13-6
翌朝、昨日の鬱屈さはどこへやら、今日のことを考え始める。きっと、朝日が差し込む部屋にしたのが良かったのだろう。
アリスを起こすと、白いワンピースに着替えさせ、まだ通勤の時間帯に外出する。頭が起きていないのか、いつもの半分程度しか目が開いてない。
今日の目的地はそれこそ目を瞑ってでも行けるので道を覚える必要はないが。
そう。どの道を歩いていても着いてしまう、言わば終着点のような場所だ。
そこには、これから生きるだけを考えるなら、おそらくこの街で最も安全な場所だろう。
「どっかで、朝飯にしようか」
「アイス食べたい」
「朝からか?」
「だめな理由があるの?」
「いや、ない。でも、一応、アイス以外も置いてある店に行こう」
胸元を扇ぐ彼女に言うと、途端に目を見開き勢いよくうなずく。
「はあ……。お前のせいで、最近はすぐお腹がすいてかなわない」
「食べるのが嫌いなの?」
「いや、そういうわけじゃないけど……。嫌になるんだ。今の自分では、誰かにそれを施されているようで。一人で生きていきたい……」
「でも、シュウ。食べないと、動けなくなるでしょ」
アリスは至極まっとうな指摘をして喫茶店に入っていった。
入るとすぐにまだ学生でもおかしくない見た目の男が話しかけてきた。その時点ですぐ出てしまってもよかったのだが、そうするよりも先に席を案内された。窓際の景色が一望できる席になった。
仙崎は目を伏せ、なるべく通行人の姿が視界に入らないようにする。
この時間にも関わらず店内には自分ともう一人老人がいるだけだった。老人は机に新聞を広げ、こちらを一瞥すると無気力に新聞に視線を戻し、また寝てるか寝てないか分からないような眼に戻る。
仙崎が、ぼさっとしていると、例の男は注文を急かすようにテーブルに張り付いてきた。
仙崎は、焦ってメニューの一番上に書かれているものを頼むが、隣に座るアリスは、不満そうな顔をしていた。
注文はすぐ届いた。
ここの店員は働き者であるだけなのだろう。
パンケーキにホイップクリームがいっぱいにのせられ、付属としてまだ甘くするのか、はちみつが別に置かれた。
仙崎はそれを八等分すると、アリスにフォークを渡す。
「今日は、あの塀のところまで行くよ」
アリスは食べるのに夢中で聞いていないが、話し続ける。
「あそこにいる人たちなら君が一人で生きていくのを手助けてしてくれるだろう。俺が昔通っていた時にお世話になった人にとりあえず相談してみる。もしかしたら学生という身分になるかもしれないし、何か職をくれるかもしれない。とりあえずこの街に馴染む力になってくれるはずだから」
手のひらに押し付けていたフォークの跡をなぞりながら、一息で言い終える。
これから自分が起こす行動の手順をひとつひとつ確認するように。そのくらいの、準備がないと体は動いてくれない。心を慣れさせるために、言葉にして現実味を持たせようとするのだ。
そのうち、何も口にしていないはずだが満腹感で苦しくなる。よく毎回こんなになるまで食べられるな。
もし今日のがうまくいけば、あの日書き出した計画の終わりも見えてくる。魂の帰還の日は近い。
「シュウ。食べ終わったわ」
「ん? ああ、ごめん。デザートを頼もうか」
仙崎は、アイスを頼む。二つ。
カチャカチャと音を立てながら、バニラアイスが運ばれてくる。
本当のことを言えば、自分は食事に何も苦しみはなくなっていた。それでも、過去のことを忘れてしまったかのような素振りを見せることなど、できるはずがない。
『誰に責められるのだろう』という疑問は、ここでは問題ではない。むしろ、そこが空欄だからこそ、いつまでたっても怯えなければならないのだ。
もし、そこに誰かの名前があれば、自分はこうして恥をさらして生き延びるような真似はしない人間なのだ。終わろうとするたびに、そこに誰かの名前が書かれるような気がして、死ねない。
