第2話 皐月
1
カーテンの向こうはまだ暗かった。
あまり眠れた感じがしない。気のせいではないだろう。
高校総体の県大会に進むための前段階、西湘地区の予選会は昨日から始まっている。千五百で鹿沼先輩と中垣。三千障害で藤井。女子百メートルの青井菜幹以下、数人が県大会進出を決めている。
北澤聡(さとし)はベッドから出るやジャージに着替えて部屋を出た。日曜日でも朝練は欠かせない。昨年の予選落ち以来、雨でも続けている。
玄関を出ると、ちょうど弟の晃(あきら)がステンレスの門を開けて帰ってきた。ジーンズにダボッとしたカットソーのシャツ一枚という格好。髪は明るい茶色に染まっている。
「いま帰りか?」
「あぁ」と返事をするが目も合わせない。
「夜中に帰ったことにしといてやるから静かに入れよ」
「あぁ」
玄関から門まではほんの五メートル。その間には等間隔に踏み石が並んでいる。二人はお互いに踏み石を避けてすれ違った。
「あ……」
ふと聡は思い出したように振り返った。
「お前、進路は決まったのか?」
「まだだよ。まだ早いだろ」
晃は面倒くさそうに立ち止まると、振り返って答えた。
「なら、うちに来い」
「領南? おれの頭でいけるような学校かよ」
「金色の髪は関係ない」
「中身の話だよ」
「大丈夫だ。おれでも行けた」
「兄貴とじゃ比較にならねぇよ」
「なら中垣はどうだ? いまから勉強すれば楽に間に合う」
「まぁ……、あの先輩なら―。いや、おれはもう勉強なんてしたくねぇんだよ。放っといてくれよ」
「勉強なんてどうでもいい。陸上やりにこいって言ってんだよ。ちゃんと考えろよ」
聡は道路に出て静かに門を閉めると、垣根の向こうに姿を消した。
勝手言ってやがる―。
晃は舌打ちしながらそっと玄関を開けて中に入っていった。
2
エンジンは快調だった。
東京の専門学校は半年で見切りを付けた。この半年は沖縄の漁村でバイト生活。バイクは実家に置きっぱなしだった。一度もエンジンを回してなかった。
ホンダ。CB750F。タンクはシルバーにブルーライン。在学中に購入して、卒業したあともしばらくローンが続いた。
まず整備。バッテリーは死んでいた。充電してみたが比重は上がらなかった。タンクは取り外してキャブの燃料もカラ。バッテリー交換でエンジンはかかるはず。自信はあったが、約十キロ離れた店まで引っ張っていった。乾燥重量二百キロオーバー。途中のスタンドでガソリンを一リッター入れた。
「引っ張ってくることになんの意味がある?」と店のオヤジに呆れられた。バッテリーを買って交換すれば済む話。
「自力で持ち込みたかったんだよ」と汗まみれの額を拭いながら答えた。もちろん、バッテリー交換でエンジンは生き返った。
しかし、まさかなぁ―。
日比野総(そう)は自分自身にいらだっていた。こんなにもエンジンは快調なのに、家を出てから三十分も経って忘れ物に気づいた。
今日は明け方前に箱根まで出るつもりだった。早朝の富士と芦ノ湖を撮影して、十時には城山競技場。後輩たちの写真を撮るつもりでいた。その肝心のカメラを家に忘れてきた。
あり得ない。初めての大ボケ。まさかこの歳で始まったとは思いたくないが、疑いたくなるような失態。
それは庭に建てたプレハブ小屋のテーブルにあった。カメラ好きの父親が作った現像小屋。窓には暗幕。目張りまでしてある。
カメラバッグのファスナーを開けると、標準レンズの付いたニコンと望遠レンズがきちんと収まっていた。昨夜、準備して置いて、そのまま置き去りにしていた。
日比野はバッグのファスナーを閉じて小屋を出た。真っ暗だった空が東側からオレンジ色に染まり始めている。
余計な時間を食った。
予定をひとつ飛ばさなきゃならないか―。
頭の中でスケジュールを組み直しながら、再びCBのエンジンをスタートさせた。
