第二話 昭和十一年  ~降りつもる雪~

《2》-1

 頬を冬の朝の空気がちくちくと刺す。冷気が肌を赤く染める。

 それを感じながら、良太郎は畦道を二月末の風を切って自転車で走っていた。


 舗装もされていない道だから、荷台に積んだ木箱はガタガタと揺れる。しかし、隣町の菓子屋に就職してから三年、毎日の配達業務をこなすうちに、いつしか良太郎も車体を上手く保ちながらの走行に慣れていっていた。


 ――雪でも降りそうな空だな。


 自転車を走らせながら見上げてみれば、微かに朝陽が差し込みつつも、空はなお不機嫌な色をしている。白く厚い雲が低く垂れ込んでいる。暦の上ではもう春が近いというのに、そんな色は微塵も感じさせぬ様相だった。


 しかしながら、良太郎はこの毎朝の配達が好きだった。楽な仕事ではない。はじめて三年が経ったいまでも、荷台に載せた木箱は重くて走るのに苦慮する。仕事を始めたばかりの頃は、無様に転倒して路上に餅をばらまいてしまい、大目玉を食らったこともある。


 だけど、清々しい朝の空気を胸いっぱい吸い込みながら、ひとりで自転車を畦道に走らせるとき、良太郎は普段の生活のなかでは感じることのない安堵を胸に感じていた。


 ――生活というのは煩わしい。常に将来への不安が心で渦を巻くし、そのうえ、屋敷では旦那様の目に入らないよう、身を始終縮めていなければならない。そうしないと母さんが八つ当たりされる。


 そんなことを考えてはいたが、良太郎の心中は凪いでいる。


 ――生きるってことは色々と難儀だ。だが、仕方ない。俺は、いつまでも子どもではいたくないからな。


 そう心で呟きながらも、清涼な空気のなか、ひとり自転車を走らせていると、思考が冴え渡る。清々しい気持ちになる。所詮、気のせいしかないとは勿論良太郎にも分かっている。世間の憂さから意識を一時的に放っているだけ、それも意識している。 


 だとしても、良太郎は朝のこのひとときを愛しく思う。そして、作物の緑もなく、荒涼とした畑が地平まで続く、いまこの季節の光景がいちばん好ましく感じた。どこまでも見晴らしがよく、視界を遮るものがない大地を眺めるのが好きだった。

 そして思う。


 ――遠くに行きたいな。このまま、あの地の果てまで走って行ってしまいたい。


 良太郎は心を疼かせながら、白い息を吐く。

 気がつけば、真白い粉もちらちらと、空から舞い落ちてきていた。



 雪は昼から本格的に積もり始めた。


「もうけっこう積もってるぞ。なんなら、先日降った雪より積もりそうだなあ。なんでも列車も止まっちまったとか」


 日暮れを迎え、外での寄り合いを終えて帰ってきた主人の寿史としふみが、店の玄関先から良太郎に声を掛けた。見てみれば、なるほど、寿史の外套は白く覆われている。

 土間で寿史は雪を払いながら言う。


「良太郎、今日は泊まっていけ。この雪じゃ自転車では帰れないだろう」

「……いいんですか?」

「片岩から来た奴の話じゃ、道がぬかるんでいてたいそう難儀したらしい。帰路はもっと骨が折れるな、って嘆きながら帰っていったよ。歩きだってそうなら、自転車じゃなおさらだろう」


 ようやく外套から雪を払い終わって板の間に上がり込んだ寿史が、真っ赤になった両手を火鉢にくべながら良太郎に答えた。


 良太郎は手にしていた簿記の本を書机に置くと、背筋を正して店の主人に礼をする。


「ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えさせて頂きます」

「ああ、いいってことよ。……お前、今日もまた簿記の勉強していたのか?」

「あ、はい」


 良太郎は手にしていた本に視線を落とした。そして借りている本であるのに、ずいぶんと自分の手垢で汚れてしまっていることに気がつく。表紙もなかの頁も心なしか捲れてしまっていて、良太郎はしまったな、と思った。


 だが、そのことを謝ろうとしたとき、寿史が手を振って頭を下げようとしたその挙動を遮った。


「ああ、いいんだよ。なんだったら、良太郎、その本、お前にやろうか?」

「え?」

「ここのところ仕事の合間という合間、熱心に読んでいたからな。なら、本格的に簿記を勉強するといい。それで上手くいけば、将来、お前にこの店の会計を任せてもいいと俺は思っている」


