第一話 昭和七年 ~邂逅と衝動~

《1》-1 *

 四月の梨畑の空に、万国旗と紅白の幕が躍る。


 梨の花の白と茂りはじめた葉の緑、そしてはるか遠くに見える澄んだ空の青の彩りが目に眩しい春の日のことだ。


 南埼玉郡に位置する花沼かぬま村は、今日、年に一度の花見会の日を迎えていた。花見会は、梨の花が花開くこの季節に、大々的に行われる。人工受粉が広まっていない昭和初期ならではの、梨農家に春を告げる風物詩であり、準備と後片付けを含めば三日は要する、いわば「まつり」でもあった。


 梨畑の入り口には梨籠に杉の葉をあしらった凱旋門がこの日のために作られている。その下を招待された花見客が続々と潜っていく。客は、役場の者から、市場関係者、さらには肥料商や薬品問屋の人間まで及び、実に多彩な顔ぶれだ。彼らを出迎える主人の健三と組合の者たちは、揃いの手拭いに半纏姿といったいでたちといった張り切りぶりである。


 そんな男たちの賑々しい挨拶の様子は、屋敷の飯場で忙しなく過ごす女たちの耳まで届く。彼女らはたすき姿で酒宴の用意に勤しみながら、噂話に花を咲かせていた。その話題は、健三が近々娶る予定だという後妻についてのこと、他ならない。


 女たちは賑やかに唾を飛ばす。


「なんでも昨年の花見会に来た芸者の紹介らしいじゃないか。どんな女なのやらね。旦那さまももの好きなことだわ」

「祝言は今年の出荷がすべて終わった冬にするとのことだけど、まあ、急には違いないね」

「せめてうちら梨農家に役立つ嫁ならいいけどね。たかさん、あんたも難儀なことだ」


 そのうちのひとりが、急に話を釜の前にかがみ込んでいたひとりの女に話を振った。

 たかと呼ばれた女は、釜の火から目を離すことなく、ぼそりと呟く。


「……いいんです、私は」


 すると、たかのちいさな声に周りの女たちがうんうん、と頷きあった。


「そりゃそうさね、これで旦那さまも、たかさんに見境なく手を出すこともなくなるだろうしね」

「ほんと、たかさん、気に入られていたから」

「やめてください。子どもの前です」


 たかの語気強めの声に、飯場にいた女たちの目が一斉に戸口へと向いた。次の瞬間、女たちの視界に扉に半分身を隠すように一連の作業を覗いていた良太郎の姿が飛び込んでくる。


「おや、良ちゃん。いつからそこにいたんだい。盗み聞きなんてあんたみたいな子どものすることじゃないよ」

「……」


 良太郎はなにも答えなかった。なおも忙しげな母の姿を一瞥したあと、ぎらりと年に似合わぬ鋭い目つきで飯場の女達を睨みつけると、毬栗頭を翻してその場から駆け去っていく。


「なんだい、なんだい。あの子は」


 女のひとりが呆れたように語を発した。


「良ちゃんは高等小学校での成績はいいと聞くし、なかなかの男前だというのに、あの目つきだけはなんとかならないのかねぇ」

「そうねぇ、なんというかあれは、見る者の胸を抉る鋭さだよ。まるで鉈で斬りつけられるみたいだわ」


 女たちが眉をへの字に曲げながらざわめくなか、たかはなにも言わずに炊事に没頭し、我が子への悪口をやり過ごしている。その目はあいも変わらず、ちょろちょろと燃える炎を見つめたままだ。


 外の喧騒はますます賑やかに、春の風に乗って屋敷中を包み込んでいる。



 良太郎は村の畦道をひた走りに走っていた。


 やがて畦道は村境の堤防に達し、終わりを迎える。良太郎はその勢いを変えることなくひと息に堤を駆け上る。そして、河原へと下る。水の流れがよく見える川辺まで辿り着いところで、良太郎はやっと足を止めた。


 春の陽は荒川の水にさんさんと差し、きらりきらりと水面に跳ねている。良太郎は息を弾ませながら、その光景を眺める。


 心が落ち着くまで、ただただ、眺め続ける。飯場の女たちの噂話、それに背を向け働く母の横顔。

 それに比較して、梨畑に翻る万国旗のなんと華々しいことか。そしてその下で特別な一日を過ごす男たちの晴れやかさといったら。

 良太郎にはそれが無性に恨めしかった。


 そのとめどもない思考が遮られたのは、背後に人の気配を感じたからだ。


 見たことのない着物姿の女児が、春の河原に佇んでいた。表情がよく見えぬので、年齢はよく分からなかったが、良太郎より幼いのは確かだ。背の高さから推測するに、おそらく十才くらいであろうか。