金目川沿いの県道を再び海岸線に向かって走らせる。ゴールデンウィーク最中の日曜日。まだ混み合う時間ではない。すれ違う車もほとんどない。
その時、緩やかにカーブする道の向こうからハイビームの車が猛スピードで接近してきた。外にふくれると中央線を越えて進路を遮る危険もある。日比野はCBのスロットルを緩めて近づいてくる脅威に備えた。
ありふれた白いクラウン。ただ、フロントはひしゃげてバンパーが外れかかっている。車体の左側を中心にかなり壊れている。フェンダーミラーは飛んでいた。
ついさっき事故ってきたばかりか―。
そんなふうに見えた。カーブのトレースが安定しない。クラウンは中央線をはみ出したまま、見通しのいい緩やかなカーブを回り込んできた。日比野はさらにスピードを緩めた。CBを路肩ぎりぎりまで寄せる。ハイビームで運転席の様子はわからない。大方、朝まで吞んでいたのだろう。飲酒運転。ハンドルもぶれるわけだ。クラウンは風を残して脇をかすめていった。
日比野はCBを車線の真ん中に戻すと、再びスロットルを開いた。背中でけたたましいクラクションの音がした。さっきのクラウンか、あるいは対向車か。
しばらく行くと、橋のある十字路にさしかかった。信号がちょうど黄色に変わる。行っていけないことはなかったが、自然とギヤを落としてブレーキをかけていた。対向車もいなければ、青信号で交差点に入ってくる車もない。CBのアイドリングだけがヘルメットのなかに聞こえてくる。
何気なく交差点の中を見渡す。そこにプラスチックやウレタンの破片が散らばっていることに気づいた。ガードレールの端が歪に曲がり、レールの白とは別の塗料片がへばりついている。
革ジャンの裾をまくって腕時計の針を確認する。まだ五時前だった。
日比野はCBのエンジンを切った。歩道に乗り上げてセンタースタンドを掛けると、リアに積んだバックからカメラを取り出した。ストロボをセットして交差点にカメラを構える。無駄にフィルムを使いたくはなかったが、破片の飛散状態からみて事故だと思った。まだ、それほど時間は経っていないはずだ。路面には黒々としたブレーキ痕も残っている。日比野は足下にあった破片のひとつを拾い上げた。赤いプラスチックだった。よくよく見ると、プラスチック片には赤い色が目立つ。クリアレンズの破片もそこここに見て取れる。おのずと今しがたすれ違ったクラウンに思い当たる。
相手は赤の原付あたりか―。
チープなプラスチックの破片からはそんな想像ができる。いずれにしても赤い破片をばらまいた相手は見当たらない。クラウンはともかく、相手がバイクなら無傷では済まない。クラウンを追いかけた形跡もない。
双方が逃げた―。
そんなことがありうるだろうか?
日比野はシャッターを切りつつ、交差点の端や土手になっている川の下まで目を走らせた。
その時、生い茂った土手下の雑草の緑に混じって別の緑色が見えた。辺りはまだ薄暗い。即座に判然としなかったが、じっと目をこらすとナイロンの緑だった。
日比野ははっとした。ガードレールを乗り越えて土手を滑り降りる。人が倒れていた。
「おい! 大丈夫か!!」と声を張り上げて緑色のヤッケに触れた瞬間、体が固まった。ぐったりとした身体に芯が感じられない。ぐにゃりと曲がった脚が通常ではあり得ない方向を向いている。顔は下向きになっていて見ることは出来ないが、瞬時に動かすべきでないと思った。
日比野は土手を駆け上がると周囲をぐるりと見渡した。公衆電話はない。辺りは人家ばかりだった。かまわず目に入った人家の門をくぐり、玄関のベルを鳴らした。続けざまに鳴らし続け、それでも出てこないとドアを叩いて怒鳴り声を上げた。
しばらくすると、不機嫌そうなオヤジがパジャマ姿でドアを開いた。目つきが怒りに燃えている。それでも日比野は相手に一言もしゃべらせなかった。
「すぐに救急車呼んでください!! 土手の下に人が倒れてるんです!!」
