後ろの正面の、その後ろ

黒羽椿

後ろの正面の、その後ろ

 自動車には必ず付いているバックミラーの中。仕事中の目の端っこ。洗面所で明かりを付けた瞬間。これらは全て、アレが見えた時のことだ。


 アレは、確実に居る。そして、着実に近づいてきている。その事実がまた、私を恐怖させるのだ。


 妄想か、現実か。それすらも分からない。しかし、妄想の産物だとしても、アレは確かに存在している。気付いたのは最近だが、思い出せば昔からアレは居たような気がする。


 そうだ。アレは、何年も掛けて距離を詰めてきたのだ。きっと、私が産まれた時からずっと居た。ただ、そこに居ただけなのだ。


 私をずっと見ていた。この世のどんな存在よりも、私を見ていたのだ。ずっと、後ろから。


 気づかなければ良かった。ただの勘違いだと、今までの様に見逃せば良かった。もしかしたら、アレは気づいた瞬間に距離を詰めてくるのかもしれない。


 その存在を知らなければ、分からなければ、アレはそのまま私の後ろに居たかもしれない。けれど、知ってしまった。だから、近づいてくる。恐らく、そういった類いの存在なのだ。


 真偽はどちらでも良い。もう私には関係の無い話だ。日に日にアレが見える頻度が増えていく毎日に、私は耐えられそうにない。そろそろ、終わらせるつもりだ。


 願わくば、アレが私の妄想であって欲しい。私の気が狂っているだけであれば、被害者は私一人だけだ。


 ――――、こんな私を許してくれ。


  ーーーーーーーーーーーーーーー


 父が死んだ。死因は餓死だ。きっと苦しかったろうに、何故か僕にはその顔が安らかに見えた。


 棺の中に収まるその顔は、父のものとは思えないほど骨張っていた。けれど、最近の父と比べたら遙かにマシに思えてしまう。それほどまでに、近頃の父はおかしくなってしまった。


 仕事を辞め、毎日部屋に引きこもり、時折人間から吐き出されたとは思えない悲鳴を上げ、何かに怯えていた。父はその何かを、アレ、と呼んでいた。曰く、アレが自分の方にじりじりと近づいてくるのだと。


 そんなものは居ない、と否定するのは簡単だ。でも、現に父は僕には見えない何かに怯え、そして死を選んだ。だから、きっとアレと呼ばれたものは存在しているのだ。


 僕は父に何もしてやれなかった。弱っていく父を見ていただけだった。そのせいか、死んでいる父を見つけたときに思ったことは、悲しみよりも先に安堵の感情だった。


 もう、これ以上父は苦しまない。これ以上、僕も父に対して無力感を感じる必要もなくなる。アレを、もう気にしなくて良い。


 父が毎日の様にアレが居る、と言い続けるせいだろう。僕も、気を病んでしまったらしい。だって、そうだろう。アレは、父の妄想の産物なのだから。


 人気の無い道を通る時。誰も居ない静かな家で食事しているとき。モニターが一瞬、暗くなったとき。何でも無いその刹那に、黒い影が映るのだ。父が言っていた、アレの様に。


 アレが見え始めたのはいつ頃だろう。確か、葬儀が済ませた後、父の遺品整理をしていた時だったはずだ。父の手記を、見つけたのだ。


 仕事の予定や取引先であろう電話番号、売上らしき数字が書き込まれていた手帳は、いつからか字が歪み、見ていると不安になってくる代物になっていた。


 内容は支離滅裂なものから、父が好きだった初志貫徹という言葉を所狭しと書き込んだものまで色々だ。最後のページだけは文章として読めるもので、アレに関することと僕に対する謝罪が書かれていた。


 あぁそうだ。あんなものを読んでしまったからだ。アレが、ずっと後ろで父を見ている様子を、少しでも考えてしまったからだ。


 アレは、後ろでずっと見ている。それは恐らく、誰かが産まれた時から。


 アレは、その姿を直視できない。何故なら、それはずっと後ろに居るから。だから、普段は気付かない。


 アレは、時々その姿を見せてくる。でも、一瞬だけだ。普通は見間違えだとスルーしてしまう。現に、僕も父もずっとそうしてきた。


 一度アレに気付いてしまえば、それで終わりだ。アレは少しづつ距離を詰めてくる。アレは大胆に現れる様になってくる。その内、後ろにその存在がはっきりと分かるまでになってくる。