「シュウが食べないならもらうわね。あーあ、もったいない」
仙崎の前からアイスを取り上げ、パクパクと口に運ぶとすぐに頭を押さえる。そして、また食べ始める。仙崎は、そのパターンをただ眺めていた。こちらに痛みをよこさないということは、その痛みがアイスのおいしさの一部とでも思っているのだろうか。
「人の幸せを奪わないで。疫病神」
耳奥に沈み込むような声が届く。
次の瞬間には、仙崎は、音の消えた世界で椅子から崩れ落ちていた。
鼻奥には硝煙の匂い。脳内に金属音が響き、聴覚情報を遮断する。
首元に冷たさを感じ、その首のありかを疑い手をやるも、手のひらには白い液体がついていた。
そしてようやく自分を撃ち抜いた、敵に意識が向かう。
恐る恐る頭を上げる。
「私のこと覚えてますか?」
優秀な体は、けだるさが残るぐらいに修復を終えていた。
しかし、どうしてか、この危機的状況でも朝のまどろみの中にいた。安全地帯での生活が長すぎて、危機感が薄れてしまったのはあるだろう。
「やっぱり、覚えていないのね……」
一応警戒だってしていたはずだが、その網を抜けてきたというのか。
「今まで何してたんですか? 仙崎宗さん」
「えっと、……」
そうか。その名前を知っているということは。忘れていた記憶が蘇ってくる。
いや、きっと気づかなかったのは、自分の記憶だけのせいだけだはない。二年という時間は、彼女の容姿をがらりと変えていた。身長は二回りも大きくなり、体つきは、直視が出来ないくらいには、大人という感じだ。
「凛香だっけ。随分かわいくなったな」
「その反応、やっぱりあなたは、まだ寄生しているのね」
彼女の襲撃がどのようなことを意味するのか。
「ああ。」
「それで、あなたは、今何してるの」
彼女のさす『今』が、この状況のことを言っているのか、それとも……。
「逃亡犯の生活に、何かあると思うのか?」
「そう? 逃亡犯のわりにはずいぶん堂々とした生活を送っていたじゃない。野良犬なんかに食われて死ぬなんてかわいそうだと思って見ていたのだけれど」
「監視か……。懐かしいな……」
彼女はあなたのことは全て知っているから話せと催促する目線を向けてくる。
「さあ? 学校にでも通ってみようかとは考えていたけれど……」
「今更? 遅すぎじゃない?」
「今更って言い方ひどいな。今なら九年生くらいになるのか?」
どうして自分はわざわざそんなことを明かしているのだろうか。
「それにしても久しぶりだな。そんな格好に銃まで持ち出して、随分変わったようだな。お前は。まるで……」
言いかけてやめる。例の勝手な神の啓示が彼女の所属を言い当てるのやめさせた。 服装からの特徴合わせれば、そうとしか思えないが。
「変わったのは私じゃないわ。あなたが変わってしまったの」
仙崎は笑う。人がそう簡単に変わるはずないじゃないか。
「よかったよ。まだそんな幼稚なことを言っていてくれて。ようやく君だと確信できた」
「それはどうも」凛香は、微笑んでいた。それが、作ったものか自然に出たものなのか仙崎には、見分けがつかなかった。
「あなたのような人に出会ってしまったせいで、危うくおかしくなるところだったわ」
「それは、アリスのことも否定するのか?」
仙崎は、彼女の動じない姿勢が腹立たしくなり(先に口撃をしたのはこちらなのだが)、つい、彼女の名前を使ってしまう。
「あ。そういえば仙崎さん。あなたの、素顔も見ましたよ」
心拍数が急激に上昇するのが自分でもわかった。
「どうしたんですか? 顔はかっこいいとは言えませんが、訓練の成績は悪くなかったみたいじゃないですか。事故さえなければ、それなりの昇進も見えていたでしょうに。
まだ話しましょうか? それと、忠告しておきますけど、余計なことは今ここで話さないほうが良いですよ」
彼女の同胞と思われる、複数の人影と、道路には、車が三台停まっているのがガラスに映っていた。その手には、同じ型の銃が握られていた。
