙崎も同じくらい歯を食いしばりその痛みに耐える。心は痛みとは裏腹に、まるで自身の穢れた血が洗浄されていく心地だった。もし、今ここで頭を開かれたらそこは空っぽなのだ。

 だからこうして報いを受ける道を歩いても、例え頭に茨をまかれようとも痛みを感じることはもうできないのだ。成れの果てとはこうも惨めなものなのか。

 お互いの息遣いが荒くなっていく。

「うあぃ?」

「ぅぅん。めちゃくちゃ」

 彼女は目尻にしわをよせる。

「ぷはぁぁぁ」

「もういいのか?」

「へへへ」

 彼女は笑って答えの代わりに、仙崎に抱き着いてきて深く息を吸う。

 仙崎も彼女を包み込むように、彼女の首筋に頭をうずめる。

 そこでアリスと帆風とでは、アリスの方が背が高いのを知る。

 手持無沙汰になった視線は、彼女の背中越しにこれから進む道をぼんやりとみていると、二人だけでは少し寂しく感じた。以前来た時のような鮮烈な歓迎がないこともあるからだろうか。

 寂しい風景から目をそらすために、彼女と同じ目線にかがむ。

 そして、頬に口づけをした。ざらついた皮膚が、震えて彼女に接触する。

「ふふん。はー。もう、幸せだなあ」

 帆風の言葉に、強さはなかった。

「なあ、どうして俺の記憶にお前のことを好きだと刻み込まなかったんだ」

「えー、それじゃあ意味ないじゃん」帆風は、微笑して答える。

「はじめはね、私と一緒じゃなくてもいいと思ったの。あの子を逃がした後は、君は目覚めて、街を歩いていると二人が気づかないうちに私とすれ違うの。それだけでよかった。

 君の日常があるだけで、つまんない任務だって耐えれそうだし。

 ホント言うと、君がいなくなって私も、生きているのどうでもいいやとって思っていたの。だから、最期の思い出にって君の記録探しをしていたの。いろんな人に会いに行って君のことを聞くの。私の知らない時間の君を。

 そしたらどうしても会いたくなって。ごめんね。多分嫌なこともいっぱいあったと思う。

 だから君に日常を送ってほしくて、干渉しないようにしないと決めたんだけど、

でも、あんなふうに君が追ってきて、私だけでいいなんて言われたらさ、心臓が張り裂けそうだったんだよ。やっぱり君と居たいなぁって。

 そしたらさ、もう一人が耐えれなくなった。

 でも、幸せは、摂り過ぎたら泡みたいになくなっちゃったみたいだね。ごめん」

「いや俺は……幸せだった。多分、この体になってからの方が、俺は、自分らしく振舞えていたと思う。そこで出会った、帆風は……。君との間にあったのは間違いなく恋だと確信したよ。好きとか嫌いとかじゃなくて、心から、君に出会ってよかったって思えているんだ」

「本当……?」

「安心してくれたか?」

「うん。私も今が一番幸せだよ……。もう……、そろそろ時間だね。行かなくちゃ」

 それが照れ隠しによる言葉かは、分からなかった。しかし、確かめる間もなく彼女は、もう駆け出していた。




 ──抱きしめる彼女は、ずるずると力なく地面に滑り落ちた──

 仙崎は、沈み込むような柔らかい彼女の背中を感じていた。それは、ゆっくりと、最後には手の隙間からするりと零れ落ちるように、感触は消えていった。

彼女は、地面に横たえになった。 

「いいの? もう彼女は」

「しんでほしくなかった」

 帆風が果たして、このような者たちにやられたのだろうか。復讐のために死ぬなんていいはずがない。まだ、寿命と言われた方が納得できる。彼女自身も、長くは生きられないと言っていたはずだ。それがたまたま今日だった。

「あの人は、君たちに復讐してやれって」

 

 

「こんな日がいつか来るといいなぁって、……待ってたんだよ?」

 ほんとにそう思う。こんな日を望めば手に入ったのだろうか。雨が上がった後の、湿っぽい空を見上げても、その答えは返ってこない。踏み外したとすれば自分の方だ。

 一度目だってドジを踏んで死んでしまって、せっかく彼女が創造した記憶の再起すら……どこかで、新たな人生に慢心していたのかもしれない。

 命を懸けて生きるとは、こうも大変なものなのか。

 ──ここまでのことをして、言える感想がそれだとしたら死んだほうがましだ。冗談。

 生きているだけで命は懸けているのだから当然のことを逆に言ってるだけなのだが。それに気づくころには、もう過去に縛られて身動きすることを諦めてしまった。

 君の隣で寝て過ごしたかった。外に洒落たものを食べに行くのも、服を買いに行くのだってどうでもいい。ただ眠っていたかった。動くのがしんどい。

 ──足りない。

 こうして触れ合ってそれが分かってしまった。見た目は出血も止まり傷だって塞がっているように見えるが、彼女の体の修復は始まっていなかった。


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うつろ 荒木紺 @arraki

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