第41話

 梅雨が明けて、夏休みが過ぎた。秋になって、文化祭の季節になると受験で鬱々としていた周囲は少しだけ明るくなった。三年生にとっての最期の学校行事だからか、クラスメイト達は楽しそうに作業していた。俺達のクラスはたこ焼き屋台をすることになった。

 指を怪我したくない俺は大道具や調理担当から外してもらい、買い出しと接客係になったので、文化祭当日は一日中、大忙しだった。一日目の昼過ぎには、両親に連れられて凛がたこ焼きを買いに来た。俺は驚き、嬉しくて泣きそうになったけれど、友人たちの手前、平然を装った。家に帰ってから凛に「また泣き虫してたね」と笑われてしまった。凛にはお見通しだった。

 二日目も大忙しだった。夕方になって文化祭が終わりを迎え、名残惜しくも片づけが始まった。俺はガムテープやらまだ使える物品の入った重い段ボールを女子に押し付けられた。実技棟の倉庫へ向かう途中、美術室の前を通りかかった。

 ふ、と足を止めた。

 美術室では美術部の作品展をしていた。隣の書道室でも作品展をしている。

 高校三年間、文化部の展示には興味もなく、見ようと思ったこともなかった。友人も運動部や軽音部などで、そういう展示に縁はなかった。中を覗くと部員が数名いたけれど、片づけは始めていないようだった。きっとまだクラスの片づけで手一杯で、人がまだ集まっていないのだろう。

 入口の近くに立っていた部員らしき男子に声をかけた。

「ねえねえ、少し見てもいい?」

「別にいいですよ、まだ先輩たち来なくて片づけられないし」

 そう言われて俺は段ボールを抱えたまま、遠慮がちに美術室に入った。傾き始めた夕陽で美術室は赤く染まっていた。

 俺はそそくさと展示を見て回った。絵もあれば、彫刻や版画もあった。絵も画材が違うのか、どっぷり重い絵具が重ねてあるもの、水で伸ばした薄い絵具で描かれているもの。さまざまだった。最後に、一枚だけ他とはレベルの違う絵があった。それまでは数秒でさっさと次の絵に言ったのに、その絵だけは足を止めてじっくりと見た。それは縁側で寝転ぶ鯖トラ模様の猫の絵だった。毛の一本、一本が丁寧に書き込まれ、ふわふわした毛並みが今にも揺れ動きそう。先生が描いたのかなと思うくらいに、他とは素人目でも分かるくらいにレベルが違った。キャプションを見ると「浜木綿香」と書いてある。

「あの人の絵だ……」

 俺が唯一足を止めたのは、ハマキメンカの絵だった。自分が部活をしていないから、彼女が美術部ということを今まで思いつかなかった。クラスの違う友人たちに「ハマキさんって知ってる?」と聞いて回ったことがあったが、知っている者はおらず、生徒数も多いので諦めていた。俺はさっき声をかけた男子のところに行って、もう一度話しかけた。

「あのさ、あの猫の絵って玄関の絵描いた人だよね?」

「ああ、そうですよ」

「今、ここにいる?」

「え?えーと……あ、あの窓際で先生と話している人がそうですね」

 彼は俺の背後、窓のほうを指差した。俺は振り返って、彼が指さした方向を見た。ちょうど夕陽が差し込んで、逆光で顔がよく見えない。美術の先生と話すその子は、背筋がピンと伸びて、セーラー服の襟の上で長い黒髪を一つに束ねていた。夕陽が反射して、さらさらで真っすぐな黒髪は宝石みたいに輝いて見えた。

 ほんの短い間、俺はじっと彼女を見つめた。

 顔も見えないのに、綺麗だと思った。

 しばらくして彼女は話しながら、先生と共に隣の準備室へ消えていった。結局、顔は分からなかった。彼女が見えなくなって、俺はようやく体を動かすことができた。自分でも訳が分からないくらい、心臓がどきどきしていた。ずっと会いたかったハマキメンカは、綺麗な髪をした女の子だった。

 あの子が、あの絵を描いたんだ。俺を救ってくれた、あの美しい絵を。あの子が描いた。喉の奥が熱くなって、苦しいくらいの感情が込み上げてくる。

 一目惚れなんて、したことはないけれど。

 これが、この気持ちが一目惚れじゃなかったら、何なんだろう。

「良かったら、感想書いて行ってください」

 呆けている俺に、親切な男子部員は出口前の感想コーナーを指差して教えてくれた。机に箱と、感想用紙、鉛筆が置いてある。手に持っていた段ボールを床に置いて、俺は鉛筆を取った。彼女に伝えたかった。

 君の絵に救われたこと。感謝していること。毎日あの絵を眺めて力を貰っていること。

 顔も知らない、話したこともない彼女に伝えたいことがたくさんあった。彼女の絵が大好きだと伝えたくて仕方なかった。

「あ……」

 俺は鉛筆を走らせる手を止めた。あなたの絵が好きです、と書きたかったのに、勢いあまって「あなたが好きです」と書いてしまった。

 机の上を見るも、消しゴムはなかった。

「……どうしよう」

 読み返してみると、なんだか恥ずかしくてたまらなくなった。これじゃどう読んでも、ラブレターだ。あなたが好きです、その気持ちは嘘ではなかったけれど、そのまま箱に入れる勇気はなくて、結局塗り潰して消した。その下に「あなたの絵が大好きです」と改めて書き直した。箱に感想用紙を入れて、教室をもう一度振り返るが、彼女の姿はなかった。俺は重い段ボールを再び抱え、美術室を出た。気恥ずかしくて、自然と歩調は速くなった。