切迫した日比野の声に、相手の目から怒りが消し飛んだ。
「わ……わかった!」
取って返して電話へと走ってゆく。
それは長い一日の始まりだった。
3
青空。
雷管の音が響いた。
二十七人が一斉にスタートを切った。
おれは前列外めからダッシュよく飛び出した。上々の出だし。
三着以内に入れば、県大会へコマを進められる。斉藤の見立てを信用すれば、三組中この最終組がもっとも低レベル。実際、終わっている二組の三着内六人は全員十五分台だった。いまのおれには無理筋のタイム。翻せば、四着以下なら時計での進出は難しくなる。そういう組だった。
作戦はシンプルに決まった。後ろから行ったらチャンスはない。行けるところまで行って、脱落したら力不足と観念する。
レースを引っ張っているのは萌葱色のランニングだった。山城高校。県内トップクラスの強豪。女子三年の短距離に長永公恵(おさながひろえ)がいる。百、二百、四百でインターハイの優勝候補。今年の夏を象徴する存在になるかもしれない―、と斉藤が言っていた。
長距離のエースは岩田。一組にいた。えげつないほどぶっちぎりのゴール。だから岩田ではない。斉藤ならわかるかもしれない。でも、おれは岩田しか知らない。だからその萌葱色が本物なのかハッタリなのか判断できなかった。
千メートルを過ぎたところで集団は八人になっていた。おれの前に七つのランニング。後ろはもう二十メートル以上離れていた。断崖絶壁。崖っぷち。おれはかろうじて最後尾にぶら下がっているだけ。
ペースは速い。どうしてこんなに速いのかわからない。メンバーをしっかり把握していれば、違う判断ができたかもしれない。あるいは速く感じるだけか。いずれにしても確信に足りない。
「大村! 速い!!」
斉藤の声がした。
やっぱり速いか―。
もう遅い。もはや、落とす勇気を持ち合わせない。少なくとも、その時点で三着は消えると思った。
厳しい―。
篩はさらに揺すられ、小石は落とされてゆく。仲間入り寸前。打開策はひとつしかない。―と思った刹那、先手を取ってひとり飛び出した。赤に白横一文字。北湘のランニング。北湘で速い奴が思い浮かばない。そいつがダッシュを利かして集団から抜け出した。可能性はふたつ。いまの流れに嫌気が差した可能性。あるいは集団を壊すための飛び出し。後者なら同じ意識。つまり、崖っぷちの裏返し。ヤケクソの飛び出し。
後者だと思った。速い奴なら多少はわかる。その中に北湘はいない。
集団が崩れ、縦長に変じてゆく。誰に余力があって、誰に限界が迫っていたかがはっきり表れる。我慢のしどころ。
赤いランニングが飛び出したのは一瞬だった。目的は集団をばらけさせること。つまりこっち側のランナー。余力のある何人かは北湘を抜いてゆく。問題は数だ。三人以上なら県大会は難しくなる。ペースは上げざるを得ない。先は考えないことにした。崖から落ちればチャンスは消える。
丸々一周かなり無茶なペースで追走した。前に四人、後ろに三人。前を走る四人の最後尾が北湘だった。この赤いランニングだけには負けたくない。なぜか強く感じていた。距離は十メートル。その五メートル前に二人が併走し、もう一人はさらに数メートル先。二番手以下を引き離しつつある。やはり一番速いのはこいつだったようだ。山城のランニング。
とにかく集団を壊した張本人に迫るのが第一段階。併走に持ち込めば、チャンスは残る。
意識して腕の振りを大きくする。蹴り出す足の親指に力を込める。
残り四周―第一コーナーで赤いランニングの背後に付いた。ペースは落ちている。前の二人は相変わらず併走状態。少し広がったか。おれは北湘を外から追い抜いて、目標を切り換えた。後ろの靴音はすっと遠ざかった。抜く瞬間も競ってくる感じはなかった。ガス欠。薄皮一枚先の我が身。
残り四周を切って二十メートル近い差はかなり決定的に近い。しかも三着以内の併走。無理をしてでも追いつかないとこのままゴールだ。
