《1》-2 *
その夜、良太郎は容赦ない殴打に、二度三度と畳へと叩きつけられた。
梨畑で突き飛ばされた、あの遠い夏の日を思い出す。しかしながら目の前に屹立する健三の顔は、そのときと比べものにならぬ険しさで、もちろん唇も笑いに歪んでいない。そして与えられた暴力も、より荒々しい。猛烈な痛みが身体を疼かせる。
「だ、旦那さま……、そのくらいにしておきませんか……今日はめでたい日ですし、私からもよく叱っておきますので……」
良太郎を引っ張ってきた小作人が、怒り心頭といった様子の健三を見ておろおろと声を震わせた。しかし、それに構わず、健三は今度は足を振り上げ、うつ伏せになった良太郎の背中を激しく踏み付けた。思わず漏らした叫び声が夜の屋敷内に響き渡ったが、それを聞いても健三の蹴りは止まることはなく、その怒りがとてつもなく苛烈であることを良太郎は身をもって思い知る。
「お父さま」
その場に似合わぬ可憐な声が、良太郎の耳に降ってきた。それまで部屋の隅に座して、荒ぶる義父をただ静かに見守っていた女児が、はじめて言葉を発したのであった。
「ねえ、お父さま。もう堪忍してやって」
「
健三が振り上げた足を止めて、女児の方を見た。
それが、良太郎があの女児の名を知った瞬間だった。
――かをる、というのか。あの女は……。
良太郎はずきずきと痛む背をさすりながら、その名を心に刻みこむ。その毬栗頭の上に、義理の父娘になったばかりのふたりの会話が降り注ぐ。
「しかし馨、お前に狼藉を働いたのは、たしかにこいつなんだろう?」
「はい、お父さま。それは間違いありません」
馨の声はなおもころころと鈴のように鳴る。
こんな場面でなければ、いつまでも聞き惚れていたい声音だ。良太郎はずきずきと軋む身体を少しずつ持ち上げながら、そんなことを思った。我ながら呑気な考えだとはぼんやり思ったが、それほどまでに馨の唇から鳴る音はどこかそそるものがある。あの艶やかな肌と同じように。
そんな良太郎の思考を妨げるように降ってきたのは、健三の言葉だ。彼は己が痛めつけたばかりの少年を忌々しげに見据えながら、語を放つ。
「だったら、このくらいで許してやるわけはいかんよ。お前はもう俺の娘であり、まだ九才とはいえ、この小野寺家の立派な女だ。それをたかが使用人の息子に好きにされたとなっては、なによりも俺の怒りが収まらん。それに俺は、こいつの目つきが前から気に入らなかったんだ」
そして健三は良太郎に怒りの唾を吐いた。
「この、恩知らずが……誰のおかげで高等小学校にまで行かせてもらえたと思っている!」
「……恩……」
良太郎はちいさく語を零した。
ついで、眉がぴくり、と跳ね上がり、鋭い眼差しが健三を捉える。
そうして数瞬ののち、長らく幼い心に沈めていた憤りがついに爆ぜた。
「あんただって……」
「なに?」
「あんただって、母さんに同じようなことしたじゃないか!」
瞬間、健三の顔色がさらに赤く上気する。そうとなってしまえば、良太郎の頬を彼の平手打ちが再度見舞うのは当然の成り行きだった。
「生意気言うな! 何様のつもりだ!」
怒号が炸裂すると同時に、何度目かももうわからぬ激痛が良太郎の頬を襲った。
またも畳に転がされ嬲られる良太郎の視界の隅に、騒ぎを聞いて駆けつけてきた若い女が映る。そしてその女が、なおも正座したままそこにいる馨の手を引くのが見えた。
「馨……もう、こちらに来なさい!」
声に応じて、馨が立ち上がる。
そのとき、良太郎は、思わず目を見開いた。
馨の所作は、流れるような、澱みのない滑らかさだった。
そして馨は母に連れられ、その場を去っていく。
足を引きずることもない、しっかりとした足取りで。
――違う……。
その一瞬、良太郎は健三の殴打から意識を離し、震えた。
――違う、俺がさっき会った女は、こいつじゃない……!
「お前……!」
良太郎は馨に向かって叫んだ。だがその声はまたも降り注ぐ健三の拳にあっけなく遮られる。
部屋を去り行く寸前、馨は振り向きざまに、義父になったばかりの男の暴力に晒される良太郎を見る。
そして彼女は、にこりと、切れ長の目を細め笑った。
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