《2》-2

 翌朝、外は銀世界であった。すべてが白く、清らかで、静かである。


 ――東京では大変な騒ぎらしいが、ここは別世界のようだな。いいことだ。


 良太郎は店のスコップを借りて、店舗前の雪かきに励む。それがあらかた済んだ頃、寿史が店のなかから出てきた。見れば、手にはなにやらちいさな風呂敷包みを携えている。


「ごくろうさん。もう今日は帰っていいぞ。今日は天気はこうだし、世間は騒がしいしで、そんなに客は来ないだろうから」

「でも、まだ午前中ですけど」

「いいから。物騒なことが続いて、お袋さんも心細い思いをしているかもしれないからな。自転車は置いてけ。歩いてならなんとか、村まで帰れるだろう。それと……」


 寿史がそこで言葉を句切って、手にした包みを良太郎に差し出す。


「今日はこれを持ち帰れ。余りの餅だ」

「そんな、泊めて頂いただけでも、お世話になったのに」

「いいんだよ。お前はよく働いてくれるからな。お袋さんに食わせてやれ」


 そう言うと、寿史はなかば取り上げるように、良太郎の手からスコップを受け取る。良太郎はすっかりかじかんだ手をこすると、風呂敷包みをスコップと交換のように、手に取った。

 そして、ぺこり、と短く刈った頭を下げて、礼を述べる。


「ありがとうございます」

「いいんだよ。お前はよく働いてくれるから。これからも店のために、よく勉強してくれ」


 そう言いながら寿史はにっ、と笑い、良太郎の肩をぽんぽんと叩くと、また店へと戻っていく。


 それから、良太郎はその日午後中掛かって、膝ほども積もった雪を踏みしめ、家路を急いだ。



 小野寺家に辿り着いたのは夕暮れ時であった。


 すでに電灯が屋敷のそこかしこに点っているのが見える。積もりに積もった雪はすでに道に寄せられており、それを見ると、母も総出で雪かきに精を出したのだろうという想像が良太郎の胸を過ぎる。のんびりとその間、自分は勤務先で客人として過ごしていたのだと思うと、なんとはなしに罪悪感が心に湧いた。

 ともあれ、屋敷の離れにある自宅へと足を向けようと、良太郎は屋敷の敷地に踏み込んだ。


 すると、夕暮れの迫る屋敷の庭にひとり座り込んでいる影がある。


 胸が、どきり、と高鳴った。

 その背丈と長い黒髪の人影なら、この家にはふたりしかいない。果たしてであるのか。こんなに寒いはずなのに、背中にじわっ、と脂汗が垂れる感触がする。人間の身体は不思議なものだ、とどこか他人事のように良太郎はそのとき考えた。


 庭の雪の上にかがみこんでいた人影が、良太郎に気付き、すっ、と立ち上がった。そのとき、黒髪のなかのなにかが、薄明かりに反射して、微かに光った。

 かんざしだった。


「なんだ、お前か……」


 良太郎は途端に険しくした視線で馨を睨み付ける。対して着物姿の馨は、なんら感情を揺らすこともなく、良太郎の目をまっすぐ見据えた。あいかわらず切れ長の瞳であった。


 しかし、四年、齢十三を迎えたその顔は、より「女」の面持ちを濃くしている。日頃から、屋敷で時々見かけるたびに感じていたことであったが、こうして真っ正面に立たれると、よりその実感が増す。


 四年間封印していた暗い欲望が、そのとき、良太郎の奥で、再度脈打った。

それだけではない。今度は、こうとすら思った。はっきりと、脳裏に言葉として浮かび上がるほどに。


 ――こいつを、めちゃくちゃにしてやりたい。


 その衝動にそのときなんとか耐えられたのは、寒さのせいだろうか。屋敷内という場所のせいであろうか。

 それとも、自分が少しは大人になったからだろうか。


 ――を我慢できるのが「大人」だというなら、糞食らえだな。いや、むしろ、大人になったときこそ――。


 良太郎のなかで、そんな苛立ちが募った。


 次の瞬間、衝動のままに、良太郎は馨の足元のちいさな雪の塊を蹴る。馨が作ったらしい雪兎が無残に潰れた。


「……なにするのよ」


 馨が目を剥いて良太郎を睨んだ。

 その顔は先ほどからは微かに上気している。それが怒気だと分かったとき、良太郎は愉快に思った。

 そして、自分の所業に頬を染める馨を、可愛いと思った。


 良太郎はかつて雪兎だった白い塊を踏みしめ、馨の前に立つ。そして、手にしていた風呂敷包みをおもむろに差しだした。


「やるよ」

「なに、これ」

「店の菓子の余りだ」


 馨が虚を突かれたように固まる。そして、忌々しそうに良太郎を見上げながら、語を紡いだ。


「……なんで私なんかに、お土産くれるの?」

「ちょっとお前の顔が可愛いと思っただけだよ。そのほかは全くもって、好みじゃねぇけどな」


 良太郎も目の前に立つ馨を見下しながら、できるだけ淡々と答える。しかしなぜだろう、どこか照れくさい気もする。そんな落ち着かない気持ちを打ち消すべく、良太郎は続けて言い放った。


「だけどな、お前ひとりで食えよ。お前の弟にはやるなよ」


 馨の表情が固まった。そして、差し出された包みに視線を落しながら、呟く。


「私にだけお菓子くれても、困るのよ。邦正が可哀想」

「馬鹿いえ。あいつになんぞくれてやる菓子などないよ」

 即答した馨に良太郎が吐き捨てるように言う。


 すでに陽は落ち、積もった雪から立ち上る冷気が闇を伝って身体を這い上る。だがそれでも、良太郎と馨は、お互いの顔を見交わしながら庭に立っていた。

 やがて、馨が呆れたように囁いた。


「あなたは本当に邦正が嫌いなのね」

「当たり前だろ、あんな気持ち悪い男女おとこおんな


 良太郎は顔を顰めた。あのとき河原で、身体を漁ってやった人間が邦正であったと思い返すたびに、彼は吐き気を催すのだ。

 ここ四年、何度も何度も、こみ上げる吐き気を堪えてきた。


「……私、あなたが邦正になにをしてるか、知ってるわよ。小学校ではあなたがけしかけた子どもたちから酷く虐められているし、この春、中学校に進学しても、きっとそれは続くんでしょうね」

「なんだよ。だから、なんだってんだ。親に告げ口するなら、しろよ。俺はいまさらお前の親父さんに嫌われたところで、なんともねぇよ」


 良太郎は馨の前でけらけらと嗤ってみせる。その言葉は本心だった。

 だから、良太郎は睨みを利かせた表情で、こう馨に凄むことも厭わなかった。


「それに俺は、お前がしたことだって、忘れてねぇからな」


 そこまで言うと、良太郎は馨に風呂敷包みを無理矢理押しつけ、身を翻した。すっかり冷えてしまった身体を忙しなく動かして、足早に自宅の方へと歩を進める。振り返ることもなく。


 だから、そのとき馨がどんな顔をして自分の背を見送ったか、良太郎に知る術はなかった。


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