第4話 気持ちのいいあひる
「コインランドリーってさ、なんていうか荒んだイメージなかった?」
「は?」
このあひるはなにを言い出したのだろう。わけがわからず振り返るが、あひるは相変わらずベンチに座ったまま、洗濯機の丸いガラスの向こう暴風に翻弄されるかのように回り続ける洗濯物を眺めているばかりだ。
なに? と問い返したが、あひるはその問いには答えることなく、淡々と言葉を継いだ。
「俺はね、あったの。佐和子がさ、銭湯の隣に住んでたことあってね。こっそり銭湯連れていってくれてさあ、そのときコインランドリーも見たの。ちょっと陰気で怖そうで佐和子一人じゃ行かせられねえなあ、なんて思ってたんだけど。だけどさ、最近のコインランドリーは違うのな。ここのコインランドリーもそうだけど明るいし、洗剤もさ、お花みたいな良い香りのあったりして女の子も入りやすくてさ」
あひるは滔々と語り続ける。俺は口を挟むタイミングを掴めぬまま、あひるの言葉に耳を傾けていた。
「イメージってさ、厄介だよね。人それぞれ違って、これが正しい!っていうのがない。もともと持っている知識だけで判断して自分勝手な印象を持っちゃう。けどそれが自分だけの感覚だってこと、なかなかわからない。特に俺は狭い世界しか知らないから」
「つまり……なにが言いたいの?」
「つまり」
あひるはそこでふっと息を吐いてからぼそりと言った。
「よく知らないくせにいろいろ言ってごめん」
潔く謝るあひるを俺はしげしげと見つめる。
俺は……自分の持っている力ゆえに正直、人間が苦手だ。そういう気質は相手にも伝わるもので、寄って来る人間も少ない。まあ、普段からうっかり心の声を聞いてしまわないよう俺が人と距離をおいているせいもあるが。
だからこんな風に正面から意見を戦わせることなんてまずない。
正面切って謝られることも。
「気持ちいいあひるだね、君は」
我知らず微笑みが口元に浮かぶ。あひるは丸くて大きな目をぽかりと開いてこちらを見つめている。
「君がなにかとかどうでも良くなってきた」
笑って言うと、あひるはしばらく言葉を探していたようだったが、ややあってくちばしを開いた。
「俺がなにかって俺も実はわかんない。ただ確かなのは俺を見つけてくれた佐和子が俺にとって特別だってことだけ。
佐和子はさ、すごく変わってて、おもちゃの俺のこと家族みたいに大事にしてくれるんだ。いつも名前を呼んでくれて、たくさん話もしてくれる。だから、俺がね、こうして喋れるのも多分、佐和子がそうやって接してくれてたからなんだろうなって思うんだ。
あんたの気持ちは俺にはわかんないよ。佐和子と一緒じゃない俺なんて想像できねーもん。俺はやっぱり一緒がいいもん。でもそうだな、俺はあんたと話してて楽しいなあって思った。ここであんたに会えてよかったなあって思ったよ」
「そんなに楽しい話はできていなかったと思うけど」
「楽しかったよ」
あひるは大きな黒い目をきらりと光らせて断言した。
「世界が広がるのは俺にとってとっても楽しいことなんだ。古い俺を脱皮して新しい俺になったみたいな感じでさ。アイムニューすいすい!」
じゃばり、と背後で音がする。洗濯機がすすぎを始めたらしい。音が変わったのを機にそちらを振り返って俺は嘆息する。
新しい俺。
そんなこと、まったく考えたことがなかった。
思えば自分は、身にまとった自分という殻を脱ぎ捨てることもできぬまま、縮こまってばかりいたような気がする。
ふいに聞こえてくる誰かの真実の声が怖いから。
聞きたくないから。
だから聞かずに済むように耳を塞いで。人を遠ざけて。
そのやり方が間違っていた、とは思っていない。自分を傷つけるかもしれないものにあえて立ち向かうことは決して正しいことではないからだ。
結局、俺は俺でしかなく、俺を守れるのも俺でしかないのだから。
ゆえに、あひるの言うように簡単に脱皮できるものでもない。
ただ……少し、少し思った。
脱皮はできなくても、ほんの少し、ほんの少し洗濯してやることはできるんじゃないかって。
脱皮して生まれ変わることはできなくても、今の自分に少しだけ、風を入れてやることはできるんじゃないかって。
ときどき。たとえばこんなふいの出会いによって。
「すいすい」
名前を呼ぶと、すいすいがちょっとびっくりしたような顔をした。いや、現実には表情は変わっていない。けれど俺の目には変わらないはずのその顔が驚いているものとして、はっきりと映っていた。
「ありがとう」
すいすいがなにかを答えようとする。その瞬間だった。
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