この街の秩序がついに捕らえに来たのだ。それなら彼女は何者になったのだろう。と、凛香が机に置かれたドロドロに溶けたアイスを指につけて舐めた。いつの間にか空調が切られ、室内が外の気温に近づいているらしい。
「まずいわね」
「俺を殺すのか……」
訊いてはいけないのかもしれない。
彼女の様子を見るにそれは正しかった。凛香は、無視して代わりに別のことを明かし始めた。
「仙崎さん。私は治安機関に入りました。きっとあなたの影響もあったでしょう。だから、それだけ人に迷惑を与えるような存在なんですよ」
優しい声音だった。彼女はもうあの時の少女ではないのだ。あの日羽化しかけていた体は、もう完全に乾ききった大人なのだ。
「たった二年で、ここまでとは。まるで別人だな」
仙崎は小さく笑う。彼女をというよりは、自分のこの二年と比べての自嘲に近いものだ。
「そうですか? ……まあ、女子ですからね。てか、こんな時に変な目で見ないでください」
前で腕を組むと視線を避けようとしているのかその体をよじる。
「ちげーよ。さすが恋する女の子だなと感心したんだよ。お前にじゃなくて、親友にな」
初めて凛香は、眉をぴくっと動かした。
「なんだ……。知ってたんですね……。ならわかってくれますよね? あの人に近づいてほしくない。
あなたがいると、あの人はまともに生き方をしてくれないんです……」
「いいのか? お前が勝手に決めてしまって」
凛香の返事の代わりに、仙崎のすぐ目の前の床に銃弾が撃ち込まれる。
「おい! 早く終わらせろ」
撃ったのは覆面を被った低い声の男だった。
「そうですね。でも、あなたも覚悟できているから、こんな風に我が物顔で歩いていたんでしょう?」
「……たしかにそうなのかもなぁ」
本心を隠すために、間の抜けた返しをする。彼女の言った覚悟は、放たれてしまった弾丸と同じようなもので、それでは、自死の匂わせと時間稼ぎとを含む、あの見せびらかすように机に置いたノートとは違う。──あえて覚悟といえるのは、あれを、見せびらかすように置いてきていることだ。むしろそうして、発見されることで何か事件が起こるか試してみたのだ。
仙崎が口を滑らす前に凛香が目線を落とす。
──何か始まるぞ! と仙崎は口を閉じ、歯を食いしばった。
「……嫌なんですよ。わたしだってアリスを、いいえ、仙崎さんあなただって殺したくない。ごめんねアリス。
でも、もうあなたの魂と混ざり合ったモノは切り離せない。きっと、この死はあなたのためになる。本当ごめん」
「ごめんてなんだよ……馬鹿にしないでくれ。謝るくらいなら、はなからこんな任務受けなければよかったじゃないか」
「それなら、どうすればよかったんですか‼ わたしは、あなたを生かし続けることを許容できない。それと同時に犬死するような悲しい結末だって避けたい……」
凛香は胸の前で指を合わせる。
「だからですね、あなたに与える罰をわたしが裁断することで決着することにしました。これがこの街で最後に侵す罪となるはずです」
これ以降彼女の行うすべては正義によるものなのだ。そこに彼女の意思は混在しなくなる。この街へ向けられる批判をも超えた存在。システムにおいて、人には順位がある。それを必死に道徳や良心によって、平等と説きその証明を担保に生きてきたが、こうして顔見知りの人間が目の前に現れてしまうと、武装はもろくも崩れてしまった。
「……わかっているのか? 俺たちだって生きている人間なんだからな……。罪とか、罰とかという言葉で正当化できるものなのか?」
「はい」
なんという、ためらいのなさ。それでひるんでしまって、それから口から出たのは雑味のない言葉だった。
「あなたはどの口が、と言うのでしょうね。でも、わたしにはできます。だって、今日から、この街の住人に並べと言えば、整列し、歩けと命じれば、行進が始まる。あなたも、これからその順番に並ぶんですよ」
