《1》-3
花見会から二日が経った。
梨の花は早くも散りはじめ、季節は初夏に移り変わろうとしている。
その日、良太郎は高等小学校からの帰り、畑のなかの畦道を歩きながら、物思いに沈んでいた。
――来年の春、学校を卒業したら、就職するしかないな。いまから当てを見つけなければ。
馨に手を出したことに激怒した健三は、しこたま気が済むまで良太郎を殴ったあと、自分に告げた。
「良太郎、お前には使用人の息子として目をかけてやってたんだ。だから母子ふたりでしかないお前を、尋常小学校では飽き足らず、高等小学校の学費を出してまで面倒をみてやっていた。聞けばお前はなかなか成績も良いと聞いたしな」
憎々しげな視線を良太郎に浴びせながら、健三はそこまで一気に語を放った。良太郎はいまだ立ち上がることも出来ず、畳に這いつくばってその言葉をただ聞くことしかできない。
「だから俺は、この先は岩槻の農学校まで行かせてやることも考えていた。しかしそれは、今日の騒ぎで誤りであると悟ったよ。お前への援助は来年の春限りだ。あとは好きにしろ。せいぜい干からびないように、いい就職先を見つけるんだな」
そう言って健三は良太郎の前から去って行ったのだった。
しかしそれを思い返しても、良太郎の心はそう翳っているわけでもない。
――仕方ない。俺はそれだけのことをしたんだろうから。
良太郎は、いったい河原で、自分を突き動かした暗い衝動の正体はいったいなんだったのだろう、と考える。
そしてそのことを考えるとき、良太郎の心に同時に蘇るのは、あの、部屋を去る寸前、自分を見て笑った馨の顔だ。
――あの笑みは忘れられない。そして、俺が襲ったのはあいつじゃない。あれは、そのことを嘲ってのものだったに違いない。
それを思うとき、良太郎の脳は恥辱と怒りに燃え上がる。彼はいよいよ目を険しくさせて考え込んだ。河原で己が押し倒した女はいくら思い返しても、薫と同じ顔として脳裏に刻まれている。
――だとしたら、あいつは……?
そのとき、良太郎を呼ぶ声がした。
「良太郎! 学校終わったのか? ちょっとこっちに来いよ!」
気づけば、良太郎の足は村の中心にある鎮守の森の前まで来ていた。その中で遊んでいた子どものひとりが良太郎に目をとめたのである。声をかけてきたのは、尋常小学校に一緒に通っていた農家の息子だった。
良太郎はひさびさに見た同級生の姿に足を止める。
「なんだよ、なんか用かよ」
「いや、今ちょっと、兵隊ごっこしてたんだけどさ、人数が足りなくて。新しく入った奴が、役に立たないもんだからよ」
「……新しく入った奴?」
良太郎は鎮守の森に足を進めながら、怪訝な顔をして聞き返す。すると同級生が声をちいさくして良太郎にこう言った。
「なんかそいつ、気味悪い奴なんだよ、男のくせに髪が長くてさ。しかも足がよくないらしくて、満足に遊べやしねえんだよ」
良太郎の背筋が粟立った。得もいわれぬ悪寒が身体を駆け抜けていく。
森のなかへと進むにつれて子どもたちの輪のなかに佇む「そいつ」の姿が見えてくる。
良太郎には見覚えがありすぎるその顔が、その黒髪が、視界に入ってくる。
「でもさ、お前のところ……つまり小野寺のところに来た双子の弟ってことじゃ、無碍にもできないからさ。
同級生の小声をどこか遠くで聞きながら、良太郎の頭で全ての破片は組み合わさり、疑問が解けていく。
しかし、その感触は心地よいものでは全くなかった。
むしろ。
気がつけば、良太郎は子どもたちの輪に辿り着いていた。
そのなかにいる、あの女児……ではない、今日はシャツと半ズボン姿の、馨と生き写しのようにそっくりの顔が、自分を認め、こちらを向く。
長い黒髪が、ふわり、と揺れた。河原でのあのときと同じように。
続いて切れ長の目の下の唇が蠢き、微笑を浮かべた。そして言葉を繰り出す。それは姿と同じく、男とは思えないか細い声だった。
鈴の鳴るような声だった。
「はじめまして」
良太郎は目を剥いて、その場に固まった。
目の前で笑う馨そっくりの男児になにも言い返すことも出来ず、ただ呆然として、その場に立ち尽くす。
「どうしたんだよ、良太郎。早く遊ぼうぜ」
同級生が、あまりの衝撃で棒立ちになった良太郎を訝しげに見やる。
その目前で邦正はなおも微笑んでいる。
喉がまた、ごくり、と鳴った。
「……よし、せっかくだから、こいつも仲間に入れてやれよ」
しばしの沈黙のあと、良太郎は乾いた唇を舌で舐めると、喉から声をふり絞るように言った。
「えっ、でも、こいつ足が悪いんだぜ?」
「だからだよ」
良太郎は地表に風呂敷包みを乱暴に投げ打ちながら、語を継ぐ。激情が、またも心を焦がしつつあった。だが、あの河原のときとは違って、それは劣情でなく、どこまでも深い怒りの念だ。
それと、胸がむかつくような、おぞましさ。
そして、渦巻く憤怒を胸に抱えたまま、邦正を睨みつつ言葉を放つ。
「だから、お前にやらせる役は、敵兵だ。御国の為に立てないような軟弱な奴なら、それがちょうどいいだろう?」
対する邦正は表情を動かすこともなく、良太郎の顔を見据えている。そんな邦正に、唾を吐きかけてやりたい衝動を堪えながら、良太郎は吐き捨てるように言った。
「……さあ、遊びの続きをやろうぜ。……これぞ真の肉弾! 壮烈! 決死隊! 爆弾を抱いて鉄条網へ! ってやつをさ」
その日、良太郎は存分に、執拗に、邦正を殴りつけた。
銃剣に見立てた竹の棒を、容赦なく黒髪が躍る頭に振り下ろした。ただし、顔に目立つような傷を付けぬよう、気を配りながら。
どす黒い衝動に従って棒を振り回すうちに、良太郎は次第に、自分がなぜ邦正を殴りつけているのか、なにに自分は怒っているのか、見失いつつあった。
――これは「遊び」だ。遊びなんだ。俺はただ、こいつと遊んでいるに過ぎない。これは、仕返しではないんだ。
いつしかそんな声が、心の奥で響き始める。
すると良太郎はより安堵して邦正を打ち据えることができた。最後には長い黒髪を鷲掴みにして殴りつけることさえ、厭わなかった。
邦正は良太郎になにをされても、その日も、文句ひとつ口にしなかった。
姉によく似た切れ長の黒目は、なおも静謐であった。
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