 良太郎は寿史の思いがけぬ言葉に目を見開いた。

 宵闇に覆われた外からは、しんしんと雪が降りつもる気配が伝わってくる。



 夕餉は、蕗のふきのとうの煮物に、魚の干物、沢庵、麦飯だった。


「干し魚、一尾多くあって良かったわ。この間行商の婆さんがね、いつも買ってくれるからって、おまけに一尾多くくれたのよ。本当に良かった」


 寿史の妻が麦飯をよそい、良太郎の前に差し出しながら言う。良太郎は黙って頭を下げ、茶碗を受け取った。良太郎の隣には寿史の幼い息子ふたりが座し、良太郎の顔を物珍しげに見てはきゃっきゃと騒ぐ。部屋に置かれたラジオから流れる音楽もあいまって、実に賑々しい。


 良太郎には久しぶりの、賑やかな食卓だった。


 普段の夕食は、母が小野寺家の仕事を終えてきてから、ふたりきりで食べる。もっと前には、小野寺家の食事の末席にて、健三たちといっしょに食べることもあった。しかし、健三が後妻のいとを迎え、さらにはいとの連れ子である馨に良太郎が「わるさをした」ことが発覚したあと、それもなくなった。


 良太郎は自分の悪行が起こしたことではあったが、内心それに安堵した。馨や邦正と食卓をともにするのは居心地が悪かったし、それに母に向けたいとの意味ありげな視線も気に掛かってしまう。


 いとは花見会に来た芸者の紹介で嫁いできたが、家に入ってきてみれば、平凡ながらよく働く典型的な農家の嫁で、そつなく小野寺家での日々を過ごしていた。ただ、かつて健三の情婦扱いだった母たかに対しては思うことがあるようで、心なしか当たりが強い。それは、我が子に手を出した良太郎の親であるからでもあるのだろう。


 そのことを思うとき、良太郎は母に自分の所業を申し訳なく思う。しかし、不思議ながら自分が押し倒した邦正、それを隠した馨のふたりについてはなんの罪悪感も湧かず、あの日を思い出すたびいまだ胸に煮え来るのは憎悪の念である。


「良太郎。これからはな、金勘定がしっかりできる奴が重用される。だから簿記を勉強しておくのは悪いことじゃないぞ」


 麦飯を口に運びながら、唐突に寿史が語を放った。良太郎は我に返り、雇い主に目を向ける。


「いくらこの土地一帯が梨の生産に頼っているとはいえ、農作業だけに重きを置いていては駄目だ。この辺のやつはそれが分かっていない」


 寿史の顔つきは、いつもの柔和な様子とは違って、僅かながら苛立ちが見て取れる。良太郎にはそれが意外で、思わずどう返事をすればいいか戸惑う。しかたないので、曖昧に頷きながら沢庵に手を伸ばす。そしてそれを口に含んで二口、三口と噛みしめたときのことだ。

 ラジオの音楽が、ぷつり、と途切れた。


「……なんだ?」


 寿史が麦飯を食むのをやめて、ラジオに目を向ける。ラジオからは、それまでと一変した緊迫したアナウンサーの声が早口で流れ出している。なにかの臨時ニュースらしいことは分かるが、音声が途切れがちで、なにを伝えているのか、良太郎にはいまいち分からない。


 だが、なにか重大なことが起きたのは伝わってくる。

 やがて、雑音混じりのニュースにじっ、と耳を傾けていた寿史がぼそり、と呟いた。


「どえらいこっちゃな」

「あなた、何事なの?」

「東京に戒厳令が敷かれたらしい」

「戒厳令ですか?」


 良太郎は突如聞こえた物騒な語句に驚きながら聞き返す。すると寿史が眉を顰めながら答えた。


「ああ、軍隊が暴動を起こして、政府首脳を幾人か殺したとのことだ。総理は逃れたそうだが」


 途端に食卓の空気が冷えた。幼子ふたりも、ただならぬ様子の父を見てぽかん、としている。

 やがて、静止してしまった夕餉を促すように寿史が言う。


「今日は早く休んだほうがいいな。さあ、早く飯を終わらせてしまおう。ほら、良太郎も」

「あ、はい」


 良太郎は慌てて、冷えかけていた麦飯を掻きこんだ。


 ラジオからはいまだ、重々しいアナウンサーの声音が響き渡っている。

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