第三話 昭和十七年 ~あいつを啜るまでの経緯~
《3》ー1
「満州国に行ってみたいんです。開拓民として」
いつだったか、寿史にそう相談したことがある。少し冗談めかしてだったが、良太郎の本音としてはどこまでも真摯だった。
すると餅に竹の皮を巻く作業をしていた寿史が、手を止めて良太郎を見た。それから、僅かに眉を顰めてこう返してくる。
「別に開拓民なんかじゃなくとも、行く時期が来るさ」
「そうですか?」
「ああ。あるいは満州じゃない他の土地かもしれないが、たとえお前が望まなくとも、どこかに行くときは必ずある。だからあまり急がないことだ」
それだけ言うと、寿史は視線をまた手元に落として作業を続ける。黙々と。その様子はなんとはなしに声をさらにかけづらいものであって、良太郎はそれ以上の会話を諦めて、自分もまた仕事を続けるべく、算盤を弾く手を再開させたわけだが、いまとなってみれば、寿史がなにを言いたかったかが、わかる。
思えば、その真意がすぐわからないほどに、あの頃はまだ、平和だったのだ。あるいは、自分がおめでたかっただけだろうか。
もう三年前となった昭和十四年、良太郎は二十歳を迎え、久喜まで赴き徴兵検査を受けた。結果は甲種合格。周囲は一人前の男になった、と盛大に祝ってくれたし、良太郎自身も納得の結果であった。日本男児として光栄極まりない、本気でそう思った。
しかし、不思議なことに、自分がすぐに戦地に往く実感は得なかったのだ。
その頃すでに中国での戦線は拡大していたし、九月には同盟国であるドイツがポーランドに侵攻し、いよいよ二度目の世界大戦が始まっていたというのに。加えて国内では、軍需工場への労働力充足を目的とする国民徴用令も発令され、ついで世間では「贅沢は敵だ」という標語が流布されていく。戦時色は濃くなっていく一方だった。
それなのに。
出征が嫌だったわけではない。むしろ、そのときを待ち望んでいたと言っても過言でない。それだけの気概は良太郎にはあったし、覚悟も持っていた。
なのに。決して、目を背けていたわけではないのに。
そして日米開戦を経て昭和十七年を迎えたいま、戦争は、目を背けたくてもできないほどに、良太郎の生活のすべてを覆いつつあった。
その年は年始から波乱含みであった。
一月末、小野寺家の当主、健三が急逝したのである。
世間は、先年十二月の真珠湾攻撃、年始めのマニラ占領までに至る華々しい軍の戦果に沸きたっていた。当の健三自身も、亡くなる前の晩まで、上機嫌で破竹の進撃を褒め称えていたという。
「これでもっといい時代になるな。我が国はアジアの暴虐な米英どもを、いずれ完全に駆逐するだろうからな」
そして、寝室に下がる寸前、健三はいとと馨にこのような言葉を残したらしい。
「いやはや、実に素晴らしい時代に俺は生きている。聖戦の幕開けをこの目で見られるなど、これ以上の喜びがあるものか。いやあ、俺は幸せ者だ」
それが健三の最後の言葉だったという。
翌朝、健三は寝床から起き上がってこなかった。
後からその経緯を聞いた者は、たしかに健三は言葉通りの幸せな人間だったと皮肉混じりに思うことになる。良太郎もそのひとりであった。
しかし、彼がそう思ったのは、さらなる月日を経て、戦局がこれ以上なく悪化してからのことだ。多くの国民と同じく、彼もまた、そのときは健三の言葉をそのまま受け取り、咀嚼していたのだ。
早朝から出勤していた良太郎が、寿史の店で健三の訃報を耳にしたのは昼過ぎのことである。
健三の死に、良太郎はとくに感慨を持つことはなかった。ただ、遠い夏の日の梨畑での出来事を脳裏にうっすらと思い描いただけである。
どちらかといえば、蘇ったのは与えられた梨の味だ。彼は人知れず、喉を鳴らし、唾を飲み込んだ。
それでも、色褪せつつあった憎しみと少しの喪失感が胸にせり上がり、僅かながらこう思ったのも確かだ。
――死ぬべき奴が、やっと死んでくれたな。
そしてその次には健三のことはさっぱり忘れ、馨の顔を思い浮かべる。