すでにずいぶん無理をしている。呼吸は厳しい。かなり厳しい。ただ、腕の振りと足の運びはまだへたっていない。まだやれる。
ピッチを上げた。苦痛が声になって漏れる。
前の二人には油断がある。そのせいでペースが落ちていることに気づいていないのかもしれない。その差は詰まってゆく。
残り三周―。
二周―。
残り七百メートルを切ったバックストレッチでラストスパートのつもりで一気に抜き去った。
一瞬、背後の靴音が遠ざかる。
面食らったことだろう。相手の心理がわかる。それまで協定を結んでいたふたつの靴音がばらばらになった。それこそが最後のチャンスだった。
相手の速さはどうでもいい。そう思うことにした。所詮、県の地区予選レベル。びっくりするくらい遅い奴だって走っている。ふたりのうちどちらか一人でも「県大会は決まった」とぬか喜びしてくれていたなら、気持ちを入れ直す前に残り一周半をしのぎきれる。
とはいえ、こっちもそう楽ではない。最後に残しておくべきスタミナまで使い切っている。ここでさらに突き放せれば三着以内は確実だが、もう脚は上がっている。顎も上がっている。腕の振りは小さくなって、肘の角度が鋭角になっている。
そうこうするうちにピッチの上がったスパイクシューズの靴音が再び近づいてきた。もちろん相手にはラストスパートの余力が残っているだろう。
最終周回に入って第一コーナーから第二コーナーへ入ってゆく。トラックの内側ぎりぎりを走りたいところだが、あえて少し外のラインを狙う。抜くためにはその分だけより外側を通る必要がある。
だが、そんな小細工を尻目に、一人は楽々とコーナーの外側から抜き去っていった。ストライドが大きい。みるみる突き放されてゆく。後ろについて行こうなんて気力すらハナから打ち砕くスピード。
抜くときは一気に抜く―。
自分が思っていることをそのまま見せつけられた。
そしてバックストレッチでふたつ目の靴音が近づいてきた。確実に近づいてくる。こっちは逃げようにも呼吸と手足の筋肉に折り合いが付けられない。もどかしいくらいに自分が遅く感じられる。
第三コーナーに入ったところでぴったり後ろに張り付かれた。無理には抜いてこない。今度はコーナー縁石に沿ってぴったりラインをトレースする。もはやフォームはばらばらだった。
直線に入る直前に最後の力を振り絞ってスパートをかけた。なりふり構ってはいられない。首を左右に振りながら、奥歯に力が加わる。
その横をふっと影が通り過ぎていった。相手も苦しいのだろう。後ろから見ていたときのバランスのとれたフォームは消えていた。さりとて、スピードの違いは歴然だった。
その差は三メートル―。時計は一秒と違わないだろう。四着でゴールした。
十六分十八秒―。
おれは+七の七番目で拾われた。それは北澤の欠場によって転がり込んできた権利だった。
4
風のない穏やかに晴れたゴールデンウィーク最終日だった。
世の中はこどもの日だというのに、おれたちは市内の斎場に来ていた。周囲は辛気くさい空気に包まれている。昔、爺さんの葬式に連れて行かれたときのことはあまりよく覚えていない。もう十年くらい前の話だ。米沢のどんより曇った空と寒さだけは記憶している。あの日に比べたら、今日の天気はおおよそ葬式にそぐわない空だった。強い五月の陽射しを浴びて、制服の上着が煩わしい。
祭壇には五月の淡い色合いの花々に囲まれて、同じ制服を着た男の顔が飾られている。まじめくさったおもしろみのない表情だ。祭壇に向かって焼香を待つ長い列が出来ている。そこには大人たちに混じって大勢の学生の姿があった。うちの高校はブレザーだが、列には詰め襟やセーラー服も目につく。事故の件は新聞にも載った。中学時代やあるいは小学校時代の友達も来ているに違いない。