 川を渡る風がざわめき、女児の髪がふわり、となびく。結びもしていない黒髪は、腰近くまでの長さがあり、どこか艶めかしくさえある。

 良太郎は急に目の前に現れた見知らぬ女児に、数瞬の間目を奪われていたが、そのままやり過ごすのもどうかと思い直し、ひとまず女児にゆっくりと問いかけた。


「誰だ? お前」


 対して女児は、なにも答えようとしない。少し笑うように唇を震わせたのが見えただけである。いや、怯えているのかも知れない。

 川のせせらぎを耳にしながら、良太郎は思う。


 ――さては、俺の目つきが険しすぎだのだろうか。いつも皆に言われることだが、こればっかりは直しようがないんだよな。


 そんなわけで、どうすればこの女児の緊張が解けるような笑顔を作れるか、良太郎にはわからない。なので彼は、せめてものの心遣いと、齢十三にしては高い背を折り曲げて、目線を女児の顔の高さまで下ろす。


「見たことない女だなぁ、この村では」


 腰を屈めたものだから、これまでよりもよりはっきり、女児の顔が目に飛び込んできた。良太郎はその風貌を見て、ほう、と思わず息をつく。


 ――えらく、整った顔立ちだな。鼻筋はすっと伸びやかだし、目は切れ長ながらも、くっきりとした黒目が目を引く。こりゃ、大人になったらえらい美人になるんじゃないだろうか。


 良太郎は女児の顔をしげしげと見つめる。すると、その視線に恐怖を感じたのか、女児が今度は肩をびくっ、と震わせた。そして、なにも口にせぬまま、良太郎に背を向けようとする。


 その挙動は、精一杯気を遣ったつもりの良太郎の癪に障るものだった。


「おい! 無視するなよ!」


 ときた良太郎は思わず女児の着物の袖を掴む。途端に絣模様の綿の生地がはらり、と捲れ、細い腕が露わになった。


 その腕は、皮を剥いた梨を思い起こさせる白さだった。


 良太郎は咄嗟にこみ上げた唾を飲み込む。喉が鳴る。艶やかな黒髪を見た後の目には、果肉のようになめらかな肌がやけに眩しく映った。


 そのとき。

 どくん。

 心の臓の奥で、見知らぬ衝動が脈打った。良太郎の体内で、抗い難い欲望が疼いた。

 どくん、どくん。どくん。

 そして、以来、幼い脳内で幾度も繰り返した呪文が、不意に心中に甦る。

 

 ――ああ、そうだ。あれもこんな陽の眩しい日のことだったではないだろうか。もっとも、あれは夏のことだけれど。

 

 男は、つよい。

 おとなはつよい。

 おとなの男は、いちばんつよい。

 おとなでも女は、よわい。

 男でも子どもは、よわい。


 ――では。

 ――では、女の子どもは、どうなのか――?


 次の瞬間、良太郎は衝動のままに女児のちいさな身体を河原に倒していた。声も上げずに、女児が石ころの上にあっさりと転がる。まるで人形を転がすような容易さだな、と良太郎は意識の向こう側で思った。


 女児の長い髪がばさ、と小石に絡んで散らばった。続いて、乱れた黒髪の隙間から、切れ長の黒い目が覗く。その双眼はまっすぐに、自分の上にのしかかった良太郎の顔を凝視している。ふたりの視線が絡み合う。


 河原に座り込んだ良太郎は自分のしていることを一瞬忘れて、背筋をぞわり、とさせた。


 女児の瞳は感情というものを感じさせない静謐さに満ちていた。そこからは抗議や恥辱の色は見えない。ただ、静かに、良太郎の顔を舐めるように見つめていた。


 ――まるで、暗い水の底に、見る者を引きずり込むような目を、してる。


 川の水の音が遠くに聞こえる。


「うわっ!」


 唐突に、身体の中央から脳髄へと激痛が走って、良太郎は女児の上で身をのけぞらせた。


 女児がいきなり左膝を振り上げ、己の股間を鋭く蹴ったのだ、と気付いた次の瞬間、またも良太郎は同じ部位に強烈な一撃を喰らう。その女児らしからぬ力強い蹴りに驚きつつ、良太郎は身体を河原に転がし悶絶した。すぐに立ち上がれぬほどの痛みが脳をかき乱す。それと同時に、どす黒い憤怒が心中で渦を巻いた。良太郎はのたうちまわりながらも、らんらんと瞳を怒らせて、女児を渾身の力で睨み付ける。


 しかし、良太郎は女児にその怒りをぶつけることは叶わなかった。なおも転がる良太郎に構うことなく、女児がすっ、と半身を起こしたのだ。そして、乱れたままの着物の裾はそのままに、近くにあった大きな石にに手を添えながら、ゆっくりとした動作で立ち上がる。


 その所作は、どこかぎごちない。

 良太郎には、まるで、転がるしかない自分を嘲笑っているのではないかと疑いたくなるほど、勿体ぶった仕草に思えた。それがまた、良太郎のはらわたを煮えくりかえさせる。


 だが結局、良太郎が立ち上がる前に、女児は石に縋りながら地に足を揃えると、またもゆっくりとした動きでその場を立ち去っていった。


 良太郎の視界からそろり、そろりと女児の背が消えていく。


 河原を歩く女児の足取りは最後までどことなく不自然だった。


 それが、右足をわずかに引きずる所作のせいだと気づいたのは、女児の姿が完全に堤の向こうに失せてからだった。

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