王太子殿下の心変わり
鳴宮野々花@書籍二作品発売中
◇◇◇
私は傷付いていた。とても深く。
幼い頃からの婚約者であるレオニス王太子殿下の態度が、ある日を境に突然変わってしまったから。
優しく愛情深かった、大好きなレオニス殿下。5つ年上の、私の大切な人。その美しい翠色の瞳はいつも私を見つめる時だけ、特別な熱を帯びていた。
それなのに。
「うふふっ。またレオニス殿下からお声がかかったわ!庭園の薔薇が見事に咲いたから、一緒に散歩でもどうか、ですって!」
「まぁ、殿下はすっかりあなたに夢中なようね、ヴィエナ。婚約者を差し置いて、あなたにばかりお声がかかっているじゃないの」
義母がこちらをチラリと見ながら義妹にそう言った。二人の声は弾んでいる。
「そうなのよぉ。でもいいのかしら、私ばかり…。使者の方が扉の前で待っているのだけれど」
「いいに決まっているじゃないの、ヴィエナ。相手はこの国の王太子殿下。あの娘に変な気を遣って殿下のご希望をないがしろにするわけにはいかないもの」
「やっぱりそうよねぇ?じゃあ急いで支度しなくちゃ!うふふふふ。……ちょっと、どいてくださる?邪魔よあなた」
義妹は広い廊下でわざわざ私の真横を通り肩にドンッ、と強くぶつかると、よろめく私を振り返りもせずにそのまま去っていった。
母亡き後3年が経ち、父であるエルスワース公爵が再婚した。
義母となったヘザーには一人娘のヴィエナがおり、彼女は私の2つ年下だった。
父と共に我がエルスワース家の屋敷にやって来たその日から、二人は私にとても冷たかった。新しい家族と上手くやっていきたくて私なりにどうにか打ち解けようと頑張ってみたけれど、義母も義妹も私のことはまるで敵だとでも思っているようだった。
「ねぇ、無駄に話しかけてくるのは止めてくださる?あなた。鬱陶しいのよ」
「そうよ!一体何のつもりなの?馴れ馴れしくしないで!私たちにとって、あなたは赤の他人。家族になったのはお義父様だけよ!」
そんなことを言い放っては傷付いて部屋から出て行く私をクスクスと笑っていた。
やがてそれは辛辣な虐めに変わりはじめた。
「ねぇロシェル、あなたヴィエナに意地悪なことを言ったでしょう?所詮落ちぶれかけていた田舎の伯爵家の人間が、貧乏生活から脱却したくてうちのような羽振りの良い公爵家の当主である父に擦り寄ってきたんでしょう、とか」
「え…っ?ま、まさか…。私そんなこと一言も言っていません!」
「嘘よお母様!ここへ来た頃言っていたわ!遠路はるばるどうのこうの、慣れない生活で大変でしょうがどうのこうのって。私たちを馬鹿にしてるのよ!」
「そ、そんな……!違います!私はただ、遠方へ嫁いで来られたお義母様とヴィエナを気遣って…」
「お黙りなさい!!」
こうして父のいない時を見計らっては私に妙な言いがかりをつけ頬をぶってきたりした。「あなたばかり贅沢をするのは良くないわ。私たちと本当の家族になりたいのならば、高価な持ち物は妹にも分けてあげるべきよ。そうでしょう?」などと言っては私のアクセサリーやドレス、靴や髪飾りにいたるまで同意もなしにヴィエナの部屋に持っていかれるようにもなった。
耐え難いストレスを感じるようになっていたけれど、母を失い、ようやく再婚したばかりの父の生活に水を差したくなかった。今はとにかく、我慢しよう。いつかこの状況もきっと好転するわ。自分にそう言い聞かせながら、私は日々をやり過ごした。
二人が我が家にやって来てから数ヶ月経った頃、王城で舞踏会が行われた。
私はエルスワース公爵令嬢として、そしてレオニス殿下の婚約者として、父や新しい家族たちと共に出席した。大広間に入り、やって来た王家の方々に4人揃ってご挨拶に行く。国王陛下、王妃陛下へのご挨拶が終わると、父はレオニス殿下に二人を紹介した。
「レオニス王太子殿下、こちらが妻となりましたヘザー、そしてその娘のヴィエナでございます。どうぞ、お見知り置きを」
「……ヴィエナ……。美しいな」
その瞬間から、レオニス殿下は義妹のヴィエナに釘付けだった。そばにいる私には目もくれず、ただヴィエナのことだけを見つめていた。愛しい殿下にお会いするためだけに精一杯着飾ってきた私のことは完全に無視して、殿下はヴィエナに言った。
「…今夜のファーストダンスを、君と踊りたい」
「ま、まぁ…っ、殿下…っ」
ヴィエナは瞳を潤ませ頬を真っ赤に染めると、差し出された殿下の手を取った。義母のヘザーは息を呑み、目を輝かせてその光景を見つめていた。
(殿下……どうして……?)
