昨日借りて帰ったと思われるファンタジー小説から目を上げて、真柴くんが私を見た。その視線が流れるように彼の腕時計に落ちて、囁き声で私に言った。


「午後四時三十五分……。そろそろ始めましょうか」

「うん」


 彼の手が122ページ目を開く。昨日同様に、図書室の床に本を開いた状態で置いて、私たちはその側に腰をおろした。


 私も彼も何も言葉を発しなかった。ただ問題のページを眺めて、そこに綴られた文章を一心に読み込んでいた。


 火を吹くドラゴンについて書かれていた。主人公と思われる青年とドラゴンのやり取りが詳細に綴られており、その様子が情景として頭に浮かんだ。それ以外の登場人物は全く出てきていない。


 しんと静まり返った図書室で、時計の秒針だけが私たちのを埋めた。五分経ち、十分が経ち、昨日時計を確認した四時四十八分を過ぎ去った。


 結果として、本は本のままで何も起こらなかった。


「もしかしたら、一人じゃないと駄目なのかも」


 ポツリと呟いた私を見て、真柴くんが「かもしれませんね」と相槌を打った。


「またがっかりしてます?」


 肩を落とした私を、真柴くんの笑顔が慰めてくれる。


「そうだね。ちょっとは落ち込んでる。でも、ファンタジーな現象になんてそうそう出くわすものでもないから」


 開いた本を手に取り、私はページを閉じた。


「ところであん子先輩」と真柴くんが本棚を背にして座ったまま、真剣な表情で言った。


「昨日この図書室が光った件なんですけど。俺なりに調べてみたんです。ちょっとこのサイトを見てもらえますか?」


 言いながら彼がポケットから取り出したのは彼の青いスマホだ。


「"うたた寝で突然ビクッとなるジャーキングの原因"……?」


 受け取ったスマホの画面にはそうタイトル付けがされていて、つらつらと説明文が並んでいた。


 指でスクロールしながら文章を読み込むと、昨日私自身が体験したようなことーーたとえば睡眠不足でついうたた寝をしてしまい、突然体がひきつけのように震えて飛び起きる、という内容がわかりやすく書かれていた。


 このジャーキングという現象は眠りに入るときに起こる筋肉の痙攣けいれんだそうで、脳が誤作動を起こしてなることや、まれにフラッシュのような閃光を感じて目を覚ますこともあるそうだ。不自然な寝方をすると起こりやすい、とも書いていた。


「室内が光ったと言う先輩の考えを否定したいわけじゃないんです。俺もあの時間、同じ場所にいたから言えるんですけど。実は何かが光るような現象は起こってなくて……」

「……そんな」


 ということは、つまり。


「本が光ったんでも、この図書室が光ったんでもなくて。ただ私の脳が無意識に光を感じただけってこと……?」

「おそらくは」


 それまで見ていたスマホの画面を閉じて、無言で真柴くんに返した。


 私が体験したのは単なる生理現象の一つで、勘違いと思い込みから生まれた異世界への扉は、実際のところ無かったということだ。


「ハァ、がっかりしたよ。思いっきり」


 座り込んだままで立ち上がる気力すらわかない。「すみません」と真柴くんが謝るので、ううん、と言って首を横に振った。


「謝らないで。真柴くんは正しいことを教えてくれただけだから」


 そう言って半ば自分に呆れて笑みをもらすと、真柴くんは困った顔で曖昧に頷いた。


「でもよく知ってたね、そのジャーキングとかいうの」

「前にテレビか何かで観たことがあったんで」

「そっか」


 スクっと立ち上がった真柴くんに「はい」と手を差し出されるので、特別断る理由もなく彼の手を取った。大きくて骨っぽい、男子の手だ。


 そう思うと変に緊張して、汗をかいてしまう。不規則になった心音にも気付かぬふりでやり過ごした。


「自分が体験したこと、無駄だとか思ってます?」

「……うん。思いっきり」


 そうかなぁ、と続け、真柴くんがふわりと微笑んだ。


「将来の夢のために、ネタが一つ増えたと思えばラッキーですよ」

「でも、つまらないわよ。ファンタジーなことが起こったと思ったのに、実際はこんな……現実的なオチ」

「そうですか? たとえ現実的な現象であっても、俺は夢のある発想ができるのはいいことだと思いますけど」

「そう?」

「あん子先輩にしかできないことです」


 私にしか、できないこと……?


 馬鹿な思い込みや勘違いを、ここまでプラスに受け止めてくれる彼は、やはり優しくて心が綺麗な人だ。


「ありがとう……」


 普通だったら呆れられるような行動を起こす私を、真柴くんは笑わない。


 結局、問題となったファンタジー小説は真柴くんが娯楽として読むために再度持ち帰ることになった。


「ねぇ、真柴くん」


 夕暮れ時の帰り道で、まっすぐ帰宅する私と彼は、当然下校も同じくしている。


「さっきのことで。ひとつだけモヤモヤすることがあるんだけど」

「なんですか?」


 隣りに並んだ彼が私を見て首を傾げた。


「この本。床に開いたまま落ちていたでしょ? いったい誰が読んでいたのかなって」


 真柴くんは夕方と夜の境目の空を見上げ、「ああ、なるほど」と相槌を打った。


「多分、なんですけど」

「うん」

「それを読んでいた人は、慌てて本棚に仕舞わないといけない事情があって……結果、本が落ちて開いただけかもしれないっスよね」

「うーん……?」


 なんとなく腑に落ちない。


 真柴くんも昨日図書室にいて、私が気絶したと思って声を掛けてくれたみたいだけど……。


 そもそも真柴くんはどこから私を見ていたんだろう?


「……まぁ、いっか」


 いつの間にか太陽が沈み、遥か遠くにそびえる山や建物の外観が、真っ黒に染まって見えた。空が薄紫色の淡い色彩に包まれる。


 黄昏時であり、マジックアワーとも呼ばれている。それから逢魔が時とも。


「ねぇ。今の時間帯ってさ、逢魔が時とも言うでしょ? もし魔物に遭遇したら、真柴くんならどうする?」


 彼はキョトンと目を瞬き、「決まってますよ」と答えた。


「あん子先輩の手を引いて全力で逃げます」


 当然でしょ、と言いたげな笑みを見て、心臓の奥に甘い痛みが走った。


 〈了〉


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変身猫とショートケーキの彼 真ケ部 まのん @haruhi516

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