チョコレートのような幻想

普遍物人

チョコレートのような幻想

「これ、バレンタイン。」

 バレンタインのこの時期は、チョコレートを放置するにはもってこいの気温である。彼のお墓に備えたのは、彼の好きな、好きだった少し甘めのチョコレートであった。

「今年も、食べてね。」

 毎年、彼のお墓に誰も食べないはずのチョコレートを供えると、次の日には消えている。そういう類のものは信じない性分であっても、私としてはこれを彼が食べたと思わないわけには行かなかった。毎年のささやかな楽しみ、彼がいなくなっても彼がいると信じることができる、そんな希望を見出せるのが私のバレンタインだった。

 今でこそ、彼の死を嘆く時間は少なくなった。10年前、出会って15年、結婚してから7年、彼は交通事故で亡くなった。何か大きなことができるわけでもない。何かカリスマ性を持っているわけでもない。すごく優しいわけでもなければ、特に顔がいいわけでもない彼は、その通り、普通の人間だった。交通事故という亡くなり方と彼の性格を今思えば確かに、病床に伏す彼を想像するのは難しい気もした。

 納得したわけではない。私はそんな普通な彼の頼りなさそうな笑顔がちょっと恋しかったりもする。何より彼は飲酒運転の自動車に轢かれたものだから、なんとなく不憫だなぁなんて思っている。でもそこまでも彼らしいと思う。

 そんなことを思っていると、目前に佇む彼が困ったように笑うのが見える。

 あぁ、今年も食べてくれるんだなぁ。そう思って私はその墓を数秒間ぼんやり見つめた後、その場を後にした。


 次の日、会社を早めに切り上げて、私は彼のお墓に向かった。決して近くはないその墓地にインドアな私がこうして毎日足を運ぶのはきっとそこに自分の生きる理由があるからなんだと、そう感じている。


 私はその光景に驚愕した。

 見たことない薄汚い後ろ姿。私にならわかる。あれは彼の親戚の誰でもなければ、勿論、彼でもない。恐る恐る近づき後ろから様子を伺う。その後ろ姿がしていることはなんなのか。私には分からなくなった。すると突然、その後ろ姿が立ち上がる。そして


くしゃり


と音を立てて手を握った。私は首筋から肩にかけて、何か冷たいものが通り過ぎた気がした。その薄汚い後ろ姿は、そのままお墓から立ち去り、とうとう見えなくなってしまった。


 私は暫く呆然とその様子を見て、そしてついにお気に入りの手提げバックを落とした。寒さで震えた足、いや、これは恐怖によるものか、何にせよ、覚束ない足取りで彼のお墓に急ぐ。彼のお墓を直視できなくて、思わず俯きながら彼のお墓に近づく。


 彼のお墓の側に辿り着いた後、僅かな希望を託して私は彼のお墓を直視した。


 チョコレートは消えていた。

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チョコレートのような幻想 普遍物人 @huhenmonohito

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