 夕陽に照らされた顔は熱くて、火照っていた。


 彼女が俺のラブレターのなりそこないを読んだのは分からないまま、季節は過ぎ、学校は受験一色になった。

 彼女のことは気がかりだったけれど、目の前に迫る受験に追われ、何もできないまま、日々が過ぎていく。二学期の終わり、最後の水曜日にいつも通り音楽室にピアノを弾きに来た。冬の音楽室は寒く、先生が好意でストーブを焚いていてくれた。窓の外は雪がちらついている。カイロで指先を温めてから、楽譜を取り出してから思い出した。そう言えば、担任に呼び出されていたのだった、と。

 仕方なく、楽譜を椅子の上にぽんと置いて、職員室に向かった。担任と進路のことで少し話した後、再び音楽室に戻った。ピアノに座ろうとして異変に気付いた。

「手紙?」

 楽譜の上に封筒が置いてあった。水曜日のピアニストさんへ、と可愛らしい字で書かれている。

「水曜日のピアニスト……俺のこと?」

 裏返しても名前はなかった。不審に思いながら手紙を開くと便箋が一枚入っていた。俺は椅子に腰かけて手紙に目を通す。


『突然手紙を書いてごめんなさい。

 あなたの顔も名前も分からないので、こんな宛て名を書いてしまいました。

 お礼が言いたくて手紙を書きました。

 一学期の終わりに偶然、あなたの演奏を聴きました。その時、私は死にたいくらい辛いことがあって、もう死のうかなと思っていました。

 でも、あなたのピアノに救われました。

 曲の名前は分からないけれど、あなたがたまに演奏する優しい曲。あの曲が私を止めてくれました。あの曲のおかげで、私は泣くことができました。

 それからは水曜日の放課後が楽しみになりました。勝手に演奏を聴いて申し訳ないけれど、あなたのピアノが大好きになりました。

 あなたが誰か私は知らないけれど、本当に感謝しています。

 本当にありがとう。

 あなたのピアノが好きです。

 あなたのことが、好きです』


 差出人の名前はなかった。手紙を読み終えて、上を向いた。嬉しくて、言葉にならなかった。手紙をくれた人は俺と同じだ。俺があの絵に救われたように、俺の音楽もまた、誰かを救っていた。それがこんなに嬉しくて、泣きたくなるくらい幸せだと初めて知った。

「ラブレターみたいな手紙だ」

 人のことなんて言えやしないのに、俺はなんだか自分を見ているみたいでくすっと笑った。手紙を置いて、鍵盤蓋を開ける。そして、ゆっくりと鍵盤の上に指を添えた。

 今までの演奏で一番丁寧に、あの優しい曲を弾き始めた。今日も聞いてくれているのだろうか。

 手紙をくれた人に届くように。丁寧に、丁寧に。

 最後の一音まで心を込めて弾いた。

 

 年が明けて三学期になると、自由登校になって学校にはほとんど行かなくなった。あっという間に受験の日がやって来た。差出人不明のファンレターのような、ラブレターのような手紙をお守りに鞄に入れて、俺は受験に臨んだ。結果が出るまで、俺よりも母や妹のほうが不安がって大変だった。

 そして三月。卒業式から数日後、有り難いことに第一志望の大学に合格した。合格の報告をしに高校へ出向き、職員室では担任が泣いて喜んでくれた。最初は音大受験に反対していた担任や他の先生たちも、俺が有名音大に合格すると掌を返したように喜んでくれた。なんだかなあ、と思いながらもほっとした気持ちで玄関へ向かう。そして、習慣のように玄関前に飾られているあの絵を見上げた。

「そっか……今日でこの絵を見るのも最後か。もう、高校来ないもんな」

 卒業したんだ、とその時になってはっきり思えた。

 キャプションの浜木綿香の字にそっと触れる。彼女のことは何も分からなかった。俺とは友人のコミュニティが違い過ぎるのか、彼女を知っている人は周りにいなかった。しかも、不思議なことに卒業アルバムにも彼女の名前はなかった。卒業アルバムを貰った時、彼女の顔が知りたくてすぐに全クラス目を通した。けれど、どのクラスにも浜木綿香はいなかった。

 同じ三年のはずなのに。理由があって卒業できなかったのだろうか。年度途中で転校したのだろうか。色々憶測したけれど、意味はなく、俺の一目惚れの恋は終わった。

 顔を見ていないから、一目惚れと言っていいのかすら分からないけれど。

「どんな子か、会ってみたかったな」

 俺は学ランのポケットから携帯電話を取り出して、絵に向けて掲げた。パシャ、とカメラの音がする。もうこれからは、この絵を生徒玄関で見上げることはできない。俺を救ってくれた絵を見るのはこれが最後。

 携帯の待ち受け画面に映る絵を見て、そっとポケットにしまった。



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