第43話

***


 時は流れて、大学四年の冬、暦は三月に入ったばかり。

 卒業間近の私は、連日卒展の搬入やその他諸々の準備に追われ、擬人化したボロ雑巾と化していた。今日は卒展の初日である。久しぶりに身なりを人間らしい状態に整え、何なら少しだけ可愛らしい服を着て外出した。特に髪の毛はきちんと手入れをして、美しく靡かせる。駅の改札口の前で、柱に身を預けて私はぼーっと行き交う人々の姿を眺めていた。

「久しぶり」

 真横から声がして、頬を人差し指でつんと突かれる。私は身を預けていた柱から背中を離して、小さく微笑んだ。

「律くん、久しぶり」

 少し伸びてさらにふわふわになった髪の毛が揺れて、彼は躊躇いもなく私にぎゅっと抱き付いた。しかも、その勢いのままチュッと軽くキスをする。私はぎょっとして身を固くする。

「会いたかった、香ちゃん!」

 律は、そう言いながら私の髪を指に絡ませる。

「り、律くん⁉ここ、駅だよ!恥ずかしいよ!ティーピーオー!」

「大丈夫、ここは石川県じゃなくて東京都だから。都会だから、全然あり」

「大丈夫な理由が何一つ分からない……」

 小型犬のようなノリでくっ付いてくる大型犬のような人間を引っぺがして、私は目的地に向かって歩き出した。

「私の大学の最寄り駅だから、あんまりくっつかないでよ」

「えー……だってお互い、卒制や卒業演奏会に仕事も忙しくて、一ヶ月くらい会えなかったでしょ。寂しかったんだよ、俺」

「でも友達や後輩に見られたら、後で死ぬほど弄られるからやだもん」

「いいじゃん、男避けになって」

「私に言い寄って来たの、今のところ人生であなただけだから要らぬ心配ですよ」

「美大は見る目のない人間ばかりで良かった」

 会話が全く噛み合わないまま、私と彼は駅を出た。大学は駅を出てすぐそこにある。学内入ると、足元は石畳に変わる。校門を抜けて、庭園を突っ切り、しばらく進むと大きな旧講堂がある。旧講堂の入り口の前には、卒展の立て看板が掲げられている。

「あのさ、気のせいじゃないと思うんだけど……俺、校門あたりからすれ違う人たちにじろじろ見られるんだけど」

「あー……多分、卒展見てくれた人じゃないかな」

「え、どういうこと⁉あのすごい金額のモデル代くれたのって卒展の作品描いてたの⁉」

「言ってなかったっけ?」

「聞いてないよ⁉あれ、半裸だったじゃん!」

「やっぱり、どうせ描くなら筋肉も描きたいじゃない?一ノ瀬くん、音大生のくせに筋トレサークル入って、無駄に鍛えてるんだから有効活用しないと」

「音大生だって体鍛えてもいいでしょ⁉待って、俺の半裸の絵が飾れられてるの⁉それを俺は今から見に行くってこと⁉さっき駅でよくも俺にティーピーオーだのなんだの言えたね?」

「さっさと行きましょう。折角見に来てくれたんだから。黒川さんは午前中に来てくれたよ。いい胸筋だったって言ってた」

「喜んでいいんだよね、それ……?」

 恥ずかしがる律を引き摺って、受付まで行くと受付係をしていた後輩が「あ、すっげえ、本物だ!」と大きな声で言い、周囲にいた美大の仲間たちがわらわらと集まってくる。律は美大生の群れに囲まれて、子犬みたいに怯えていた。しばらくして人々が去ると展示室のほうから友人の七緒が歩いてきた。

「あ、香!あんたの卒制、今見て来たよ!」

「七緒!ありがとう」

 私は七緒のもとに駆け寄った。七緒は無事に希望する会社で内定をもらって、春からは都内でデザイナーとして働くらしい。今は髪の毛を推しのメンバーカラーだとか言って紫色に染めている。

