《3》-2

 ひさびさに見た邦正は髪を短く刈っていた。


 本人の意思ではなく、時節柄だろう、と良太郎は推測する。なんせ帝大でも軍事教習が行われているとのことであるし。


 晴れ渡った冬の空の下、葬列は墓地へと向かって黙々と進んでいた。先頭は隣保班の女による花持ちが務め、そのあとは、小野寺家の家紋入りの提灯持ちが続く。そして、そのあとに続くのが、後継ぎたる邦正だ。


 彼は位牌を手に持ち、右足を引きずりながらゆっくりと歩く。自然と葬列全体の動きも遅くなり、墓地に着くのは昼近くになってしまいそうだった。邦正の後ろは枕団子などを供えた膳持ち、そしてその後にようやっと、棺を載せた棺車ガングルマが現れる。


 使用人でしかない良太郎とたかは、列の最後尾を歩いていた。遥か前に邦正の背が見え、それより後ろの棺車の近くには、いと、そして、馨の後ろ姿を認めることができる。


 長い髪を結った馨のうなじが、会葬者の肩越しにちらりちらり、と見える光景に、良太郎は人知れず興奮していた。弔いの場であるということが、欲情をさらに刺激する。喪服のうえに伸びる白く艶めかしい首筋が揺れるたび、身を刺す寒風がどうでもよくなるほどに、身体の芯が熱くなる。


 ――他でもない自分の葬列で、己の娘に俺が劣情をぶつけていると知ったら、あいつはどう思うことやら。


 良太郎は前をゆく棺車を見ながら、表情を崩さぬよう注意しながら密かに笑う。あのなかには物言わぬ健三がいる。そう思うと、また笑いが込み上げる。


 そしてそのうち、良太郎のなかで長年心に澱んでいた想いがかたちを成し始める。それは想いというより、執念に近いものだったかも知れないが。


 ――決めた。俺は、近いうちに、あの女を手に入れてやる。そうだ、間違いなく、あいつを漁ってやる。あいつの果汁を啜ってやる。


 胸に急速に広がっていく決心を反芻する良太郎の目に、ようやく葬列の先頭が墓地に辿り着いた様子が見える。


 ――だって俺はいまや、大人の男なのだから。だとしたらそうする権利がある。いや、義務ですらあるな。


 うそぶく良太郎の視界を、邦正の背中が掠める。


 その瞬間、良太郎の決意は、より強固になった。だが、それを後押しするような出来事がこのすぐあと、己の身に起ころうとは、彼はまだこの時点では夢にも思っていなかったのだ。



「良太郎。亡くなった健三さんには、前から相談していて、これは、いとさんもすでに承知のことなんだけどね」


 いまだ店を休み、雑事に追われていた良太郎を寿史が訪れてきたのは、健三の葬儀から四日後のことだった。それも、直接良太郎のもとに来たわけではない。良太郎が急にたかとともに、いとに呼ばれたのだ。


 ひと通りの弔いを終え、喪服からもんぺに着衣を既に変えたいとが眉間に皺を寄せながら、呼び寄せた使用人親子を屋敷の奥に招き入れる。

 健三の真新しい位牌が置かれたばかりの奥の間には、寿史、そしていまや小野寺家の主である邦正と馨が座していて、思わぬ顔ぶりに良太郎は、おや、と思った。そして小野寺の双子に視線を投げてみれば、顔つきは母に負けず劣らず固く強張っている。


 ――弟が髪を切ったとはいえ、本当にこいつら、そっくりだな。こうなってみると気味が悪いくらいだ。


 そんなことを思っているうちに寿史は焼香を終え、まず良太郎にそう話しかけてきた。

 良太郎は驚きのあまり国民服に包まれた身体を僅かに動かした。話が自分のこととは思っていなかったからだ。母と自分が小野寺家を追い出される、そんな話かと想像していた。

 しかし考えてみれば、それを言いつけるならいとだけがこの場にいればいいわけで、自分の雇い主であり、地域の有力者である寿史がここにいることは確かにおかしかった。


 だから、状況を訝しがる自分に、寿史がこう告げてきたのは、青天の霹靂以外の何物でもなかったわけである。


「良太郎には、馨さんを娶って、この小野寺家に婿入りして欲しいんだ」

「え……自分が馨さんと、ですか?」


 虚を突かれた良太郎は、息を詰らせながら寿史に問い質す。

 馨を呼び捨てにしなかったのは、我ながらうまく立ち回れたものだ、と心のどこかが安堵していた。そして当の馨の顔を見てみれば、切れ長の瞳をきっと見開いて畳に視線を落しており、心なしか身体は震えているように見える。


 刹那、良太郎は、いつかのようにまた、そんな彼女を可愛いものだ、と密かに思い、己の心をも震わせた。おそらく、馨とは真逆の、嗜虐的な喜びの方向に。


 そんななか、寿史の声だけが朗々と部屋に響いている。


「実は健三さんはかなり組合に借金があってね。寄り合いではかなり心配事になっていたんだ。なんせ小野寺さんといえば、この辺りじゃ有数の梨農家だから。これからこの戦時下で、ただでさえ梨の栽培は厳しくなっていくだろうが、加えて、小野寺さんは家の財政を立て直しながら梨を作っていかなきゃならない厳しい状況にある。いくつかの銀行に頭も下げなきゃならないだろう。だが、融資をこぎ着ける信頼を得るには、おそらく、身体の弱い邦正君では立ちゆかない」


 状況が少しずつ、霧が晴れるように明らかになっていく。良太郎はいまや、降って湧いたこの話に心は躍らんばかりであった。殊勝に頭を垂れて話を聞く振りをしながら、馨に続き、邦正の表情をちら、と盗み見る。

 思った通り、姉そっくりの顔は分かりやすいほどに青ざめていて、きつく結ばれた唇は色を失ってさえいる。

 いとに至っては確かめる必要もなかった。


 同じく横にいる母の顔も見るまでもない。きっと数日前に見た、得も言われぬあの顔つきであるに違いない。

 おそらく心中は自分と同じく、目の前の連中への優越感と侮蔑に満ちていることだろう。


 ――ざまあみろ!


 良太郎は神妙な顔つきを崩さないまま、嘲りの声を高らかに胸中で叫んだ。

 だから、その後明かされた自分の身の上にも、たいして心は揺るがなかったのだ。


「そこで、皆が、良太郎に白羽の矢を立てたわけだ。良太郎はいまやうちの店の会計を任せられるほど、金勘定には長けているし、身体も頑強で申し分ない。……そして、これは公にする必要はないことだが……たかさん、良太郎は健三さんとの子どもということで、間違いないね?」

「はい」


 母はこれ以上なく短く、そうとだけ答えた。


 良太郎といえば、さして驚かなかった。ただ、床の間の位牌に意識を向けながら、こう思っただけだ。


 ――ああ、やっぱり。


「ならいい。……まあ、そういうことだ。この時勢だ。良太郎もいつ出征するか分からないから、祝言は今年の梨の収穫が終わる頃には上げてもらいたい。急な話だが、いとさん、いいね?」

「はい」


 いとも同じく言葉少なめに返答する。しかし良太郎にとって愉快なことながら、その声からは悔し涙の気配が感じられた。


 馨は、最後まで一言も声を漏らさなかった。

 ただ、黒い瞳で畳を凝視し、良太郎が部屋を去る寸前、深々と未来の夫に向けて、額を床に擦り付けて礼をしただけである。


 良太郎には、それだけで十分すぎた。


 ただし、そのときは、であったが。

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