フロアの中央で優しい瞳をヴィエナに向けて踊る殿下を、私は信じられない思いで見つめていた。殿下がファーストダンスを私以外の女性と踊ったことなど、ただの一度もない。
「……ね、あのお方は…?」
「例のエルスワース公爵の後妻の方、その連れ子だそうよ」
「…ということは…、あの南方の領土の…?」
「ええ。没落寸前と言われていた、あの亡きソーウェル伯爵家のご令嬢よ。まさかレオニス殿下があの方とファーストダンスを踊られるなんて…」
「まさか、殿下はあの方にお心を…」
「ま…、そんな、それではロシェル様が…、」
呆然とする私の耳に、周囲の人々の小さな声が棘のように刺さる。隣にいた義母がクスリと笑って言った。
「残念だったわね。どうやらレオニス王太子殿下は私の娘に夢中になってしまわれたようだわ」
その日以来、義母と義妹はレオニス殿下に夢中だった。あんなにひどかった私への嫌がらせもピタリと止み、二人は殿下の話ばかりするようになった。
「ね、お母様、これとこれなら殿下はどちらのドレスの方がお好きだと思う?また来週二人きりのお茶会なのよ!ああ、早くお会いしたいわレオニス殿下…っ!」
「そうね…。こっちの真紅のドレスよ。これになさい、ヴィエナ」
「あら、そう?どうしてそんなにきっぱりと言い切るの?お母様」
「ふふ、だって思い出してごらんなさいよ、レオニス殿下があなたに心を奪われたあの日の舞踏会…。あの時、ロシェルはこっちのドレスのような淡い色味のものを着ていたわ。あなたは目の覚めるような濃く深いグリーンのドレスだった。そして殿下はロシェルに見向きもせずにあなたの手を取った、そうでしょう?きっとあんなか弱そうでおっとりした地味な娘よりも、あなたのようにくっきりとした目鼻立ちの美人がお好きよ。そしてドレスも、こういう濃く派手な色味のものがお好みなんじゃないかしら」
「まぁっ!さすがはお母様ね!そうよね、あの日ロシェルなんかには目もくれず、殿下は私を見つめてた…。そしてそれからずっと私に夢中なのよ。殿下の好みってはっきりしてるわね!うっふふふふ」
「…ヴィエナ、上手くおやりなさい。このままいけばおそらく殿下は、あなたを婚約者にとご所望されるわ。あなたと出会って以来、ロシェルにはもう目もくれないもの。このまま殿下のお心を離すんじゃないわよ。いいわね?」
「ええ!ええ…!ああ、信じられないわ。私の人生にこんな日がやって来るなんて…!没落貴族からの人生大逆転よ、お母様!」
「ふふ…。ようやく運が向いてきたんだわ…」
「…………。」
義妹の部屋の前を通りがかった時中から聞こえてきたその楽しげな会話は、私の心を深く抉った。
(殿下……またヴィエナと二人きりでお会いになるのね…。あの舞踏会の日以来、私はまだ一度も殿下からお声がかからないというのに…)
堪えていたものが突然堰を切ったように溢れ出し、私は慌てて自室に飛び込んだ。そして声を殺して泣き続けた。
子どもの頃から、ずっと殿下のことが大好きだった。
お会いできた日は幸せで幸せで、他愛もない話をたくさんしながらずっと二人で笑っていたっけ。
成長してからは、何度も私に愛を囁いてくださった。君を愛しているよ、ロシェル。二人でこの美しい国を守っていこう、僕を隣でずっと支えていておくれ、そう言っては優しく私の肩を抱いてくれた。
母が亡くなった時も、父が再婚してできた新しい家族と上手くいかない辛い毎日も、レオニス殿下だけが、私の心の支えだった。
(だけど、全ては変わってしまった…)
…身を引くべきなのだろうか。
私から、殿下に婚約解消を申し出るべきなのかしら。
優しい殿下は思い悩んでいるのかもしれない。本当はヴィエナを新しく婚約者として迎えたいけれど、今さら私にそれを言うことは気が咎めると。それに、長年王太子妃教育を受けてきたのは私だけ。だからもう好きではなくなった私と結婚することも致し方ないと諦めていらっしゃる…?
