《2》-3

 雪のなか起こった、のちに二・二六事件と呼ばれる軍部のクーデターは、二十八日には反乱部隊への攻撃が決定されるに及び、二十九日に「奉勅命令」により、午後には決起将校の逮捕まで至り、失敗に帰した。一般国民にはなんら害は発しなかったが、東京都心では付近の住民に避難勧告が出され、新橋駅付近は避難する人と車で大渋滞したと聞く。


 しかしながら、良太郎の周辺は平穏に時が過ぎていく。積もった雪に数日難儀したものの、三月を迎え、雪は根雪にならず溶けつつあった。


 三月中旬のその日、良太郎はいつもより早く出勤するべく、白んだ空のもと自転車に跨がり、小野寺家を出ようとした。

 村の八幡宮の例大祭が間近に迫っていた。雛節句からの祭に向かう暦のなか、菓子屋の仕事は忙しさを増している。となると、良太郎も早出して店のあらゆる雑務を手伝う必要があったのだ。


 冷え切った朝ではあったが、肌に触れる空気は僅かに春の気配も孕んでいる。


 ところが、冷気を割って、いざ自転車を漕ぎ出そうとしたそのとき、背後から良太郎を呼び止める声がした。


「この間は、お菓子ありがとう。美味しかったよ」


 良太郎は一瞬、期待して振り向いた。馨であろうかと。


 しかし、朝の風に黒髪をたなびかせながら語りかけてくるその声は、僅かに、低い。あの鈴の鳴るような声音とは異なるものだった。


 その正体を知って思わず身体を強張らせた良太郎を、邦正はじっと見据える。久々に見た着物姿の彼は、記憶にあるそれより背丈が伸びている。ただ長い黒髪と、切れ長の目だけが同じで、良太郎は思わず背筋をぞわり、とさせた。

 朝の冷気のせいと思いたかったが、そうでないと理性が執拗に語りかけてくる。こいつは危険だ、関わるなと、内なる感覚が告げてくる。


 だが結局、良太郎はこう零すことを抗えなかった。その黒目がちの瞳を見ないようにしながら、ぼそり、と呟いた。


「……結局、お前も食ったのかよ。やっぱりやるもんじゃねえな」


 そんな良太郎を見る邦正はどこか愉快げだ。姉そっくりの顔が、楽しげに歪む。

 そして次にその唇から放たれた問いに良太郎は、完全に不意打ちを食らった。


「姉さんが好きかい?」


 さらり、と告げられた質問に良太郎は絶句した。

 そして、なによりも、なにを馬鹿なことを、と瞬時に言い返せせなかった己に慄然とした。

 その動揺を隠すように、良太郎は全く別のことを聞き返す。それと悟られぬよう勇気を振り絞って、目前の黒い瞳を睨み付けながら。


「お前なんで、親父さんに俺のこと言いつけないんだよ」


 すると、邦正はくすっ、と笑って答える。


「どうしてだろうね」

「俺はお前のそういうところが大嫌いなんだよ。気持ち悪くて」


 憎々しげに良太郎は言葉を投げつける。

 そろそろ出発せねば、仕事に遅れてしまう、そうどこかで理解してはいたが、いまは邦正にこみ上げる嫌悪感をぶつけてやりたい気分が勝ってしまっている。


 そんな良太郎の心中を見通したように、邦正はなおも微笑み、囁いた。どこか鬼気迫る響きを持って。


「僕のことは姉さんさえ分かってくれていれば、いいからさ。ずっと僕らは、分け合って生きてきたんだから」


 そこまでが良太郎の精神の限界だった。

 ごくごく自然に手が邦正の着物の首元へと伸び、次の瞬間には、引き寄せた頬を拳で一発殴打する。良太郎のなかで限界値に達したおぞましさが、彼をそうさせずにはいられなかった。


 殴られた勢いでよろけた邦正は、またも容易に地面に転がる。河原での遠い記憶が良太郎に蘇る。ただ、そのときより遥かに手足は伸びている。


 だが、捲れた腕は多少筋張っているものの、相変わらず細くて、白かった。


 仰向けに転がった邦正が、黒髪を地面に乱しながら、絡みつくような視線を良太郎に投げる。そして、ぽつり、語を零した。


「あんたなんかに、姉さんは渡さないからね」

「……お前にそう言われると、手に入れ甲斐があるな」


 良太郎は咄嗟にそうとだけ返答すると、自転車に再び跨がり、地を蹴った。たちまち自転車はスピードを上げ、倒れたままの邦正を、後方へとどんどん置き去りにしていく。

 

 ――遠くに行ってしまいたい。


 勤務に遅れぬように、というより、身体中にまとわりついてしまった邦正の気配から早く逃れたい一心で、良太郎は力一杯自転車を漕ぐ。

 左右に広がる梨畑では、朝も早いというのに、枝を棚に縛り付ける誘引の作業が行われているのが見える。


 ――ああ、満州にでも行ってしまいたいな。馨を奪って。そうしてしまえば、あいつと顔を合せることもないし。


 自転車を漕ぎながら、いつしか良太郎の心にはとめどなく願望が広がっていく。


 それを一旦願ってしまえば、自分をこの土地に縛り付ける全てが鬱陶しくなる。母のことも、将来を嘱望してくれる寿史のことすらも。


 良太郎は鞄のなかに今日も潜ましている簿記の本を、梨畑に打て捨てたい衝動に駆られた。

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