「それだとしたら、ずいぶんと優しい命令だな」
「あなたはこんな状況になっても発狂するそぶりを見せない、度胸があるというか、ある種の才能なのかもしれませんね。しかし、それはこの街ではむしろ枷となってしまうというのは、皮肉ですがね」
「お前が……殺すんだな。俺たちは、お前の手によって殺されるんだなッ!」
凛香は、静かに頷く。
「──それで命乞いはもう終わりですか?」
とっくに弁明など尽きていた。そして先ほどの虚栄にもならない、叫びである。仙崎は自分自身に失望した。最後の最後。すぐそばに死を感じていた。
息が細くなり、口まで使って息苦しさを軽減させている状態だった。
凛香も、それに合わせて育った胸を鼓動させる。彼女も決して、単なる任務の一環とは思っていないのだろう。顔には涙をためていた。
「……もういい。もう、何もかもしまいにしよう。それで、俺はどこに行けばいいんだ……」
何とか絞り出した言葉はそんなものだった。
「そう。うん、まあ、……そうね。もう話すことも意味がないですね。それじゃあ、行きましょう」
どうやらここは適した場所ではなかったらしい。仙崎も喫茶店なんかで、悲痛の声をあげたくはない。というか声を出すの自体もう嫌になっていた。
凛香は、ごく自然な動作でアリスの腕を握る。
「いい。一人で歩ける」
しかし無情にも、力を込められた腕は外されなかった。
「っ……!」
凛香は何も言ってくれない。
強情な人物を強制連行でもするように、両手で、アリスの細い腕を押さえながら押すように歩き出す。
喫茶店から外に出る。
「連中が見てるよ」
男の声。先ほどのような、ザラザラと心臓をなでるような声ではない。思わず立ち止まり、視線をめぐらしたが彼の姿見つけられなかった。
代わりに日差しと、猛烈な視線が瞳に飛び込んできた。
生きた証。眺める老人。若い店員。だれもかれも、グルだったのだ。
途端に目頭が熱くなる。しかし、それではこいつらのいい餌だ。
「あなたが殺しに来てくれたらよかったのに」
仙崎は、つぶやく。
並んで歩くアリスにも、ほとんど影が重なり、後ろで肩と腕をつかみ歩いている凛香にも聞こえていない。
仙崎はどうしてか、このような、行進の中に、いつかの懐かしさを感じていた。
「凛香、その耳に入れてるやつは切ったほうが良い。俺にも聞こえてる」
先ほどから、耳に届く砂嵐のような雑音。気にするほどではなかったが、わざわざ指摘してやる。凛香は、少しして、それを耳から抜き道路に投げ捨てた。
「いいのか? あいつらと、繋がってなくて」
「意思疎通の手段はほかにもあります」
ぴしゃりと言われてしまう。
ああ。本当に彼女はこの街を統制する立場になったのだ。
「……そうか。それは残念だ」
「抵抗するなら早くしてくださいね。あまり、アリスの体を傷だらけにはしたくはないですから。一応」
「一応ね」仙崎は彼女の言葉を繰り返す。
彼女の顔を見ると、目に浮かんでいた涙はすっかり引っ込んでいた。昔の君なら泣き疲れて眠り込んでいたなどと茶化そうとも考えたが、この状況で「強がり」と捉えられては不本意なので喉奥に引っ込める。
つまり表向きには、従順な犯罪者として連行されていた。周囲の視線により、顔を上げることもままならなかったが、それが余計にうなだれて歩いているように見せ、らしさを演出していた。凛香ですらそれだけで騙せている。腕にかかる力は、抵抗の意思なしと判断したのか先ほどより緩まっていた。きっと、彼女もこの事態を自身の使命と心得ている過去の仙崎宗しか知らないからだろう。
仙崎にとっては、彼女の優しさは終わりが近づいているのだと強く実感させる脅迫でしかない。逃避行は、終わりを告げるのだ。物語に終止符が打たれる。
仙崎は唐突にのどを潤したくなった。頭には、これからの処刑で頭が一杯で人生の走馬灯を見る余裕がなくなってきた。──どのような手段で殺すのだろうか? きっと、普通の手段ではないだろう。それでも彼女のことだ、長く苦しめるような真似は避けてくれるだろう。
