あなたの譲れないものは、なに?
緒川ゆい
第1話
細かな振動が心地よい。少し眠ってしまっていたようだ。
目覚めてまず窓の外を確認すると、背後へと流れていく景色はどれも真っ黒い闇に覆い隠されていた。ただ、道路の両脇に等間隔に並んだ街灯だけが、行き過ぎるたび、白々とした明かりを車内に投げかけては後方へと去っていく。
「すみません、寝てしまっていました」
体を縮めるようにして謝ると、運転席でハンドルを握った宮野まつりは横顔だけで微笑んだ。
「いいんですよ。蒸しパンダさん、お疲れみたいでしたし」
「すみません。昨日も徹夜だったもので」
頭を下げた俺に、まつりはやっぱり前方を向いたまま、すごいですね、と呟いた。
「蒸しパンダさんは、本当にいつも全力で。寝る間を惜しんで書いていて。尊敬します」
「それは俺がしがないフリーターだからですよ。夢中になれることがこれしかない。しかも一円にもならない読み物です。意味はない」
「そんなことはありません。だって、蒸しパンダさんの投稿があったから私たちは今、こうして一緒にいるわけですし」
この奇妙な旅を始めたきっかけを思い出し、俺は曖昧に笑う。
正直今でも、こうして彼女とリアルで会い、車であの場所へ行くことになったいきさつのスムーズさに、強い違和感を覚えてはいた。
彼女、宮野まつりと俺が出会ったのは、とある投稿サイト上だった。
小説家の卵が集まって、自由に小説を発表し、お互いにメッセージをやり取りすることができる、ただそれだけのシンプルな作りのサイトだ。
俺はこのサイトができた当時から投稿を続け、十年経った今もここに根を張っていた。古参の作家たちに、長老と呼ばれてすらいる。
が、別に長老と言われるほど俺はすごい物書きじゃない。ネットや書籍に溢れる怪談、都市伝説を探し、紹介文をつけて投稿する、ただそれだけの物書きだ。
怪談だって都市伝説だって世の中には星の数ほど転がっているからネタにはそれほど困らないと思っていた。だがさすがに十年毎日となるとネタ切れになることも増えてくる。
なんか聞いたことある、という都市伝説が実に多いからだ。
実際、フォロワーから、「蒸しパンダさん、この都市伝説の話、前も書いていませんでしたっけ?」などという嬉しくないツッコミも食らってしまっていた。
しかし一応、長老なんて呼ばれてきた自負だってある。一日一投稿のノルマを自ら下げるなんてプライドが許さない。
だから毎日毎日、必死で俺は画面に向かっていた。
ネットをくまなくさらい、本も死ぬほど読んだ。
けれど、どんなものだって無限じゃない。
ついに、からからに干からびた井戸よろしく、ネタがひとかけらもなくなった。
もう限界だ。悩みに悩んだ俺は、ついに今まで決してやらなかったことを、やった。
自分で都市伝説を作る、という禁忌を犯した。
少しだけリアル要素を、と実在の場所を織り交ぜつつも、残りはすべて嘘っぱちの話を作りあげ、それをサイトにアップした。
もちろん、小説サイトだ。すべて想像の物語を投稿することはなんのルール違反でもない。
だが、俺はプロフィールに書いていた。
「すべて実際に語り継がれている怪談、都市伝説です。筆者の創作ではありません」と。
この、筆者の創作ではない、という一言のおかげで俺のフォロワーが多いことは間違いなく、だから俺がやったことはそのフォロワーたちを欺くことだった。
つまらない長老のプライドを守るために、俺は俺の読者を裏切ったのだ。
即座に削除しようと思った。
だが、削除ボタンにカーソルを合わせたその瞬間、とあるユーザーからコメントが届いた。
そのユーザーが宮野まつりだった。
まつりからのコメントにはこう記されていた。