 そうだそうだ。アレは確かに居る。僕の妄想なんかじゃなかった。ただ、その存在を認識出来ていなかっただけのことだ。きっと、皆がアレを知らないだけなのだ。気付いたとしても、アレを知らない人からすれば狂言に聞こえるのだろう。だからだ。僕も父のことをおかしくなってしまったと言って、父を精神病扱いしていた。違う違う。そうじゃなくて、アレは居るのだ。誰の後ろにも、きっと居る。呪いや怨霊なんて安っぽいフィクションなんかよりも恐ろしいものは、身近に潜んでいた。この世に生を受けた瞬間から、アレは後ろに居る。それを知らないから、人間は呑気に暮らすことが出来る。世間一般で異常者と蔑まれている人は、そのことに気付いてしまった人たちだ。人間は、アレに気付いた瞬間、普通に生きることが出来なくなってしまう。だって、そうだろう? 言うなれば、アレは不定形の暗闇だ。光を通さず、反射もせず、ただ真っ黒な深淵だ。そんなものが、後ろでこちらをずっと見ている。見ていることに気付けば、アレは近づいてくる。じりじり、じりじりと、昏く淀んだ息を吐きながらこちらに来る。人間はアレに勝てない。その存在を自分しか認識できないのに、それはずっと後ろにへばり付いてくるのだ。カメラにも鏡にもそれは映らない。自分の瞳の中にしか、アレは映らない。なのに、人間には死角がある。アレは背中に居るのでは無く、後ろに居るのだ。後ろを向けば、また後ろが出来る。そうやって後ろを移動しつづけるアレを、人間は永久に観測出来ない。観測出来ない以上、アレに触れることも出来ない。そんな不確かな存在が、けれど確かに後ろ側に居る。それがどれだけ恐ろしいことか。これはきっと、アレを知ってしまった人以外には到底分からない恐怖に違いない。


 「っ……!?」


 はじかれた様に立ち上がる。僕の手元には、僕が書いたのだと思われる怪文書が佇んでいた。僕は、指が勝手に震えるほど、一心不乱にこれを書いたのか?


 「痛っ……」


 頭が割れそうなほど痛む。僕は、おかしくなってしまったようだ。だとすれば、父と同じように僕もアレに殺されるのか?


 「はっ……! はっ……!」


 嫌だ。僕は死にたくない。死ぬにしたって、苦しみたくはない。父の様な餓死なんてきっと苦しい。自殺の方法としては最低だ。もっと楽な方法があるはずだ。


 どうすれば良い? どうすれば、僕は助かる? 僕は、どうやったら救われる?


 「……父さんは、救われたのか?」


 ふと、そんなことを思った。父は安らかな死に顔をしていた。まるで安心しきったかの様に、その生涯を終えていた。父だって、今の僕と同じように背後からアレの気配を感じ取っていただろうに。


 「あぁ……そっか。そういうこと、なんだ」


 そうして分かった。父がどうしてあんな風に死んだのか。それはきっと、父の元にもうアレは居なかったからだ。それは、どうしてか。


 僕は、父さんからアレの存在を教えられた。後ろに居て、こちらを見てくるアレの情景を、毎日のように聞かされていた。


 後ろにいるアレの存在を、僕は知ってしまった。僕が想像したのは、父の後ろに居る黒い影だ。それはきっと、父のアレに違いない。僕のでは、無かった。


 そして今、父は死んだ。アレは、その存在に気付いた者に近づいてくる。


 だとすると、父のアレは、今どこに居る? 消えていなくなったのか? それとも――


 「だから、許してくれ、か……! 許せるわけ、ないだろっ……!」


 僕の後ろに居るのは、父の後ろに居た奴だ。一体、アレは何人居るんだ? いや、もうそんなことはどうでも良いか。何人居ようと、アレは気付かない限りは無害だ。だからこそ、日常の中で自分のことを気付かせようとしてくる。


 アレはそういう存在なのだ。認識は出来なくても、誰かに押しつけることは出来る。もしかしたら父も、誰かに押しつけられたのかもしれない。


 僕がすべきことは、アレの存在を誰かに教えること。僕の後ろに居るアレでも、他の誰かの後ろに居るアレでも良い。ほんの少しでも居るかもしれないと思わせることが出来れば、それで終わりだ。


 僕は先ほど自分が書いた怪文書をスマホに書き出した。ついでに、父の物も書き出しておく。覚えている限りの状況と、今の僕の心境を綴って、文章にしておく。


 場所はどこでも良い。誰か一人でも読まれれば、それで良い。そいつの元にアレが行けば、もっと良い。


 さぁ、後ろを見よう。そしてその後ろを想像しよう。何が、居る?


 それはきっと、あなたが産まれた時から傍に居たアレだ。もしかしたら、僕のアレかもしれないけれど。


 それはずっとこちらを見ている。あなたが気付くのを待っている。


 そして今、あなたは僕のアレを知った。


 どうか許して欲しい。僕はあなたを恨んではいない。ただ、アレを知ってもらっただけだ。


 大丈夫。見知らぬ振りを続ければ良い。今まで通りに。これまでと変わらずに。それを死ぬまで続ければ良い。アレを、意識しない様に。


 アレがあなたのもとに居ないことを、心より願っています。


 それでは、お気を付けて。さようなら。

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