初めに浮かべた自分の死体は、肉片が散らばるようなものだった。赤い血だまりの上に転がる体。次には、前時代の首を刀で落とす姿を想像した。これは先ほどより想像するのが難しかった。自分には血の上に転がる死体の方が、親しみがあるのだ。
仙崎のそういった、経験とも場数ともいうべきものが処刑場を創造する。何度も見てきた惨憺たる現場。その、際限のなさからか頭が痛みはじめた。しかし、ここで苦しみについて口にするわけにはいかなかった。頭蓋骨にボルトをさされているような痛みだった。仙崎はどうにかしてこの痛みを和らげようと試みる。
まずは歩くことに集中する。
そして幸せを考える。
しかし、いくら考えても、一つも再生されなかった。渇きが酷くなり、まともな思考ができなくなっていたのだ。妄想が底をついた。
もはや彼女の言う通り、この列の並びを守ることくらいしかない。
仙崎の後ろには、凛香が、そして、部隊が連なりその最後尾を装甲車がつけていた。そしてみんな、俺の歩くスピードに合わせて動いていた。
そのうちある思い付きが、脳内を蝕み始めた。仙崎には、帆風からの逃亡から始まった今まで逃げ延び続けたという奇跡も、その自信を加速させた。
その第一歩、伏線、前兆が口火を切る。
もしこの歩みを止めれば、どうなるのだろうか。この状況において、好奇心は自発的に生まれる唯一の行動原理だったせいもあっただろう。
俺は、立ち止まっていた。
すぐ後ろについていた凛香は躓くようにして背中にぶつかる。仙崎自身ですら、その衝撃を感じて初めて自分が立ち止まったのだと理解した。
すぐに凛香によって地面に押し付けられ、両腕は曲がる限界で腰のあたりに抑えられる。よく訓練された無駄のない動きだな。仙崎は、まるで他人事のようにそんな感想抱いていた。
「どうして立ち止まったのッ‼ 歩いて、歩かないといけないのよ‼ 仙崎さん! あなたは這いつくばってでも歩いてもらわなければ困るんです」
彼の脳内には抑揚のない詩のような歌が流れ、暴言や罵倒を阻んでいた。叫ぶ声もまた歌詞の一部。
「こいつはただ躓いただけよ‼ 阿保らしく道の真ん中でくたばってる様に見せてるのよ」
凛香の決死の報告にざわめきが一度は収まるが、当人である仙崎が、膝を曲げ、うずくまるようにして地面に頭を付けると、怒声は加速した。甲高い女の声と、腹に響くような低い男の声が混ざり合う。それでも仙崎は、一歩も動かず態勢すら戻さなかった。
自分の戦争は終わったのだ。敗北という結果を受け入れる必要があるのだろうが、誰がこの責任を取るのだろうか? この事件の首謀者は誰と報じられるのだろうか。
酷い動悸が、呼吸を乱す。かつての死にたがりでは、収まりそうもない。ひとりの大男がその気を感じたのか、はたまた好奇心によるものか、向けられた銃口が怪しく光り銃声が響く。
「やはりあなたは、……厄介ですね。これ以上演技を続けるようなら、私の立場も危うくなってしまうのですが……」
凛香は熱した息を吐いていたが、仙崎はどこか遠くにいて、彼女の声は届いていなかった。
「なあ、アリス。お前は今日死んでしまうらしい」
唇を動かすたびに、ざらついた砂が唇に纏わりついてくる。
「らしい?」
「いや、まあ、俺のせいだと思ってるし、あの日のことを忘れたわけでもないし、むしろ、お前の生活を守りたかったんだけど」
「そう……。私もシュウもここで死ぬの。約束破りね」
「この状況で、お前まで俺を責めだすと俺もさすがにつらいよ」
最近の生活は、自分でも何となくいいなと思っていたんだ。──そう。君のこれからのための計画。もっと、言うなら俺はそれを誇っていた。
アリスの告げた、「生きたい」という言葉は、はじめは足枷でしかなかったけど、最近は、そのことで自分は生きながらえていたと思う。まあ、死ぬって言っても具体的なものはなにも浮かばないけど。
