第5話 さよなら、またね

 入り口の自動ドアががたり、と音を立てて開く。ドアの開閉によって一瞬、まだ夏の気配を孕んだ湿った九月の風がふわりと吹き込んできた。


「ああ、よかった! やっぱりここにいた!」


 そう言ったのは俺より少し年下だろうか、二十代後半と思われる一人の女性だった。肩までの髪。小柄で色白。通勤時、駅ですれ違ってもまず記憶に残らないだろうと感じさせる、ごくごく普通の女性に見える。だが、今の彼女の服装ならまず忘れまい、と俺は思った。

 紺の地に真っ赤な金魚が何匹も大きくプリントされたシャツワンピース。

 なかなか着るのに勇気のいるファッションだ。


 なんてことを考えている俺の方へ彼女はすたすたと歩いてくると、ベンチの上にいる彼をひょい、と掬い上げた。ごくごく自然な手つきと共に、『ああ、よかった。忘れていってごめんね、すいすい』という声が聞こえた。


 目の前の彼女からの声だった。


「その子の、彼女さん、ですか」

「え?」


 考えなしに問いかけてから、しまった、と俺は焦る。すいすいも言っていたではないか。自称彼氏だと。だとしたら今のはかなりやばい質問だ。

 あたふたしている俺の視線の先、すいすいもなんだかそわそわして見える。やっちまったあ、と落ち込みつつ俺は耳を澄ませる。彼女から『なにこの男キモ』といった声が聞こえて来るのではないか、そう覚悟していたが、予想とは違い、彼女からはなにも聞こえてこない。ただわずかに驚いたような気配が伝わってくるばかりだ。

 ほっと安堵した俺の耳にそのとき、ふふふ、とかすかに笑い声が聞こえた。

 目を上げて驚く。彼女が肩を揺らして笑っていた。


「面白い質問ですね。もしかしてこの子がなにか言いましたか?」

「え、いや、それは」

「なんて。話せるわけありませんもんね」


 自分でした質問を自ら回収し、彼女はふっとため息を漏らす。と同時に、本当に話せたらいいのにね、という声が脳に伝わってきて俺は目を見張った。


『本当に話せたら、楽しいのにね』

『一人でも寂しいって思わずにいられるのに』


 話せますよ。本当は話していますよ。

 こいつも話したいと思ってますよ。


 思わずそう言いたくなった。だが俺がそう言ってしまうより早く、ふっと彼女が顔を上げた。


「そうですね、彼氏、ではないかもしれませんが、まあ……ナイトみたいなものでしょうか」

「ナイト」


 問い返すと、彼女はおっとりと笑いつつ頷いた。


「なんか、不思議なんです。夜にね、出かけようとすると鞄の中にいつの間にか入っていること多くて。今日もね、洗濯物の中に紛れて入ってて。気づかずに一緒に洗濯しそうになっちゃいました。けどそれってなんていうか」


 言いつつ、彼女はそうっとすいすいを撫でた。


「夜道危ないからついてきてくれてる、みたいな気もしてて。だからまあ、ナイト。……って、なに言ってるんでしょうね。私ってば。そんなことあるわけないのに」


 恥ずかしいな、と彼女は笑う。そのときちょうど背後でブザーが鳴った。彼女が使っていた洗濯機が、乾燥終了を伝えていた。


「あの」


 失礼します、と会釈をする彼女に思わず声をかけてしまった自分に自分自身驚愕する。だが、俺は黙っていられなかった。


 どうしても言いたかった。


「話せなくても、聞こえていると思いますよ。その子。だから」


 だからいっぱい話しかけてやってください。


 そう続けようと思った。その俺の耳に声が滑り込んで来た。


『知ってますよ』

「知ってますよ」


 心の声にかぶさるようにリアルの声音が耳の中へふわりと落ちる。彼女はちょっと笑うと、肩から提げた小さなバッグにすいすいをそうっと入れ、もう一度俺に頭を下げた。

 そのまま洗濯物を洗濯乾燥機から出す。ほかほかのそれを持参した袋に手早く詰め込んだ彼女は、三度俺に礼をし、すたすたと自動ドアへと向かう。


 あっさりと遠ざかっていく、金魚柄のワンピースの背中を、俺は呆然と見送る。

 その俺の耳にかすかな声が滑り込んできたのは、彼女が自動ドアをくぐったのと同時だった。


『また会おうな〜』


 すいすいの声だった。

 鞄の中にいる彼の顔を俺は見ることはできなかったし、それと同様に背中を向けている彼女にも俺の仕草は見えない。

 それでも俺は力強く頷いていた。


 また、会おう。

 会いたい。


 思いを込めて、頷いていた。


 次に会えるのは、彼女がまたすいすいを置き忘れてくれたときだろうか。

 その機会はなかなか訪れなさそうだ。彼女はすいすいをとても大切にしているようだから。

 でも、俺は待ちたい。

 彼女が再びすいすいを忘れてくれるその日を。

 

 忘れ物を待つ、なんておかしな話だ。


 でも俺は待とうと決めた。

 俺の心に風を入れてくれた、小さなあひるに再び会えるその日まで。

 だがそこでふと俺は気づく。

 彼女が先ほどまで使っていた洗濯乾燥機の下に白いなにかが落ちていた。まさか下着では、と冷や汗をかいたが、確認してみるとそれは下着ではなくハンカチだった。

 すいすいの彼女はどうやら慌て者のようだ。


「案外早く会えるかもしれないな、すいすい」


 俺は少し笑ってハンカチを拾い、片隅に金魚の刺繍が施されたそれを、入口に備え付けられていた忘れ物ボックスの中にそっと入れた。

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今夜はあひる日和 緒川ゆい @asakifuyu0625

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