第42話

***


 私達は学校からの帰り道の途中、あの公園に立ち寄り、ベンチに座って互いの高校時代の話を答え合わせするように話し合った。

 私が一ノ瀬のピアノに救われたように、彼も私の絵に救われたと言う。そして、私が彼に名無しのラブレターを送ったように、彼も私にラブレターめいた手紙を送っていたのだ。

 そして、私達は信じられないことに、互いの作品に惹かれ、顔も名前も知らないに恋をしていたのだという。答え合わせをして、あまりに出来過ぎているので二人して笑ってしまった。

「一ノ瀬くんがくれた手紙、大事にとっておいてあるんだよ」

 私は鞄から手帳を取り出して、挟んでいた宝物の手紙を取り出して見せた。それを見た途端、一ノ瀬は顔を両手で覆い隠して声にならない叫びをあげた。

「無理!出さないで、そんなもん!恥ずかしくて死ぬよ、俺⁉」

「音楽室で手紙を出された時の私の気持ち、分かってくれた?」

「死ぬほど分かった……あの時はごめんね」

「分かればいいの」

 私は手紙をまた手帳に挟んで、鞄の中に大事に仕舞った。一ノ瀬ははーっと深くため息を吐いた。照れ隠しみたいに、空になったジュースの缶を離れたゴミ箱に向かって投げた。カコン、と小気味いい音を立てて空き缶はゴミ箱に入った。私も真似をして投げたけれど、外れて地面に空き缶は転がり、結局ベンチから立って空き缶を拾ってゴミ箱に捨てた。高校時代の答え合わせは長く時間がかかって、自販機で買った飲み物は二人とも飲み切っていた。

「ていうか、一ノ瀬くんの髪フェチの原因って私だったんだ」

 ベンチに座っている一ノ瀬を振り返ってからかうように言った。

「つまり澤村さんが俺の性癖を捻じ曲げたってことだよね」

「私が変態みたいな言い方やめてくれる⁉」

 一ノ瀬は真面目な顔で恥ずかしげもなく言うので、私の方が困ってしまった。彼は羞恥心の感じどころがどうも狂っているようだ。

「そろそろ次のバスが来るから、行かなくちゃ」

 私が時計を見てそう言うと、一ノ瀬は「そっか」と静かに言ってベンチから立ち上がった。公園からバス停までは歩いて数分程度の距離だ。いつもバスに遅れるといけないと私を急かして歩く一ノ瀬が、今日はのろのろと私の後ろをゆっくり歩いてついてくる。

 バス停が見えるところまで来ると、バス停には制服姿の生徒たちの姿が見えた。今日は実習最終日で、下校時間よりも早い帰宅となったのでいつもと違い学校付近には生徒たちの姿がちらほらと見える。坂の上を見上げると、一つ前のバス停に次のバスが停まっていた。

「一ノ瀬くん、見て。バスがもう、一つ前まで来てる」

「あ、本当だ」

 停まっていたバスは発車して、目の前のバス停まですぐにやって来た。バスのドアが開いて、バス停で待っていた人たちが次々乗り込んでいく。私はバス停から少し離れた場所でその様子を見ながら、バスに乗り込む前にあいさつしようと彼を振り返る。

 本当はもっと話したい。気持ちを伝えたい。

 でも、時間も勇気もない。

 私は妹さんへの愛情を、同情で少しわけてもらっていただけ。勘違いしてはいけない。最後に気持ちを告げて、彼を困らせるくらいなら、黙って別れたほうがいい。  

 何度だって自分に言い聞かせて、喉元まで出てきそうな言葉をぐっと飲み込んだ。

「一ノ瀬くん、短い間だったけどお世話に」

「待って」

 私の言葉を遮って、一ノ瀬は私の手を掴む。

「どうしたの、一ノ瀬くん?」

 彼は黙っていた。黙ったまま、私の手を離さない。ぷしゅう、と空気の抜ける音がしてバスの扉は閉まってしまう。エンジン音を響かせて、バスは坂の下へと走り去っていく。

「ごめん。バス、行っちゃった」

 私の手を掴んだまま、彼は全く悪びれもしない態度でそう言った。私は混乱しながら「次のバスがあるから、別にいいけど……」と言うと、一ノ瀬はぐい、と私の手を引っ張って囁くように言った。

「まだ、離れたくない」

 掴まれている腕が、彼の体温が伝わる部分がやけに熱く感じる。

 バス停には誰もいなくなった。けれど、学校に続く道から、また新たに下校する生徒たちの賑やかな声が聞こえてくる。

「ここはちょっと、学校から近すぎるな」

 一ノ瀬は悪だくみするみたいに低い声で言うと、パッと表情を切り変えて私にいつもの爽やかな笑みを向けた。

「まだ明るいし、ちょっと散歩して帰らない?」

 私は黙って頷くことしかできなかった。彼に手を引かれて、バス停から路地裏を通って、細い歩道を抜けて階段をおりると、目の前に犀川の河川敷が広がっていた。キラキラと夕陽を反射する犀川の水面を撫ぜるように、心地よい風が吹く。風に乗って、水と草花の匂いした。

 犀川を眺めながら河川敷の遊歩道を二人で並んで歩いた。犬の散歩をしている人や、ジョギングしている人、小さい子連れで遊んでいる人。いろんな人が河川敷には集っていた。

「高校の時さ、河川敷の周辺でゴミ拾いする行事があったよね」

「ああ、あったね。懐かしいな」

「俺、この辺のゴミ拾った気がする」

「私はもっと、上流の方だったかな」

 どうでもいい話をしながら、適当に遊歩道を歩く。しばらくすると、夕陽が沈みはじめて、夕陽の赤と空の青が混じって空はだんだんと暗くなる。日が沈むにつれて河川敷からは少しずつ人が減って、いつの間にか周りには誰もいなくなっていた。

「ねえ、澤村さん」

 一ノ瀬は立ち止まって、穏やかな表情で私をまっすぐに見つめた。

「ピアノを弾いていたのが俺で、がっかりした?」

「するわけないよ」

 私は首を横に振った。一ノ瀬はよかった、と冗談ぽく笑う。

 むしろ逆だ。あなただったらいいと、願っていた。

「俺にくれたあの手紙、ラブレターじゃないって誤魔化してたけど、あれって絶対ラブレターでしょ?」

「……うん」

 私は観念して素直に頷いた。

 もう誤魔化すことはしなかった。誤魔化したくなかったから。

「澤村さんはもう、俺の顔も、名前も、どんな人間かも知ってるけど」

 一ノ瀬は私の指に指を絡めて、手を握る。そして、長身を屈めて私の顔を覗き込んだ。

「もう一度、俺に恋してくれない?」

 彼はそのまま顔を近づけて私の耳元で「澤村さんのこと、好きだよ」と囁いた。頭がくらくらして、夢でも見ているみたいな気持ちになった。居たたまれなくなって目の前にあった彼の肩に顔を埋めて、私は小さな、小さな声で彼に囁き返した。

「……私も、好き」

 夕陽が沈みかけた犀川の河川敷は、辺り一面が夕闇に染まっていく。爽やかな風が吹いて、暗い川の水面と草花を撫で上げていく。

 その日、私は初めて知った。キスするくらい顔を近づければ、黄昏時でも「あなたは誰」なんて聞かなくていいのだ、と。



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