『この話、知っています。掛川市の無間の井戸の近くにある廃神社ですよね。これ私の知っている話と同じだと思います。やっぱり本当だったんですね。蒸しパンダさんからの情報で確信が持てました』
あり得なかった。
あるわけがないのだ。だって俺の勝手な創作なのだから。
確かに掛川市には無間の井戸と呼ばれる伝説の場所はある。
その伝説によると、遥か昔、この地には無間の鐘と呼ばれる、突けば永劫長者になれるという鐘があったそうだ。一方でその鐘は邪心を持って突くと地獄へ落ちるとされ、事実、何人もの者が不幸のどん底へ突き落されたという。結局鐘は井戸の底深くに沈められることとなり、現在は井戸としてはもちろん機能しておらず、小さな穴が祀られているだけとなった。が、今でもこの穴に願いをかけに来るものは後を絶たないと聞く。
そう。伝説は確かにある。けれど、俺が作ったような噂は存在しない。
そもそもだが、無間の井戸があるとされる阿波々神社の近くなどと俺は明記していない。たまたま掛川市に面白い伝説が多いと知っていたために、静岡県のK市にある廃神社と書いただけだ。
だが、まつりは俺の動揺をよそに俺にコメントを送り続けてきた。
『実際に行って儀式をしたことがあるって人の話、人づてに聞いたことあるんですけど、ふたりで行ってひとりは帰ってこられたけど、もうひとりは帰ってこられなかったみたいです。その違いがなんなのかって話で、蒸しパンダさんが書いていらっしゃった通り、絶対に譲れないものを偽らず答えた方は戻ってこられたし、会いたい人にも会えたけれど、嘘を伝えた方は戻れなかったとか』
『でもそれだけのリスクを冒す価値はあると思うんですよね。だってすでにこの世にはいない人であっても会いたい人にひとり、会えるんですもの』
『幻想的な赤い鳥居が連なって目の前に現れるって話も一緒でした。深夜なのに急にぱあっと明るくなるらしいです。ものすごく気になります』
そして、いくつかのコメントの後、まつりは俺にこう言った。
『行ってみませんか?』と。
一度は断った。俺の知っている場所と君の言う場所は違うのではないかと否定し、まつりを遠ざけようとした。だが、まつりはしつこかった。俺の話と自分の知っている話はあまりにも共通点が多い、きっと根は同じである、と熱く語り続け、この話を知っていた人は少なく、しかも詳細を知っていそうな俺と出会えてうれしかったと、どうしても自分には会いたい人がいる、だから試してみたいのだ、と俺をかき口説き続けた。
彼女の熱意は止まらず、コメントを知らせる通知音は途切れず、ついに俺は根負けした。
そもそも行ったところで嘘っぱちなのだ。その場所に辿りつけるわけはないし、なにも起こるわけがない。彼女も会いたい人に会えずがっかりするかもしれないが、これ以上、この件で騒がれるのは正直、勘弁してほしかった。
他のユーザーまで興味を持ち始めたら困る。
数日後、俺と彼女は実際に会うこととなった。
宮野まつりは俺のフォロワーではなかったので、それまで彼女の書いたものを俺は読んだことがなかったのだが、さすがにどんな人物なのか気になり、俺は彼女の作品に目を通してみることにした。
それほど投稿数は多くなかったが、そのすべてが亡くなった誰かへあてた恋心を綴ったものだった。
おそらく、彼女は死に別れた恋人に会いたいのだろう。
だが、それにしても気にかかるのは、俺の想像でしかない都市伝説をなぜ彼女は、知っている、と言ったのか。
もしかしてどこかで聞いた都市伝説を俺が忘れているのか?
調べてみたが、やはり俺が作ったような都市伝説はなかった。
となると、彼女は嘘をついていることになる。なぜそんな嘘を?