いつ終わるともしれない経の声を耳にしながら、列は少しずつ進んでゆく。頭にはひとつも言葉が浮かんでこない。
「とりあえず今年はインターハイでトップレベルの人たちと走るのが目標だ。勝つのは来年でもいい」
おそらく実現しただろう―。
言うからには、きっとやり遂げるに違いない。そう思わせるところが北澤にはあった。それだけははっきりしていた。
だが、その未来は永久に絶たれてしまった。そして、もちろん来年の駅伝で京都へ行くという公約も反故になった。
祭壇の先頭まで進み、焼香して手を合わせても、心の中から代わりに京都を目指してやる、という気概は沸いてこなかった。おれはただそこで手を合わせ、奴の冥福を祈っているフリをしているだけだった。死んだらすべて無だ。死んだあとの無念などなんの意味もない。あの世で後悔するなんてあるわけがない。この世から解放されることだけが死のすべてだ。
去年の夏の合宿で、北澤はもしおれをその気にさせられなかったら「おれの負け」と言った。
どうやらお前の負けだぜ―と。ふと頭に浮かんだのはそれだけだった。
焼香を済ましたあとは、祭壇の後ろに並んだイスに座って時間が過ぎてゆくのを待った。退屈だ。坊主が読む経の声がその気分をいっそう増幅させる。
「おい、あの外人みたいな髪のガキは誰だ?」
隣に座っている藤井がその向こう隣に座る中垣に囁く。見ると、親族が座る祭壇脇の角に金髪のガキが座っている。たぶん中坊。
「北澤の弟だ」
「中坊か?」
「中三だ」
「北澤とずいぶん違うな」
「……おれたちが卒業するまではあんなじゃなかったけどな」
「あいつも陸上部なのか?」
「おれたちが卒業するまではな。あの様子じゃ、もうやってねぇな」
「速かったのか?」
「速いわけねぇだろ。みろよ、あの頭」と中垣は面倒くさそうに言う。答えになってないが、アホに訊いたって速かろうが遅かろうが答えは一緒だ。訊く意味はない。
斎場にはほとんどの陸上部員が来ていた。前のほうには遠見了子の姿も見える。たいていは青井も一緒にいるのだが、今日は姿がない。
「青井はどうしたんだ?」とおれは訊いた。
「おれが知るか」と藤井。
「青井は?」と藤井は中垣に訊く。
「知るかよ」と中垣もそっけない。
「ま、どっかにいるんだろ」と藤井は普段と変わらず楽観的だ。そうかもしれない。ここには中垣の中学時代の仲間も大勢来ている。青井の友達だってかなりいるだろう。別の場所にいたとしても不思議はない。
焼香の列が終わり、読経の声が止む。
葬式とは辛気くさいものだ。わかっている。でも、想像以上だった。陰鬱。
生まれた生命は必ず消える。ヒトはもちろん、動物や虫、星や宇宙だってやがては消えてなくなる。死後の世界があるとは思えない。死んだあとは無だ。無の状態がどういう状態なのかはよくわからないが、喜びがない代わりに悲しみもなく、快楽がない代わりに苦痛もない。つまらないことでうじうじ悩む必要もない。悲しみ、不安、喪失感、それらを感じるのは残された人間だけだ。それは残された人間のエゴだと思う。死んだ者から見れば、きっとそんな感情は迷惑に違いない。
最後に棺のなかに一輪の花を納める段になって、おれは初めて死んだ中垣の顔を見た。そこに苦痛の色はなく、ただ身体という入れ物が残されているだけのように思えた。五千メートル十五分台の入れ物だ。
あばよ―、とおれは心のなかで呼びかけた。返事はない。でも、思いがけず頭に思い浮かんだのは、高校の残されだ時間で必ずいまのお前を追い抜く―、ということだった。北澤の死を生かさなければならない。これからおれが北澤を思い出してやれることがあるとしたら、たぶんその程度のことだ。しかもそれは結果としては自分のためだ。北澤をダシに使う。まぁ、あいつはそれで満足するだろう。おれをその気にさせるのは奴の目標のひとつだった。死んでなおその情熱は生き続けているらしい。
ホントに面倒くさい奴だ。
5