「お、これが噂の律くんね?本当に背が高いね!」

 小柄な七緒が律を見上げると、首が痛くなりそうだ。律は七緒のことは私からよく聞いているのでにこやかに挨拶していた。

「君が香のラブレターの相手だったんだよね?良い人で良かったよ」

「え、ラブレターのこと知ってるの?」

「ちょっと、七緒!その話はしなくていいから!」

「照れんなってー。香ってば飲み会で泥酔する度にラブレターのことをあたしに言ってたんだよ?」

「七緒さん、その話詳しく。もっと聞きたい!」

 私は律と七緒を引き離して「だめ!」と怒った。冷やかす気満々の七緒に「後で連絡するから!」と言って、私は彼女をさっさと展示会場から追い出した。

「そうそう、律くんっての香りの絵で見た通りだね!」

 七緒はそう言い残して帰っていった。

「どういう意味だろ?」

「さあ……」

 ようやく、展示室に入って私たちは卒展を鑑賞し始める。レベルの高い作品たちを観ながらますます律の足取りは重くなった。

「評価が良かったって香ちゃんは言ってたけど、俺なんかがモデルの絵でちゃんと卒業できるの?大丈夫?」

「大丈夫だよ。すでに卒制の絵を買いたいっていう人が午前中に現れたくらいには良い出来だから。画廊のオーナーからも連絡あったし」

「嘘⁉俺の半裸、売らないよね⁉」

「売らないよ、オーナーは残念がってたけど」

 人の良いオーナーは電話で断った時も優しかった。契約してくれるギャラリーや画廊、パトロンのおかげで、迷っていた時期もあったけれど、これから私は画家として生きていくことになっている。

 一方、律は春から大学院に進み、さらに現代音楽を学びながらプロの作曲家としても活動を続けるという道を選んだ。音楽のことはよく分からないが、話を聞くにすでに彼の才能は認められていて、人気アーティストの楽曲制作や、ドラマや映画の音楽などの依頼が来ているらしい。

 隣で騒いでいる子供っぽい彼は、そんなにすごい人には見えないけれど。

「てか、ねえ、どんな絵?公共施設に展示しても大丈夫なやつなんだよね……?」

「失礼な人だね。そこにヌードの絵だってあったじゃない。別に裸でも美しければ厭らしくないよ」

「た、確かに……その通りだ」

 妙に納得して、律は大人しくなった。会場内ですれ違う人からは相変わらずじろじろと見られていて居心地は悪そうだったけれど。他の作品を見ながらゆっくりと会場の奥まで進んでいく。展示会場の最奥まで来ると、律は足を止めた。

「あ……俺だ」

 私の絵は展示会場の最奥に飾られていた。

 巨大なキャンバスに描かれたのは、隣に居る彼、一ノ瀬律だった。絵の中の彼は夕陽が沈んだような薄暗がりの中で、半裸にシーツを纏う。優しく蕩けるような笑みを浮かべてこちらを見つめていた。一本一本、細い筆で彼の長い睫毛や髪の毛を丁寧に書き込んだ。彼のチャームポイントのふわふわの髪は今にも風に靡きそうに見える。笑うと必ず下がる眉毛、浮かぶ靨。色白な肌、短く爪を切り揃えた美しい指先。彼を形づくるすべてが愛おしく感じられて、絵を描いている時こんなに幸福な気持ちになったのは、この絵が初めてだった。

 ああ、私ってこんなに幸せな絵が描けたんだ。

 描き上げた時、そう思って不意に涙が出た。

 この絵をきっかけに、画家として生きていく決意を固めることができた。

「……どう?」

 隣で呆けたまま、絵を見上げている律を小突いた。彼は絵に視線を向けたまま「どうって言われても……恥ずかしい」と困ったように呟く。

「気に入らなかった?」

 しょぼんとして尋ねると律は違う、とはっきり否定する。赤くなった顔を右手で隠すように覆って、彼は言った。

「俺って、香ちゃんの前でいつもこんなとろけた顔してるの?」

 彼は耳まで赤く染めて、消え入るような声で言う。

「だってこれ……香ちゃんが好きって顔に書いてあるみたいじゃん」

 その言葉を聞いて私は思わず、声を出して笑ってしまった。笑い過ぎて涙が出るくらいだった。笑い泣きして目尻に溜まった涙を、指先で拭った。そして、彼の手を握りながら言った。

「良かった、それならタイトル通りに描けてるね」

 絵の横に添えられたキャプションには「笑顔の恋人」とタイトルが記されている。我ながら、のろけたタイトルだけれどこれでいい。おばあちゃんになった時に、あんなタイトルをつけて若かったなあ、と笑えればそれでいいのだ。

「でもさ、こんな絵を描いちゃう香ちゃんも俺のこと相当好きだよね」

「……まあ、それなりに」

 ちょっと恥ずかしくなって誤魔化した。その時、ポケットに入れていた携帯がブルっと短く振動した。携帯を取り出すと、恩師の高岡先生から教育実習ぶりにメッセージが届いていた。どうしたんだろう、とメールを開いて私は「えっ」と声に出して驚いてしまう。

「香ちゃん、メール見て固まってるけどどうしたの?」

「そ、それがさあ……」

 私はメールの画面を彼に向けて、苦笑しながら言った。

「高岡先生が腰を痛めて手術するらしくて、春から三カ月だけ石川で非常勤講師をしてくれないか?だって」

 律も私と同じように画面を見て「えっ」と声を上げて驚いている。さて、どうしたものか。もう二度と教壇に立つことはないだろうと思っていたけれど、教員免許は無駄にならなかったらしい。

 どうやら、私はもう一度だけ先生をやることになりそうだ。


【完】


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誰そ彼ラブレター 犀川みい @66mii

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