なにかとんでもないことに俺は巻き込まれようとしているのだろうか。不安の中、まつりと廃神社へ行く日となった。
初めて会ったまつりは俺よりも四、五歳歳下くらいの姿勢が綺麗な女性だった。
コメントを送りつけてきたときのような押しの強さはその姿からは微塵も感じられない。しとやかな美人だ。
不信感一杯だったはずなのに、彼女の涼やかな目で見つめられたとたん、俺の中にあったわだかまりは見事に消えうせてしまった。
こんな綺麗な目をした人が騙すわけがない、そう思ったからだった。
と同時に別の可能性を俺は思いついた。
すなわち、彼女が俺の書いた都市伝説を知っていると言ったのはやっぱり嘘で、彼女は死んだ恋人と出会う方法をただ探していただけなのではないかという可能性だ。その結果、彼女がたどり着いたのが俺の投稿だった。
俺の作った都市伝説は、とある場所に赴き、定められた手順で儀式をすることで死んだ人と会える、というものだったからだ。
だが、あそこは創作もOKのサイトだ。彼女も半信半疑だったに違いない。だから自分も知っている体で俺に近づき、詳細な情報を引き出そうとしたのではないのか。……なんだかこれが一番ありそうな気がしてきた。
そうなると、この方法では会えない、と彼女に言うべきなのではないだろうか。
彼女はこんなにも真剣なのだ。騙すなんてどう考えてもよくない。
かえすがえす、もっと早く、あれは創作だったのだ、と言えなかった自分に嫌気が差す。
が、留まることを知らぬ彼女の熱気に押され、俺は真実をやっぱり言い出すことができないまま、彼女の運転する車で向かっている。
たどり着くはずのない廃神社へと。
「阿波々神社に行くのならこの道を曲がるんですけど……私の調べたところによると、例の廃神社はこっちじゃないみたいなんですよね」
まだ幾分眠気の残る俺の耳に彼女の声が飛び込んできて、俺はふっと窓の外を見る。時刻は深夜一時。彼女と合流してから二時間が経った今、車は曲がりくねった道をがたりがたりと揺れながら走行していた。
「あの……場所、見つけられたの?」
いいえ、という返事を予想しながら問う俺に、彼女はハンドルに覆いかぶさるようにして前方を眺めつつ横顔で頷いた。
「候補地いくつかあったんですけどね。蒸しパンダさんの投稿のおかげで絞れました。おそらくあの場所だと思います」
驚いた。嘘の話からそれらしい場所を見つけ出したらしい。けれど廃神社があったところでそこから先は完全なる創作だ。いくら儀式をしたとしても彼女の願いは叶わない。
申し訳なさが胸を押しつぶし始める。今からでもすべてを打ち明けてしまおうか、と思い、俺は運転中の彼女に、あの、と声をかけた。そのときだった。
彼女が車を止めた。
「ここからは歩きですね」
どこかの駐車場らしい。それほど広くはなく、五台も停めればいっぱいになってしまうようなスペースだ。
「この先です。行きましょうか」
彼女に促され、俺は車を降りる。駐車場の先、そそり立つ小山と細い山道が伸びているのが見えた。
周囲を見回してみるが、折り重なるように木々が茂っているばかりで見通しは悪い。街灯もなく、今夜は新月なのか車のヘッドライトが消されると辺りは完全な闇に包まれてしまう。慌ててスマホを出そうとした俺の目線の先で光が瞬く。まつりが手にした懐中電灯の明かりだった。
虫の声とかすかな木々のざわめきだけが空気を満たす中、まつりは迷いのない足取りで山道へと向かう。その彼女の細い背中について歩きつつ、俺も自身のスマホで足元を照らす。地面を見ると舗装されておらず、木の根が大きく張り出していて明かりがなければ歩くことなどまず不可能な悪路だった。
だがそんな道にも臆することも、足を取られることもなく、まつりはずんずん登っていく。置いていかれないように足を速めるがそれでも追いつけない。
「ちょっと……」
声を上げたときだった。懐中電灯の明かりがぴたりと止まった。
「着きましたね」
彼女の声に安堵を覚えつつも息が上がることを止められず、ぜいぜいと肩で呼吸を整えた俺は彼女の視線を追い、ふっと息を呑んだ。
俺たちが辿ってきた道の先は唐突にぷつりと切れていた。代わりに目の前に立ちふさがっているのは深さもわからぬほど落ちくぼんだ谷。
