第四話 昭和二十一年 ~異国の地の桜~

《4》-1 *

 あとから思い返してみれば、シベリアに抑留されていた間、梨の味を思い出すことはなかった。

 いや、想像することすらできなかったと言った方が正しいのかもしれない。


 そもそも食べ物のことを考えるとき、味がどうであるかに思いをはせる余裕など皆無だった。なんせ、腹いっぱい食べたいという欲求しか浮かびやしない。

 しかし結局はその夜を越し、新しい朝を迎えられるに十分な食事にありつけるかで精一杯だ。


 来る日も来る日も、良太郎はただでさえ険しい眼差しをより尖らせて、同室のものが配給された黒パンを切り分けるの様子を確かめるのに必死だった。そして、手製の秤で薄切りのパンをひとつひとつ測り、その配分が平等かの確認作業にも、らんらんと目を光らせた。不正がないか、というより、自分がこの極限下において損をしないで済むか、焦る一心で。


「おい! そっちの方が多いじゃねえか。ちっとはこっちに、屑でもいいから寄こせ!」


 一触即発、喧嘩寸前の空気をなんとか今日もやり過ごし、やっと手にできた黒パン一切れに喰らいつく。それはもちろん、とても強制労働に打ちひしがれた腹を満たせる量ではない。だが、なにも食べられないよりは遥かにましであったし、そうでもしないとそもそも今日の命すらおぼつかないのだ。


 良太郎が派兵された満州から、イルクーツクの日本兵捕虜収容所ラーゲリに送られて早一年が経過していた。


 赤紙が来た日のことは、なんとか思い出せるが、いまや、かなりおぼろげだ。


 それは、たしか、馨との祝言を済ませて半年も経たない昭和十八年の春だった。そうだ、それからすぐに出征し、自分は満州に送られたのだ。

 白く鮮やかに、梨の花が咲く季節のことだ。


 夫を見送る馨の目といえば、口元こそ微笑んではいたが、最後の最後まで冷ややかなままだった。



 二等兵のまま過ごした良太郎にとっては、正直最後まで、日本の全体的な戦局は分からずじまいだった

 ましてや、その戦の意義などなおさらだ。


 とはいえ、出征当初は、ようやく御国の役に立てるときが来た、そう心が華やかに疼いたのはたしかな事実だ。しかしながら、入営直後の訓練でことあるごとに上官からビンタを食らい、陸軍ならではの洗礼を喰らったのは、まったく楽しくなかった。ことに、このように言われてなにかにつけ殴打されたことについては。


「貴様のその反抗的な目が気に食わん」


 それは、それから、満州各地を転戦してからも古年兵たちにも良く言われた。彼ら曰く、良太郎の目は険しすぎると。しかし、ときにそれは嘲りとしてでなく、好意的にとられることもあったのが意外だった。


「小野寺、お前、内地での職業は?」

「菓子屋の会計係でした。それから、梨作りを少しばかり」


 ある日、行軍の途中、三年兵の平野が良太郎にそう尋ねてきたので、良太郎はあるがままの答えを息を吐きつつ答えた。その朝雨が降ったばかりの、高粱コーリャン畑の畦道はぬかるんでいて、脚絆ゲートルはすでに土まみれだ。それだけでなく二十貫(約七十五キロ)といわれる重さの軍装に身を包んだ身は重く、泥に足を取られずとも良太郎はいまにもそうだった。

 しかしながら、対する平野はさすがに慣れているだけあって、飄々と語を継ぐ。


「そうなのかあ。そうは見えねえきっつい目をしてやがるけどなぁ。もっとやくざな商売かとばかり思っていたよ」

「よく、そう言われます」

「そうだろうなぁ」


 平野は面白そうに無精髭に包まれた顔を歪め、笑った。それから、改めて良太郎の目を見て言う。


「だけど、お前のその目つきは、なんというか、戦地にゃ向いてるな。いいことだよ」


 平野の視線はどこか、意味ありげだった。


「どういうことですか」


 そのとき、平野は返答しなかった。ただ、にやり、と唇をすぼめたのみである。



 訓練でそれなりに銃の使い方を覚えてはいた。

 しかしそれを用いて敵兵をと撃ち殺すのかと思いきや、そういった感覚を体得する機会はなかなか訪れるものではなかった。


 いや、戦闘自体は途絶えることなく続いていたのだ。ただそれは至近距離で行うような肉弾戦ではなく、敵陣、またはどこからもしれぬ方向から飛んでくる銃弾を避けながら、自分も応酬する、そんな銃撃戦が特にはじめは多かったので、自分の放った弾が果たして人間の命を奪ったかどうか確かめようがない、そういう理屈であった。


 だがしかし、仲間の死は嫌と言うほど見た。

 すぐ横でさっきまで銃を撃っていた兵士が、弾を避けきれず、どう、と声も上げずに倒れ、頭から血を流して動かなくなっている、そんなことはよくあった。

 つまり、殺す恐怖はそれほど身に沁みなくても、殺される恐怖は常にあった。だから良太郎も敵に向かって銃を放つことにまったく躊躇はなかったのだ。

 殺されたくなければ、やることは撃つことのみだった。


 それでも、自分が確かに人を殺した、そのように実感する機会が全くなかったわけではない。


 戦線が混乱した挙句、敵兵が誤って良太郎のいる塹壕に落下してきたことも、ままあった。そうとなると、やることはただひとつ。完全に仕留めなければ、こちらの命がなかった。


