梨子割(なしわり)
つるよしの
序章 夏、梨畑にて
大正十五年(昭和元年)*
男は、つよい。
そう良太郎が学んだのは、白い袋を被った梨の実が風に揺れ、ざわわ、ざわめく晩夏のことだ。
所狭しと畑へ伸びた枝葉の隙間から零れる陽光が、きらりきらり、揺れる。
その様相はなにか、その場にそぐわぬ美しさだった。
ああ、そうだ、去りゆく夏を惜しんで鳴く、忙しない蝉の声も実に賑やかだった。
良太郎はあとになってそのときのことを思い返すたびにそう思う。
「悔しいか?」
じりじりと梨畑に夏の陽が照りつける午後だった。喧噪のなか、白いひかりを背に立つ男は、もう一度、地べたに仰向けになった良太郎へと、ゆっくり、そう、問うた。
「悔しいのだろう? いかにもそう言いたげな目をしているぞ、いまのお前は」
良太郎からは、男の表情は逆光で見えない。よってその顔つきは、幼い頭なりに想像するしかなかった。
――だけど、きっと、笑っているのだろうな。
良太郎は男に突き飛ばされた痛みが疼く脳内で、ぼんやりとそう思ったのだ。そして、自分に向けられた笑みは、きっと親しみよりも嘲りを露わにしたものなのだろう。それはまだ七才になったばかりの子どもにも、予測のつくことだった。
背後で、女の啜り泣く声がした。泣きながらも、片手を差し伸べて、土に寝そべったままの良太郎を引き起こそうとしている気配を感じ取る。もう片方の手はおそらく、捲れた着物の裾を直すのに忙しいのだろう。
「良太郎、謝りなさい。さあ、起き上がって。さあ」
涙混じりのそんな声が鼓膜を打った。か細く掠れた声音だった。
それを聞いて、良太郎は思ったのだ。
――女とは、よわい生き物なんだな。母さん、まるで犬みたいに四つん這いにさせられて、あんなにも嫌そうな声を上げていたのに、逃げもしなかったし、なんなら、僕にあの男へ謝らせようとする。めそめそと泣きさえする。そうだ、女はよわい。それに対して――。
そこまで考えたとき、男の身体がゆらりと前のめりに蠢いた。そうして、太い腕が、良太郎の首元にいきなり伸び、次の瞬間にはシャツの襟を、ぐいと掴んで引き寄せる。抗いようのない力で。
だから良太郎は、次にはこう考えたのだった。ごくごく流れるように自然に。
――対して、男は、つよい。
おとなはつよい。
おとなの男は、いちばんつよい。
おとなでも女は、よわい。
男でも子どもは、よわい――。
そのとき、その思考は、ぱっきりと梨を刃物でまっぷたつに割ったときの様な、鮮やかさとわかりやすさで、良太郎の脳髄に染みこんだのだった。割れた果肉から滴り落ちる果汁のように、じわじわと。
そして、みずみずしいほどに、甘美に。
「いい目つきだ。良太郎、その目を忘れるなよ」
すぐ目前で、なおも良太郎のシャツを鷲掴みにした男が、にやり、と笑った。それから男はゆっくり襟から手を離すと、ポケットを探りながら一本の梨の木に歩み寄る。
ざくり、と音がした。男がポケットから取り出したナイフを枝に差し伸べるや、白い袋を被った果実をひとつ、無造作にもぎ取ったのだ。そしてなんの躊躇いも見せぬ所作で、男は手中の梨の袋をびりびりと破り捨て、地面へと放り投げる。そして、姿を現したまんまるの大きな梨の皮を、慣れた手つきで剥く。
みるみるうちに梨は艶やかな中身を露わにした。
男の足元にいまだへたり込んだままの良太郎の鼻腔は、狂わしいほどにあまい芳香に擽られた。そしてそれがより強さを増す。男が、いまや丸裸にされた梨の実を、良太郎の鼻先に差しだしたのであった。良太郎はなにも言わず、それを受け取った。そして、口に運ぶ。
途端に果汁がじゅわっ、と口内を満たす。
それはそれまで食べてきたどの梨とも異なる、極上の味わいだった。気が付けば、良太郎は無我夢中で男が与えた梨に食らいついていた。唇からしたたり落ちる汁を拭いもせずに。
夏のひかりのもと、男は、そんな良太郎を満足そうに見つめながら語を紡ぐ。
「美味いだろう。その長十郎はな、贈答用なんだ。この畑のなかでも特別な梨だ。いわば、特別な誰のために作られた梨だ」
良太郎はそのときには梨を咀嚼するのに夢中で、男の言葉を脳内で反芻する余裕は失われていた。だけれど、直後、噛んで含めるように、こう自分に向かって言い放ったのは良太郎の記憶に深く刻まれた。
「誰かの特別を奪うということは、とてつもなく美味しいことなのだよ。だがしかし、それは本来、力ある者にしか味わえない味覚なのだがな。つまり、いまのお前には身に余る贅沢だ」
蝉の鳴き声が聞こえる。陽のひかりはなおも梨畑に降り注ぐ。
良太郎が梨の種を地面に吐き出したのを見計らって、ようやく着物の乱れを直し終えた母が良太郎の手を引く。
そうして梨畑を去ろうとした良太郎の背中を叩いた言葉もまた、忘れがたいものだった。
「良太郎。悔しいなら、強くなることだ」
良太郎は梨畑のなかを進む足を止めて、男の方を振り返る。
今度は男の表情がはっきり見えた。やはり、笑顔だった。しかし意外なことに、想像していた顔と違い、そのときの笑みはだいぶん柔和に良太郎には思えた。
自分を叱咤激励しているようにさえ感じた。
「お前はこの神国日本、そして男に生まれてきたという時点で大分優位に立っているんだ。ならそれを十二分に生かせ。それでこそ日本男子というものだ」
男はそう言い終わると、身を翻し、梨畑の奥に姿を消していった。あとに残された良太郎には、蝉の音だけがやたらと響き渡る。
――俺はあのとき以上に美味い梨をいまだ食べたことがない。
ことあるごとに、あの晩夏を思い起こす。そして、考える。
あの背徳的にまで甘い果汁を啜ったとき、俺のなかになにが産まれ落ちたのかを。
男は、つよい。
おとなはつよい。
おとなの男は、いちばんつよい。
おとなでも女は、よわい。
男でも子どもは、よわい。
――では――?
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