(…私は…、形だけのお飾り妻になってしまうのかしら…)
渋々私と予定通りの結婚をし、殿下はヴィエナを愛し続けるのだろうか。
二人して、私の存在を疎ましく思いながら……
それとも、今からヴィエナに王太子妃教育を受けさせ、やっぱり私は捨てられる…?
「…………。」
そうなったらもう、生きていることに意味なんてない。
暗い思考の渦に飲まれていくような日々だった。
それから数週間が経つ頃、私たち一家に王城からの呼び出しがあった。全員揃って登城するようにとのこと。心臓が氷の手で鷲掴みにされたような激しい不安を覚えた。
「おっ…お母様…!来たわ!ねぇ、来たわよ!きっと婚約のお話に違いないわ…!!きゃあっ!!」
「落ち着きなさいヴィエナ。みっともない。まだそうと決まったわけでもないわ。…でも…ふふ…、エルスワース公爵家全員で登城しろ、だなんて、陛下は一体何のお話をなさるおつもりなのかしら。ね、あなた?」
顔を真っ赤にして興奮しながら飛び跳ねるヴィエナの横で、義母はそう言うと父を見つめた。父は眉間に皺を寄せ、静かに言った。
「…ともかく、支度をしなさい。ロシェル、お前もだ」
「……はい、お父様」
「ふふっ」
「…ふっ」
二人は私を見てニヤニヤと笑っていた。
父、ヴィエナ、義母、私の順で謁見の間に入っていく。ヴィエナは目がチカチカするほど濃く明るいブルーのドレスを着ていた。裾は床に大きく広がり、まるで今から盛大な夜会にでも出席するかのようだ。父が苦言を呈したが、ヴィエナは頑としてこれが良いと言い張り着替えなかった。反対に私はクリーム色の控えめなレースのドレスを身に着けた。
はぁっ、はぁっ、と何度も大きく呼吸をしながら胸を押さえてそわそわしているヴィエナたちの隣で、私は俯いたままじっと座りただ床を見つめていた。
やがて国王陛下とレオニス殿下が現れた。私たちはすぐさま立ち上がりお迎えする。
「……。」
(……あ、)
数ヶ月ぶりに、殿下と瞳がぶつかった。
その瞬間、殿下はとても優しい眼差しで私に微笑んだ。心臓が大きく跳ねる。…ああ、懐かしい。この穏やかな笑顔。かつてはいつも私にだけ向けてくださっていた…。
切ない胸の痛みに、思わず涙ぐんでしまう。…いけないわ。陛下とレオニス殿下の前で取り乱しては。私はエルスワース公爵令嬢。この後何が起ころうとも、最後まで毅然としていなくては。
「……さて、つい先日エルスワース公には話した通りだが…、ヘザー、ヴィエナ、そなたたちに王命を下す」
「っ!は、はいっ!!」
「何なりと、国王陛下」
陛下の静かで低い声に、ヴィエナと義母は素早く反応した。キラキラと目を輝かせながら胸の前で両手を組むヴィエナとは反対に、私は目を伏せた。
「お前たち二人にはエルスワース公爵邸から出て行き、そのまま我が国からも立ち去ってもらう」
「…………。」
「…………は……、はい?そ、それは、一体どういう…?」
ヴィエナと義母が硬直する横で、私の思考も固まった。
(……え?)
何?一体どういうこと…?
思わず顔を上げると、レオニス殿下が話しはじめた。
「エルスワース公があなたと再婚し、あなた達二人がエルスワース公爵邸にやって来た辺りから、ロシェルの様子が目に見えておかしくなった。以前より痩せ、元気もなくなり落ち込んでいる様子が気になって仕方なかった。いくら尋ねてもロシェルは僕に何も言わなかったけれど、とてもそのまま放っておくことなどできず、僕は人を使って密かにロシェルの身辺を探りはじめたんだ」
「え…っ?」
驚いて思わず声が漏れる。全然知らなかった。
レオニス殿下は淡々と語り続けた。
「どうやらあなた達二人がロシェルにかなり辛く当たっているらしいということは分かった。そして舞踏会の夜、あなた達の周囲に張り付かせておいた僕の侍従が開場前の廊下であなた達の醜悪な会話を耳にしている。ロシェルが王太子の婚約者でいることが気に入らない、どうにかして排除できないか、事故に見せかけて殺すことなどできないだろうか、とね」
「────っ!!」
「ひ……っ!!」
義母とヴィエナは目に見えて動揺している。私も心臓が止まりそうなほど驚いた。そ…、そんなことを言っていたの…?
