《3》-3 *

 夕暮れを待たずに寿史は円タクを呼び、店へと戻っていった。彼を屋敷の外まで見送ったのは、良太郎と邦正のふたりだった。


「良太郎、明日からは仕事に来いよ。いずれうちを辞める日が来るとしても、それまでやってもらうことはたくさん残っているからな」

「はい」

「邦正君も……まあ、そのなんだ、気を落さず、帝大で勉学に励むといい。当主とならなくとも、この土地でやることはあるし、兵役に就けないのなら、なおさらだ。明日、東京に帰るのかい?」

「ええ、明日、下宿に戻ります」


 良太郎の横で、邦正が切れ長の目を細めて弱々しく微笑しながら寿史に答える。最近剃ったばかりなのだろう、首筋がまだ短い毛で青々としている。


 ――髪を切ったところで、お前は男子にはなれないくせに。所詮お前は、御国の役にも立てない男のだよ。


 良太郎は邦正の首を見ながら、胸のなかで義弟となる男をひとしきりせせら笑う。その首筋はやはり、男にしては透き通る白さで、ますます女みたいに軟弱な奴だと密かに軽蔑する。加えて並んでみれば、背丈は良太郎の肩までしかない。着ている国民服もどこかしっくりこず、不格好だ。


 そんな邦正を見ていると、いつしか良太郎の心中では、自分が彼にした全ての仕打ちが正当化されるのだ。


 ――こいつはそもそも、昔から女みたいな奴なんだ。だから俺が「間違えた」のだって、そうおかしいことじゃねえや。


 そんなことを思っていると、寿史が邦正の顔をじっ、と見据えた。そして、急に声を潜める。


「邦正君、君は、帝大でを覚えてきてはないだろうね?」


 すると、邦正の目が僅かながら険しくなった。


「……なんのことですか?」

「いや……大丈夫なら、いい。だけど、悪い仲間とは距離を取ることだよ。君のためにも、お姉さんのためにもならん」


 馨のことを仄めかされたそのとき、邦正の瞼が分かりやすいほどに、ぴく、と震えたのが良太郎の目に映る。するとちょうどそのとき、道の向こうから砂埃をあげて円タクが姿を見せたので、寿史と邦正の会話はそれ以上広がらなかった。


 それでも、去りゆく車を見送りながら邦正が良太郎に投げかけた声は、厳しいものだった。


「あんた、あの人に、なに言ったんだよ」

「なんも言ってねえよ。それより俺のことはこれからお義兄にいさんと呼べよな」


 そう邦正を躱して屋敷内に良太郎が戻ろうとするのを、邦正は足を引きずりながらも立ち塞がって遮る。その顔を見ればいつも青白い頬は上気し、目は怒りに燃えている。


「……お前もそんな顔できるのな」

「誤魔化さないで欲しいな」

「なんだよ。お前がこの間の帰省中にマルクスやらなんとかの本読んでいたのは本当のことだろ。俺だって気にはかけてたんだぜ。仕えている家の大事な跡取り息子が、共産主義アカに被れていないか、ってことは。まあ、もう跡取りでもなんでもないから、いいけどよ」

「あんたなんかに心配されたくないね!」


 邦正は声を荒げてそう言い捨てると、屋敷へと身を翻す。あいかわらずの右足を引きずる足取りで。夕闇迫るなか、どんなに苛々としても、ゆっくり、ゆっくりとしか進めないその背中を見るのは、良太郎には愉快だった。


 そして、その愉悦は、先日の決意と相まって、さらにどす黒く色を成していく。


 ――決めた。あいつがいるうちに、やってやる。啜ってやる。


 丁度良いことに、冬空は濃い闇に覆われつつあった。

 鴉の群れがぎゃあぎゃあと鳴きながら、空を渡っていくのが見える。



 馨を呼び出すのは思いのほか簡単だった。


 その日から早速、屋敷でいとたちとともに食事を摂ることになったので、夕飯の終わり、すれ違った際に、こう耳もとで小声で囁いただけでことは済んだ。


「納屋に来いよ。ひとりでな」


 良太郎が納屋の農機具の隙間で待っていると、ほどなく馨がやって来た。感心なことに、もんぺ越しの肌からは冬の夜らしかぬ熱があり、風呂上がりのようだった。

 だから良太郎は、こう思いながら喉を鳴らした。


 ――だったら、こいつも俺の元に来たんだろう。


 そう思ってしまえば、もう欲望を堪えることは無理な相談だった。良太郎は無言のまま、馨の細い肢体を納屋に押し込み、床に組み伏せた。荒い息の下の表情は分からなかったが、月の光が切れ長の瞳を照らしたとき、微かに潤んでいるのが分かり、良太郎はますます面白くなった。


「泣いてるのかよ。どうせ俺はお前の夫になるんだからさ、少し早いくらいいいじゃないかよ」


 嘲るようにそう言いながら胸を弄れば、すぐにふたつの柔らかな乳房に指は達する。良太郎は確かめるように胸を揉みしだいた。


「今度こそ、間違いじゃねえな」

「自分の父親の初七日も終わっていないというのに……酷い人!」


 馨が声を荒げる。それすらそそる。

 いつかやってやるんだ、と思っていた所業へと、良太郎は躊躇いもなく踏み込んでいく。


「お前の父でもあるだろうがよ」

「うるさいわね」


 こういうときに口答えする女は好きではなかった。

 だから良太郎は、反射的に馨の頬を二発ほど叩く。そうとしてしまえば、もう抵抗されることも、口答えされることもなかった。

 無我夢中になって馨のなかに押し入ってみれば、脳内でざわめく声がする。


 男は、つよい。

 おとなはつよい。

 おとなの男は、いちばんつよい。

 おとなでも女は、よわい。


 ――ああ、そうだ。まさにそのとおりだ! そのとおりだった!


 堪えがたい喜びとともに、良太郎は射精する。


 梨の実をしゃぶりつくすように、良太郎は馨を舐め回した。枯れ果てるまで、果汁を啜り尽くした。


 これまでにないほどに、生かされているのではなく、生きている実感がした。



 全てが終わっても、良太郎はなかなかその場から立ち去る気がしなくて、納屋の床に裸体を転がしたまま、木窓から差し込む月の光のなかで、女体の余韻を楽しんでいた。

 日常も、戦争もなにもかもが遠かった。身を包む確かな充足感が、癖になるほど心地よい。


 すると馨がふるふると身体を震わしながら、乱されたもんぺを直し、立ち上がる気配がする。


「なんだよ。もうちょっと休んでいけよ。お前も楽しかっただろ?」


 しかし馨はなにも答えず、そのままおぼつかない足取りで納屋から出て行く。


 ――まあ、いいや。もうこれであいつは、俺のものなんだから。これからはいつだって気が向いたときに抱ける。


 そう思う良太郎の鼓膜を、不意に、男の声が打った。か細くはあるが、低い男の声だった。どこまでも呪詛に近い響きを持つ声音だった。


 それは納屋の外から聞こえてくる。そして数秒後、その声が、爆ぜた。


「……姉さん、なんだったら、あいつと同じように、殺してやってもいいんだよ!」


 あとから何度思い返しても、あれは、聞き違いではなかったと思う。月夜の静寂に響き渡った声は、たしかに、そう言っていた。


 しかしながら、良太郎が邦正の絶叫の意味を知るのは、これより大分時を経てからのことだった。

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