「死ぬのがいやらしい」
仙崎は、精いっぱいの笑みを湛えてそういった。
「あら、めずらしい」
そういう彼女の口元にも笑みがあった。
「もっと言うなら、俺は生きたい。今なんて、このまま、這いつくばっていたら時間が過ぎて明日が来るのを待とうかなんて思ってるくらいだ」
少しオーバーな言い方だが。しかし、試験で四択を当ててやるくらいには、本気になってしまっている。それ以外に自分のこうした心構えの説明がつかない。
「それはバカみたいな話ね。」
「だよなー。でも生きたいんだよなぁ」
心の奥底に秘めていたものを掘り起こしているのだ。自信をもって真実と言える、それだけではない。世界の心理に触れているような心地にひたっていた。生きる──醜いか、それとも命の美しさか。その共存を今自分は受け入れようとしているのだろう。
「それは私の願いと一緒?」
「……たぶん。人生への希望というより。生きることへの、羨望かな。一回死んでるしな」
「わかんない。シュウは……。シュウはさ、なんかしたいことでもあるの?」
仙崎は少し考える。
「ああ。やっと俺にもするべきことが頭に浮かんできた。遺書だ。遺書を残さないと。書くべき、文章は心象ではなく文字ではっきり浮かんできている」
「いしょ?」
こういう時は、アリスの物知らずが、もどかしかった。
「俺はさ、帆風のことが好きだったわけじゃん」
「ん? シュウ、頭おかしくなった?」
「お前にだってそうだ。一方的だけど、感謝している。死ぬのを止めてくれたことも、今まで、……ずっと我慢して一緒にいてくれたことも。ああ、それに、神木にもお礼は、言っておきたいな。そういうのを残しておくんだ」
「わたしは……」
アリスの続く言葉はなかったが、彼女の意志だけは、今も体中に響いていた。
「ごめん。お前の願いを叶えられるか分からないけど、俺もお前と同じ気持ちだからってことが言いたくて。えっと、……その、どうしても完成しないままで死ぬのは、いやなんだ。
今はそのための時間が欲しい。せめて一日。そういった意味での明日。明日の午前中には内容をまとめて、昼飯を食って書き始める」
「だったら、凛香にそう言って頼んでみる?」
「……無理だろうな」仙崎は首を振る。
「そうね。シュウがリンカにしたことを考えたら、仕方ないけど」
自分はこの街に、この世界に生まれてから何も意味なく死んでゆくのだ。それに一匹の動物として敗北を喫していたいま、抵抗は生きながらえることを考えれば悪手。
あの店を出るときには、確かな死を感じて、自分は、受け入れて苦しまない手段そして、なるべく体に傷を残さないことを考えていたはずだ。
こうして市中引き回しを、それこそ、好奇心なんかで行わなければきっと、悪魔との契約なんてものは、行わなかったはずだ。
「そうだわ。わたしも一つ決めたの」
「このタイミングで?」
「ええ、私はあなたと、一緒にいるわ」
仙崎は驚愕でアリスを見た。そこで思い出す、自分は彼女と戦う。もう彼女と言うのはやめよう。正義。治安機関。街。それらと戦う力を与えられているのだ。
「生きたい。……俺は生きていたいんだ」
例えば、「死にたい」「死んでやる」なんて言葉を口にしてしまえば軽薄になるのだとしたら、自分がいま口にすべきなのはこっちなのだろう。
罪には罰が。その罪とはなんだ。──裏切り、殺し。自分はどれか一つでも満たしているか。吸血鬼を殺したのは帆風だったし、あの病室だって治安機関とは明かされていない。そこから逃亡したところで、刑務所からの逃亡とは違う話だ。そして、宗教的に死ぬことが罪というのなら、自分は捨てられたではないか。生きたいと言った。
考え出したらきりがない。
「凛香、離してくれ」