湿った風がごうう、と谷底から駆け上がり、俺の前髪をなぶった。
「ここ……」
「向こうと繋がっていたようですね。吊り橋、切れちゃってますけど」
淡々とした声で言い、まつりが指さす。闇に沈んでいてよくは見えないが、谷を挟んだ向こうにも崖があるようで、今俺たちがいるこの場所とそこを繋いでいたと思しき吊り橋の残骸が、懐中電灯の明かりに映し出されていた。
「神社は……」
「この谷の向こうです」
それを聞いて俺はほっとした。吊り橋は切れているのだ。もうどうしようもない。
「引き返すしか、ないよね」
そう言ったが、まつりは動かない。宮野さん? と声をかけた俺に彼女は乾いた声で言った。
「いいえ。ここでも充分だと思います」
そう言い、彼女は臆することなく、すたすたと崖の端に沿って歩き始めた。
慌てて俺もその後を追う。
「危ないよ。落ちたら大変だし……」
「大丈夫です」
言葉短く言い、彼女はさらに足を進める。その彼女の背中に付き従いつつ、俺は必死に口を動かした。
「ここまで来ておいてなんだけど、しょせん都市伝説だし、なにも起こらないかもしれないけど」
往生際悪く、彼女の後姿に向かってそう言ってみたが、まつりはなにも答えない。気が急いて仕方ないかのように足も早足だ。
──そんなに恋人に会いたいのか。
申し訳ない気持ちになりながら彼女の後についていくと、ふいに彼女が足を止めた。
懐中電灯の先が谷の向こうへ向けられる。
闇の中、一筋の光がすうっと谷を越えて伸びる。
目を眇めながらその光の指し示す辺りを見つめた俺は、細めていた目を見開いた。
神社の鳥居が見えた。
色はわからない。懐中電灯の光がかろうじて届くくらいで、こちら岸とあちら岸までは随分距離があるようだから。だが頼りない光の中、くっきりと影を刻むそれは確かに鳥居の形をしていた。
「神社……」
「あれなんです。あれが会いたい人に会わせてくれるお社」
ささやかなまつりの声が夜の闇に溶ける。
「でも……渡れそうには、ない……」
俺は恐る恐るそう声をかけたが、彼女はその俺の声を無視し、肩から提げたバッグから赤い数枚の紙片を取り出した。懐中電灯を地面に置き、そのまま自分を取り囲む形で円を描くようにそれを並べ始める。
紙片は人の形をしていた。
俺の書いた都市伝説通りだ。
「時間です。さあ、蒸しパンダさんもこっちへ」
彼女が手招く。
懐中電灯の明かりが下から彼女の端整な顔をぬらりと照らした。
瞬間、行きたくない、と思った。
どうしてだろう。わからない。わからないが、このまま彼女と共にあの陣の中へ入ったら取り返しのつかないことになる気がふと、した。
「宮野さん、あの、ここではやっぱり効果ないんじゃないかな……。あっちに渡れる方法を改めて考えた方が……」
「今日しかないんです」
俺の言葉をまつりは遮る。強い声ではない。しかしぴんと張った弦のような静謐な気配を奧に秘めた声だった。
その声を聞いたら、逆らえなかった。
頷いて俺は赤い紙人形で作られた円の内側へ彼女と共に立つ。彼女はポケットから小さなビニール袋を出し、その中に入っていた白い粉を自身の体にふりかけた。続いて俺の肩にもふりかける。
塩のようだった。
これも俺が書いた都市伝説通りだ。
そして彼女は静かに息を吐くと、暗黒に沈んだ谷の向こうを見つめながら、歌うように唱え始めた。
「おいでませ おいでませ にえのあるほへ おいでませ。
とおしたまえ とおしたまえ いわさかを」
あれ? と思った。
確かに、最初の一文は俺が考えた呪文だ。だが、次のとおしたまえ、とおしたまえ、いわさかを、は俺が考えたものじゃない。
「あの、宮野、さん?」
呼びかけたとたんだった。ざあああっと風が吹いた。突風にあおられ、俺たちの周りを覆っていた赤い人形が一斉に舞い上がった。
「おいでになります」
まつりがぽつり、と言うのが風の向こうから聞こえた。
え、と声を漏らした俺の耳に、そのとき、かすかな金属音が聞こえた。
しゃん、しゃん、しゃん、しゃん……。
木立が身をよじりざわめく中、謎の音は鳴り響く。
「宮野、さん、これ、まさか」
真横にいる彼女に声をかけたのと同時に、唐突に闇が白い光に塗り替わった。