 とはいえ、初めてそのような事態に陥ったときはすぐに行動できるものではない。良太郎は、狭いタコツボのなかで暴れる八路軍らしき支那人にただただ驚き、咄嗟の判断も付かず、固まった。


「小野寺、なに、やってるんだ! れって!」


 古年兵からそう声が飛び、良太郎は我に返って銃を撃とうと体勢を整えかける。こんなところで撃っていいものか、と戸惑いつつ。

 するとまたすぐに、今度は近くにいた平野から怒号が飛んできた。


「馬鹿! なんのために銃剣があるんだよ!」


 そうしてはじめて、良太郎は至近距離にいた敵兵の身体へと銃剣を差し向けた。

 身の触れあう距離であったから、銃剣はすぐに相手の身体に達したらしく、柔らかな肉を刺す嫌な感触とともに、中国語の絶叫が耳を打つ。すぐ目の前の顔が苦痛に歪むのが良く見えた。しかし、慌てて目くらめっぽうに刺したものだから、急所を刺し抜くことは出来なかったようで、血を流して暴れる敵兵の挙動はより激しくなるばかりだった。


 結局良太郎が、正しく敵兵の喉を刺し抜けたのは、二度三度と怒号が飛び交った後のことだった。


 そのようなことがあってようやく良太郎は、たしかに自分が人を殺したという実感を手にすることが出来たのだ。


 それはなんと言い表したらいいのだろう。高揚感はたしかにあった。

 しかし、目の前で断末魔を叫ぶ相手の声と苦悶の表情といったら、あとから思いだして、いい気持ちになるものではない。


 戦闘の後、そのことをぼそり、漏らした良太郎に、平野はこう声を掛けた。


「まあ、そうやって一人前になっていくってことなんじゃね? それに、こういうことでもなきゃ、ここでお前のせっかくのその目は生かせないだろうしさ」



 良太郎が自分の目が「戦地向き」なのだと思い知る機会はほかにもあった。あれは、行軍の途中の小休止でのことである。


 隊列が休憩に選んだちいさな農村は閑散としていた。


 それもそのはずだった。現地の支那人といえば、日本軍がたとえ小休止として姿を現したとしても、関わり合いになるまいと家の奥に姿を隠してしまう。

 うっかり見咎められて、万が一、八路軍と関係があるとされれば我が身に危険が及ぶからだ。以前は子どもが物珍しげに遠巻きにすることもあったが、最近はそれも稀だ。


 だから、それをよく分かっている古年兵は、まず民家の裏手や納屋に回る。


 ようやくの小休止、まずは荷物を地面に投げだして転がるしかない良太郎にとって、そんな平野らの行動は当初、不思議なものでしかなかった。いったいこの貴重な休憩時間になにをしているのかと。

 しかし、行軍を繰り返すうちにその謎は次第に解けていく。


 だから、今日も良太郎は地べたを背にし、青い異国の空を見上げながら、ただ聞いていた。

 どこかしらか聞こえてくる、女の泣き声を。


 雲の流れはゆるやかで、合間から漏れる陽のひかりは柔らかに良太郎の顔を照らす。初秋の満州の空気は優しく、穏やかだ。

 良太郎は目を瞑る。短い安息のひとときを、寸分も漏らさず味わえるように。


 そうとなると、いまだ絶え間なく響いてくる悲鳴は、いささか煩わしい。

 良太郎は声から意識を放そうと軽く頭を振る。


 すると、頭上から声がした。

 目を開ければ、軍服を乱した平野が眩しくひかりを背に、屹立している。そして、次の瞬間、彼のいかつい手は、細くて白い何者かの腕を掴んでいることに良太郎は気付く。


 激しく泣き叫ぶ女の手を引きながら平野は、さらり、と言った。まるで子どもに遣いを頼むような気軽さで。


「なぁ、小野寺。こいつ、ちょっと気ぃ強くてな。いろんなとこ噛まれおったわ。ちょっとお前の顔で、凄んでやって懲らしめてくれねぇか。俺じゃ迫力足りんらしいわ」


 だから、良太郎もちょっと用事を引き受けるような心持ちで、気安く返事をしたのだ。


「わかりました」

「ありがとよ」


 平野が破顔しながら、白い手を離す。乱暴に地表に投げ出された女は、なおも悲痛に顔を強張らせて咽び泣き続ける。


 ――うるさいな。


 女の声は良太郎に跨られても、止むことはなかった。


 ――こういうとき、日本の女はもっとおとなしいものだ。それに、男が国を守るために命をかけてるとしたら、そのかわりに女が股を開くのは、当たり前じゃねぇか。


 良太郎が行為の最中、意識の向こう側で思っていたのはそんなことくらいだ。

 それと、いまは遥か彼方の梨畑をどうしてか思い出した。


 同じ女だというのに、馨の肌は、何故だか、そのとき脳裏に浮かばなかった。

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