「二人で笑いながら話していたそうだが、冗談半分にせよ本気にせよ、当然看過できない。侍従からその報告を受けてすぐ、僕は舞踏会に顔を出し、あたかも君に心惹かれているような素振りを見せたんだ。僕の愛しいロシェルにこれ以上君たちがよからぬことをせぬようにと。そうして、ヴィエナよ、君のような愚かで醜い女に夢中になっているふりをしながら、裏で君たちの言動を探りつつ、エルスワース公にすべてを話した」
「……ぁ……、ぁ、あの、」
「ち、ちょっと待ってくださいレオニス殿下!違います!違います!私と母は本気でそんなこと思っていたんじゃありませんわ!た、ただの冗談に決まってます!ね?!お母様!」
「そ……っ、そうです、もちろん。たしかに、少し言葉が過ぎましたわ。それは、ええ、申し訳ございません。で、ですが…」
「もういい黙れ!」
父の厳しい声に、二人はひゅっと息を呑んだ。
「レオニス殿下からこの話を聞いた時には愕然とした。…それから屋敷の侍女長に貴様らの言動を探らせ、逐一報告させていたのだ。…何とも浅ましい女共だ。自分の見る目のなさにも呆れる。…辛い思いをさせてすまなかった、ロシェルよ」
「…お…おとうさま…」
苦しそうにそう言って私に頭を下げてくれる父の姿に、ついに堪えきれず涙が零れた。
「で、殿下…っ!私はあなた様を心から愛しておりますわっ!お、王太子妃教育だって、死ぬ気で頑張りますから…っ!ロシェルお姉様のことは、こ、こんなに素敵な王太子殿下の婚約者だという立場があまりにも羨ましくて、つい冗談で悪口を言ってしまっただけです!本気じゃありませんわ!お願いですから、お許しくださいませ…!……ひっ……!」
その瞬間、普段はとても穏やかなレオニス殿下が、これまで一度も見せたことのないような恐ろしい顔をしてヴィエナを睨みつけた。
「黙れ。僕の最愛の人を苦しめ、挙句の果てには冗談だったと…?そんな言い訳がまかり通ると思うか。貴様らの言動に関する証拠が集まり、エルスワース公も同意した今、もうこの国に貴様らの居場所はない。仮にもこの国の王太子妃となる女性に向かって殺意があるかのような発言をしておきながら、処刑されぬだけマシだと思うがいい。荷物をまとめ、即刻我が国を出よ。…その悪趣味なドレスでも着てな」
「そ…………そん、な……」
義母と義妹は真っ青な顔で殿下を見つめていた。
そんな二人を冷めた目で見ていた陛下がポツリと呟いた。
「見苦しい母娘じゃな」
******
「…本当にすまなかった、ロシェル…。あの二人の物騒な会話を聞いたのが舞踏会の直前で、君と二人きりで話す時間もなかった。ともかくあの二人を国から追い出せる証拠を集めるまで、よからぬことを考えさせぬようにと…。不安な思いをさせただろう。許しておくれ、ロシェル」
「殿下…」
その後、陛下を見送り父や護衛騎士たちによってあの二人が連れ出された後、私は殿下に強く抱きしめられた。久しぶりの、殿下の温もりに胸が熱くなる。思わずその背中に腕をまわしながら、私はまた涙を流した。
「もう…、殿下のお心は私から離れてしまったのかと…。自信を失っておりました。だけど…、私のために動いてくださっていたのですね。私を、守るために…」
「僕の心が君から離れる日など来るはずがない!幼い頃から今日まで、そしてこれからも、この命の続く限り…、僕の心は君だけのものだよ、ロシェル」
「殿下…、私もです…。私も、生涯あなた様のことだけを…」
「ロシェル…、ああ、僕の愛しい人…」
殿下はより一層私を強く抱きしめると、私の顎をくい、と持ち上げ、激しく熱い口づけをした。まるで離れていた時間を隙間なく埋めていくような、とても濃密な口づけだった。
それからすぐに義母とヴィエナは私たちの屋敷を出て行った。ヴィエナは、ひどいわ、こんなのひどいわ、と何度もブツブツ言いながら、レオニス殿下が手配した騎士団の馬車に連行されるように乗せられ、義母はその後ろを放心状態でついて行っていた。どこで馬車から降ろされるのかは知らないけれど、きっともう二度と会うことはないだろう。
私は父と二人でエルスワース公爵邸で過ごしながら、王太子妃教育に励む日々を送っている。
遠くない将来やって来る、愛しい人の妻となるその日のために。
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