仙崎は、組まれていた腕を知恵の輪でも外すかのように腕の拘束を解く。彼女からしたらあっさりとほどかれてしまったと、不思議に思っているだろう。自分が何と言って、彼女の拘束を解いたのか分からないが、とにかく自由の体を手にした。
コンマ数秒遅れで彼女が自分に起こった不思議に抵抗し、再びの力づくの拘束を試みるために動きだし──
が、仙崎は、それを人差し指を凛香のおでこに触れ、先の先を制する。──銃を気取った手真似で脅す。
それから、指先に力を入れると凛香は、体の軸を失ったようにふらふらと体を後退させた。
さあ、敵から距離をとることにも成功した。
解放感と共に、この包囲網を自分の能力でまるで蜘蛛の糸を張り巡らすように赤い糸によって薙ぎ払う妄想が、去来するが、それを実行しようとする気力は起こらなかった。
「アリス、痛くなかったか?」
「ううん。シュウこそ……」
それからした行動は体の細胞単位で統率の取れた、計画されたことではない。アリスの血に帆風のモノを混ぜたから、彼女の反射とも言える行動。とにかく考えなしの行動だったとだけ言っておこう。
なんてたって、この場で、次に何をしようと考える余地が与えられるはずもなかった。
仙崎は、じっと見つめているアリスの目の前に立つ。自分の胸くらいの高さしかない少女を抱きかかえる。
片方は腰のあたりを支え、もう片方は首のあたりに触れ、髪をさらさらと撫でていた。──体の反射。帆風が俺の血を混ぜたせいに違いない。
「やっぱり、風呂には入ったほうが良い。相変わらずいい匂いのする髪だな」
「……相変わらず?」
「……あ。」
アリスに向けられた銃口が一斉に火を噴く。光が先に目に入り、次に銃弾が見える。そして後から音が届く。入れ替わることのない順番。それらは、アップテンポになっていく。
仙崎は一切身動きせず、気の遠くなるほどの時間、肉体が焼けていき、被弾した個所から黒く焦げていく感覚を味わっていた。アリスだけは放したくなかった。足が震えだし、体をめぐる特別な血液が外世界へと、漏出していく様を歯を食いしばり、砕け耐えていた。後世に残るこの映像から、なにか作品でもいいから曲とするものが現れる。そんなことを思いながら。
視界はアリスの後ろに立つ、彼女を捉えていた。
彼女の接近に近づくものは自分を除いて、アリスさえも、気づく者はいなかった。
アリスはもちろん抱きしめられ、その視界を奪われていたせいだが、ほかの者も足を踏み入れれば、地面を侵食する血流に飲み込まれ、表面から毒のように溶かしていくことになる
場所へ、わざわざ近づく者を銃弾と硝煙の立ち込める中、感知せよという方が無理な話だ。
さらに、彼女の歩き方が、ふらふらと、野次馬のような他人感で迷彩を施されていたせいもあるだろう。
ここでは自分しか、その外見を言い表せる人がいないので自信がないのだが、彼女は迷彩なんて服装ではなく、赤いポンチョを被り、フードのせいで顔は暗く、足は惜しげもなく露出されていた。スラリとしたなんて表現は似合わない、もし言うなら仁王立ちが似合いそうな足だ。
彼女がこの戦場の来訪者となったのは、それから一分ほど後。
戦禍の中心に彼女がたどり着き、ようやく彼女にも殺意が向けられたが、彼女に起こったことといえば、近づいたことでできた俺との身長差で顔を見上げ、その動きでフードが脱げたくらいだった。
「俺の思い出はあの日で止まっている。君が放課後、別れ際にほほにキスをしたその感触その時の背景その時の温度その時の赤くなった頬。……それだけが全てだし。それが唯一の幸せの思い出なんだ」
帆風の目を見つめながら、仙崎は囁いた。
「えっと……、ふふ。さすがの私でも引いちゃうかも」
「でも、その思い出が俺には重荷になっていたんだと思う。お前に見合うとか、考えてたらこんなありさまで、今は明日が欲しいなんてのたうち回ってる」
「いいよ。それでいいの! 私、宗君には死んでほしくないもん。なんで、私が宗君を生き返らせたと思っているの!」