眩しさに目を瞑った俺は、数秒して恐る恐る目を開ける。
そして唖然とした。
ほんの少し前には地獄へと続くかのごとき、深淵に沈む谷が目の前に広がっていたというのに、今、そこには長く長く伸びた参道があった。さらに参道を囲むように赤い鳥居が連なってまっすぐに続いている。
あの、社へ向かって。
「これ……」
「やっぱり、蒸しパンダさんはすごいですね」
感情のない単調な声でまつりが言う。ぎょっとして彼女を見ると、彼女はゆっくりと首を巡らせて俺を見て、うっすらと微笑んだ。
「あなたのような人がいるから、私はいつまでもここから離れられない」
「どういうこと?」
彼女に食ってかかろうとする俺の耳元で、しゃん!と音が高く響く。
はっきりと空気を震わせたその音に俺は背中を波立たせる。発光する世界の中、まつりは微笑んだままだ。そうして再び首を巡らせ、前方を見た。
彼女の視線を辿り、俺もそちらへと目を向け、口を開けた。
連なる鳥居の向こう、まつりがいた。
白い帯に白い袴。手に神楽鈴を携えたまつりが微笑んで俺を見ていた。
「みや、の、さん……」
「知らないくせに開けてはいけない。
呪術でもそうです。素人が迂闊に手を出すとすべて術は自分に返ってくるといいますよね。
常世への道も同じ。迂闊に開けば怒りを買う。常世の住人たちの。
そしてあなたは触れてしまった」
「待って待って! 俺は書いただけだ。しかもただの想像だった。それを行ってみようと言ったのは君だろう!」
「書くことそれ自体がすでに呪いなんですよ。
確かにあなたは想像しただけだったかもしれない。思いついたその瞬間は確かにあなたの妄想だった。
でもあなたは書いてしまった。常世を開く方法を。常世が開く稀有な場所がこの地にあることを。
だから、あなたは呪われてしまった。だから、私が遣わされた」
そう言いながら、彼女の手がどん、と俺の背中を突いた。
「あなたは、裁きを受けなければならない」
「さば、き……」
朦朧と繰り返す。その俺にまつりが背後で言った。
「あなたも書いていたじゃないですか。たったひとつ、あなたが譲れないものはなにか。それを偽りなく語れば帰れると。すべては答え次第。戻れるか、それとも。
さあ、あなたの譲れないもの。それはなんなのでしょうね」
しゃん、と鈴が俺を急かすように耳のすぐ傍で鳴る。その音に追い立てられ俺は鳥居をくぐった。
鳥居の先で微笑む、もう一人の彼女の元へと。
彼女の前にたどり着いたとたん、足から力が抜けた。崩れ落ちるように膝をついた俺の前に立った彼女が、厳かに口を開く。
「あなたの、譲れないものは、なに?」
譲れないもの。
その刹那、脳裏に浮かんだのは、パソコンの画面の前で猫背になりながら必死にキーボードを打つ、自分自身の姿だった。
唇を震わせ、俺は答える。
俺が、絶対に譲れないものがなにかを。
「俺の居場所……」
俺はしがないフリーターだ。
でもサイトの中では長老と呼ばれ敬われていた。サイトの中だけでは、俺は確かに生きていた。
だから、あそこだけは譲れない。
目の前のまつりと同じ顔をしたなにかが、赤い唇をにいっと横に引いた。
そのとたん。
白々とした光に満たされていたはずの世界が闇へと反転した。
先ほどまで俺たちを包んでいた夜の帳よりなお濃い黒が、俺の鼻を、口を通り、俺の体内へと入り込む。息苦しさに喉を押さえた俺を不意の浮遊感が襲う。
気がつくと、俺の足元に穴が開いていた。穴から染み出してくる圧倒的な黒が俺の体を覆いつくす。黒に呑み込まれ、俺は悲鳴を上げる。が、その声もまた発するそばから闇へ溶けていく。暗夜も色あせる深淵へ俺は落ちていく。落ちていく。──堕ちていく。
みっともなく泣きわめき、闇雲に両手を振り回しながら堕ちゆく俺の耳に、ふたりのまつりの声が聞こえた。
「なにも見えない。なにも掴めない」
「なにも気づかない。なにも聞かない」
「そんなだから」
「そんなだから」
「あなたは消される」
「あなたは堕とされる」
「地獄の穴のさらにその先」
「悪鬼の集う地の底の底へ」
「欲深きその魂が」
「闇に溶けて消えるまで」
歌うようなその声に俺は必死に呼びかける。
──俺が、俺が悪いのか? 俺はただ居場所がほしかった。ただそれだけなのに?
