第40話
音大受験を決めてから、ピアノのレッスン日を増やした。ピアノ教室の先生はピアノ科ではなく、作曲科を志望すると伝えると驚いていた。けれど、俺の夢を応援してくれて、俺に合った大学を見つけてくれた。
それからは毎日慌ただしかった。もう三年の一学期も終盤、受験生としてはかなり出遅れたスタートになってしまった。
焦りを覚える時もあったけれど、朝、登校した時に生徒玄関の前であの絵画を見上げると、不思議と心は落ち着いた。俺は有名な絵画も画家も、技法だとか難しいことは何も知らない。けれど、絵について無知な俺でもあの絵がすごいというのは何となくわかった。学校に掲示された絵で、ここまで緻密で、繊細に書き込まれた絵を他に知らない。最初は写真のようだと思ったけれど、背景は薄暗くぼんやりとしていて、絵の少女は笑顔なのにどこかもの哀しく感じる。
どうして、この絵を見ると暖かいのに切なくて、寂しい気持ちになるのだろう。
ハマキメンカはどんな気持ちでこの絵を描いたのだろう。どんな子なのだろう。会えたら、伝えたい。俺がこの絵に救われたことを伝えたい。
そんな事を考えながら、毎日のように絵を見上げてから教室に向かった。
長い梅雨も終わりを迎える頃、たまたま、水曜日の放課後に音楽室の前を通った。いつもは合唱部で賑わっている音楽室は無人だった。そうか、水曜日は部活が休みなのか。ふと思いつき、勢いに任せて音楽準備室の扉を軽くノックした。部屋の中から「はい、どうぞ」と声がして中に入る。いかにも厳しそうな雰囲気で、スーツが似合う女性の先生がいた。音楽の先生は一年生の時とは変わっていて、知らない先生だった。
「あら、三年生ね。吹部?合唱部?どうしたの?」
「いや、普通に帰宅部なんですけど、ピアノを使わせてもらいたくて」
「音楽室のピアノ?ああ……君、一ノ瀬くん?音大志望っていう」
「あ、そうです。今日、レッスンが夕方で、ここのピアノが空いているならそれまで使わせてもらえないかと思って」
「使ってもいいよ。水曜日は部活が無ければ、音楽室は空いているから使いたければ使うと良い。誰かに何か言われたら、私から許可をもらったと言いなさい」
「ありがとうございます!」
勢いよく頭を下げて、準備室を後にした。先生は「受験、頑張りなさい」と応援してくれた。
有り難かった。今まで水曜の放課後だけレッスン時間が遅く、家まで帰るにも時間が中途半端になるので学校で課題をしたりして時間を潰していた。学校でも練習ができると思うと嬉しかった。
さっそく、音楽室に入った。中は少し蒸し暑かった。雨が小降りになっていたので、窓を少しだけ空かせた。空いている机に鞄を置いて、ピアノの前に座った。鍵盤蓋を開け、十分ほど基礎練習で軽く指の運動をした。その後、鞄から楽譜を取り出した。
「どれを弾こうかな……」
レッスンで今日弾くことになっている曲にしようか。それとも、入試の過去門の初見曲を弾いてみようか。ぱらぱらと楽譜の束を捲っていると、ひらり、と一枚の楽譜が落ちた。拾い上げると、自分で書いた曲の譜面だった。家でも弾いてみたけれど、広い音楽室で弾いたらどんな響きだろう。拾い上げた楽譜を譜面台に置いた。
「まだ、曲のタイトルがないんだよな」
鍵盤の上に指先を触れるようにそっと載せて、息を吐く。透き通るような優しいメロディーを弾きたくてこの曲を書いた。楽譜を見ながら、こうした方がいいかな、とアレンジも加えながらペダルを踏み、指を軽やかに動かしていく。
今、何かで苦しんでいる人が、泣いている人が、この曲を聴いて少しでも穏やかな気持ちになれたら。そんな曲を創れたらいいのに。
願いを込めながら最後の一音を響かせ、そっと鍵盤から指を離す。
広い音楽室で弾くのは気持ちが良かった。それから水曜日は毎週のように音楽室のピアノを借りて練習した。
――まさか、真下の美術室で俺の演奏に耳を傾けてくれている人がいるだなんて。
そんなことは思いもしなかった。
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