――あいつ、いま、どんな顔つきでいるやら。こりゃ、見ものだな。
なお、東京の帝大に進学している邦正については、思い起こすことすらなかった。
もっとも、脳が無意識に、忌避しただけかもしれない。後から考えてみれば、邦正が義父の死の報を受けて、帰省してこないはずはなかったのだから。
なんせ、いまや邦正は小野寺家の嫡子なのだ。
良太郎が小野寺家に帰り着き、自転車を納屋の横に寄せていると、突然、けたたましい女の叫び声が屋敷から聞こえてきた。
それが夫を亡くしたいとの声であることは声音からはわかったが、声は普段のおとなしいいとの様子から想像がつかないほどの激しいものだったので、驚いて良太郎は様子を見に行くこととする。
どちらにせよ、家の主人が亡くなったのだ。これから始まるであろう数多の喪のあれこれに、良太郎も関わらなければいけない。建三をどう思っていようと、顔を出さぬわけにはいかなかった。
母屋の台所には、すでに隣保班の女たちが集まっていて、葬儀の始まりなではの賑々しさに満ちている。そのすぐ傍の土間を上がったところで、いとが怒り狂っているのを見て、良太郎は思わず眉を顰めた。
なぜなら、いとの𠮟責の相手は、他でもない、母のたかだったからである。
「あなた、さっき目を盗んで、馨の針箱から針を一本盗んだでしょう?」
いとの顔は険しい。それを見て、良太郎は瞬時に状況を理解した。
習わしでは、死者に着せる死装束は早木綿の布を用いて、亡者の娘や血筋の者がともに縫う。おそらくいま、屋敷の奥では馨が中心となって、縫い仕事に近親の女たちが精を出しているのであろう。そしてそれに使う針は新品のものでなければいけなく、また、縫い終わったら棺に入れることを絶対とされる。
怒り狂ういとの言い分を聞くに、そのさなかに針が一本行方不明になったらしい。
いとの怒りはもっともだった。弔いに使った針を、その後針箱に戻すのは禁忌だ。それゆえ厳重に針の数を数えながら縫っていたというのに、針が足りない。そしてそれは所用で馨のもとをたかが訪れたあとに発覚したのだと言う。それでいとはたかに疑いをかけたのだ。それゆえの騒動であった。
しかしながら、同時に良太郎の目を奪ったのは、詰問するいとの前に立つ母の表情だ。
それをなんと言い表したら良いのだろう。笑ってる、でもない、かといって悲しんでいるでも、怒っている、でもない顔。だが無表情とはとても言い表せない顔。それはいままで触れてきたどの母の表情とも違って、良太郎は呆気にとられた。
そんな彼の目前で、たかはいとに向かって悪びれもせず、はっきりと言ってのける。相変わらずの言い表しようのない顔つきで。
「私がなぜ、そのようなことをする必要がございましょう? 考えすぎです、奥さま」
いとをはじめとした女たちが唖然とするなかで、たかは今度はわかりやすいほどの笑顔で微笑んでみせる。
「奥さまも、旦那さまの装束を縫って差し上げるお仕事に少しはお手を貸すのでございましょう? せっかくこのご時世だというのに、質のいい木綿が手に入ったとのことです。勘違いで私などを責め立てる暇がございましたら、そちらに精をお出しなさいませ」
「……たかさん」
いとがたかの放言に顔を顰める。
だが、たかの着衣を身ぐるみ剥いで針を探すわけにもいかないと思ったのだろう。いとはたかを忌々しげにたっぷり数十秒睨んだあと、身を翻し屋敷の奥に消えて行った。
たかといえば、何事もなかったかのように、土間に降り、女たちに紛れて弔い団子を作るための粉を石臼で曳き始める。
そんなたかの横顔を見ながら、良太郎は、たしかに母のもんぺの奥には、一本の針が潜んであろうことを確信する。そしてそれを、後日頃合いを見て馨の針箱にそっと差し戻すつもりであろうことも。
なぜなら、自分が母の立場なら間違いなくそうする、そう思ったから。
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