声にならない俺の声は空気を震わせはしない。けれども俺の声を受け止めたように、片方のまつりが囁いた。
「居場所ならあったはず。あなたをこの世に繋ぎ止めてくれる者はたくさんたくさんあったはず。あなたの親。あなたの兄弟。あなたの友人。あなたの職場の仲間。あなたの隣人。あなたの文字に触れることを愛していた人」
ふっと俺は呼吸を止める。まつりは感情の欠落した声で囁き続けた。
「もっともっととあなたは願った。けれどその欲望はすべてを見なくさせる。そんなだから引き寄せてしまったのですよ。この世を捨てる術を」
もうひとりのまつりが赤い唇を綻ばせ、後を引き継ぐ。
「でもあなたのような人を常世へ招くことはできない。この世の穢れはここで押さえなければ」
「本当に、あなたのような人がいるから、私たちはいつまでもここから動けない」
「私たちはいつまでたっても人にはなれない」
「人は、とても恵まれているのに」
「人は、とても温かいのに」
交互に放たれる言葉が耳を刺す。霞む目を必死に凝らすと、俺の落ちてきた穴の向こうが見えた。
そこには、手を繋ぐふたつの人影があった。その影を形作るのは無数の藍色の、蝶。
しゃん、と音がした。
その音と同時に蝶が飛散した。
そして、俺の意識もまた、黒の中で霧散した。
闇に溶けた俺は知らない。その後、俺の妄想でありながら妄想ではなかった都市伝説を記した、あの投稿がどうなったのか。
俺をここへと墜としたまつりによって消されたのかもしれない。
彼らは拡げるのを厭うていたようだから、きっとそうなのだろう。
だが、もしも、もしも消え残っていて、俺の投稿を目にした者がいたのなら。
悪いことは言わない。見なかったことにして投稿のことはすべて忘れたほうがいい。
間違っても投稿内容をSNSに書き込もうなんてことはしてはいけない。
え? 書き込まず、儀式を試したらどうなるかって?
さあ、それは俺にはわからない。俺は思いついて書いただけだから。
でもそうだな。もしかしたら、もしかしたら会いたい誰かに会えるかもしれない。
宮野まつりに見つからなければ。
だが、過度な期待はしないほうがいいと俺は思う。
宮野まつり。あれは、人の予想をはるかに超えたなにか。
人に憧れている、なにか。そしておそらくは、穢れた人間をなによりも憎んでいる、なにか。
そのなにかの目を眩ませることは人には不可能に思える。
だからもしも見つかってしまったとき、俺のようにならないように、普段からよく覗いておいたほうがいい。
あなたにとって譲れないものはなに?
その問いの先にある、自身の心を。
しゃん、しゃん、しゃん。
ねとりとした漆黒へと溶けた俺の元にあの音が降ってくる。
ああ、また誰かが墜とされる。
俺を呑みこんだ黒が蠢く。
それは、ここに墜とされた、幾人もの残滓。
手などないのに伸ばされる、救済を求める黒き指先。
自分を侵食する後悔と苦悶と憎悪の中、堕ちてくる誰かに向かって俺も藁をも掴むように闇夜に染まった腕を伸ばした。
あなたの譲れないものは、なに? 緒川ゆい @asakifuyu0625
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