帆風は、口を引き締めるでも悲しみに暮れるもなくこの場でただ一人、頬にしわを作り笑っていた。
どうしてここに彼女がとは思ったが、考えてみれば簡単なことだった。この街に広げた彼女の血は当然この戦闘だって感知していた。
これは自惚れだけど、──彼女が俺を見捨てるということはあり得ないのだ。
「どうかな? 宗君もこれから楽しみなこと思いついた?」
楽しみ? 彼女の無邪気な顔を見てそれが本心なのだろう。帆風は結局「あの頃」のまま、成長できたのだ。当たり前のように、未来に対し希望を抱く少女。
視界にちらと、かつての少女ともいえる凛香が見えげんなりする。
「こんなところの、どこに楽しみがあるんだ……」
「だってほら! 宗君、奇跡だよ! 私たちこんなんでも死んでないじゃない。きっと神様も私たちを認めてくれているのよ」
「お前が死なせてくれない」と言おうとしたが、ちょうど目の横を銃弾がかすめ、その機会は失われる。仙崎はじっとそちらを睨みつける。がそれから一歩を踏み出すことは、しないし、できるエネルギーもない。──だから煩わしいと思ったが、それだけ。
「帆風。お願いがある。俺たちのことを、この街から逃がしてくれないか?」
「うん。えっとね、そのことだけど、」
帆風はうつむいて言う。まるで、そのお願いが来ることが分かっていたかのようだった。
「その、……もしさ、もし私が……、私がね、二人きりじゃないと逃げないと言ったらどうする気?」
今度は、よく顔を見て。一つの感情も逃さないそんな監視の目線をやる。仙崎はその圧に押されるようにして、じりじりと下がりながら言う。
「俺に失望したか?」
「ううん。そんなんしないよ!」
「初めから俺はこんなやつなんだ……。人間らしさ。人間らしいさ」
「違うってば……。宗君は、そんな人じゃないよ。……でも、私がそんなこと言っても無駄なんだよね……」
「ああ……」やけに素直に同意できた。
「でも私はあなたが生きてるだけでうれしいわ。──うれしいの。二人で過ごすだけでいい。誰だって関係ない。それに、……私たちにはもう頼るものなんてないでしょ?」
瞬間、帆風が選択を迫るために意図して作り出した状況だとすれば、という考えが脳裏によぎったが、そうだとして、自分は多少でも怒りがわいてきただろうか、とも思う。
そしてこの状況は以前の(どこまで遡ればいいか記憶も定かではないが)自分が憧れていたような気もする。彼女が近づくときに感じた高揚感──それは英雄の登場。つまりは、共に戦うという道を僅かでも抱いたからなのだろう。
「アリスは死んだ」
ぞんざいな言い方だが、それ以上に彼女を憂う言葉を知らなかった。変な脚色も感傷もしたくない。
そして、帆風もまた彼の言う言葉を推測する。
「ええ。あなたと私の血に飲み込まれてしまったようね」
流した血が多すぎたのか、再生には彼女の血が使われ、アリスという人間としての血は、薄まっていっていた。
「何言ってんだよ。おまえは……本気で彼女に関心がないのか……。誰が彼女の人生をめちゃくちゃにしてしまったと思ってんだ」
お互いに黙ってしまった。
しかし、帆風はじっと、彼を見て。仙崎も〃で首の座らない赤子のようにあたりを見ている姿を見れば、これが弔いの間ではないことは明らかだ。
仙崎は、帆風の登場でできた時間で体を動かせるくらいには回復していることを、考えていた。
見渡す人々は、現れた得体のしれない少女に、張り詰めた緊張感は限界に達し、戦場特有のイラつきがあった。
これが慣れの果てか。
仙崎は、帆風より先に動き出していた。
脂でぬれた路面を、足の裏に赤い棘を生やし駆けだした。
「帆風、ごめん。……もう何も感じないんだ……」
今にも「生きたい」いいえ、もっと醜い、「死ぬのが怖い」と白状し、何もかもぶちまけてしまいたい。
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