ゴールデンウィークが明けて、北澤の教室を覗くと、奴の机には百合の花束が飾られていた。そんなイメージの奴ではなかった。いかにも映画かドラマにありそうな景色。嫌な感じだった。だいたいあんなに背の高い花束があったら、後ろの席の奴はさぞや邪魔くさいだろう。
教室の仲間が一人いなくなったというのに、変わったことと言えばそんなものだ。時間の川はおれたちを淀みに取り残すことなく、先へ先へとせき立ててゆく。それは放課後が来ても同じだった。おれたちは先週までと同じようにジャージを着てグラウンドに出て、いつもと変わらずに練習を始める。この日は新コースだった。短距離グループと一緒にアップと準備運動をした後、長距離はロードに出る。昨年の駅伝が終わって以降、最初の坂上での準備運動はなくなった。グラウンドでアップをする分、一日の走破距離は若干伸びている。思えば、これも北澤の提案だった。置き土産はまだまだ残っていそうだ。
この週明けからは一年も加わった。引率は長倉先輩だ。長倉先輩自身は西湘地区大会を通過できなかった。もう残っている公式戦は駅伝しかない。メンバー入りを目指しているのかどうかはわからないけれど、ともかく先輩は練習に残った。まさかこれもお前の仕業じゃあるまいな?とちょっとあの世の男を訝ってみる。
校門を出てから電波塔の坂までは淡々と流れた。先頭を走る和泉先輩も少しは一年を意識しているようだ。しかし坂に入るやいなや流れは壊れた。中垣(アホ)が飛び出したからだ。まるであの世からあいつに手引きされているかのようだ。実際、そうかもしれない。中垣(アホ)らしいといえば、いかにもそんな感じだ。
ともかくペースが上がって集団は崩れた。一年は面食らうばかりでついてこれない。後ろで長倉先輩がなにかを言っているが、こっちはかまっている余裕がない。ここでちぎられたら最後まで追いつけない。最近はそういう流れだ。
和泉先輩が抑えていたリミッターを外して一気にいく。ついて行けるのは北澤しかいなかった。いまのメンバーではなす術もない。中垣だってとうてい足りない。すぐに先輩に追い抜かれた。その後ろを強引に追いかけて、あまつさえ競りかけてさえいる。自爆行為。アホなのはわかっていたが、ここまで身の程知らずとはちょっと見積もりが甘かった。二人の後ろ姿がじりじり遠ざかる。三番手に鹿沼先輩がいて、おれはその背後。すぐ後ろに靴音がふたつ。藤井と井上。確かめるまでもない。どちらが前か―。どうでもよかった。
問題は坂を上がりきったあとだ。和泉先輩は一人で突っ走っていきかねない。中垣も止まらない。坂の上で全員そろって再スタート。そんな一年前の緩いルールは夢の彼方だ。
展開は中垣次第だと思った。ちぎれれば先輩は一人で先に進む。ほどほどの差で踏みとどまれば、ペースを落として中垣を待つかもしれない。そうなれば、後続にも追いすがる可能性が出てくる。
坂の中間点にあたる分岐点過ぎで、おれは鹿沼先輩を追い抜いた。坂ではおれに分がある。北澤が残していった成果のひとつ。冬のあいだに、新コースで鹿沼先輩に遅れをとることはほとんどなくなっていた。トラックではまだかなわないが、ここでは負けられない。もちろん藤井にも井上にも負けない。後続の靴音が遠ざかってゆくのがわかる。前をゆく和泉先輩は二十メートル以上先だった。じりじりと離れてゆく。そして中垣との差は縮まってゆく。そもそもオーバーペース。当然の帰結。なのに、結局最後まで追い抜けなかった。背中まで迫ったものの、最後に控えている短い急坂でスパートをかけられて突き放された。
下り坂で再び集団は一塊になった。和泉先輩はペースを緩めた。長倉先輩以下の一年は見捨てられたが、それ以外の八人は坂を下りきるまでにまとまった。
珍しいことだった。今日だけの気まぐれか。あるいは新境地なのか。グループ練習から全体練習に戻った三学期以降、電波塔の先でこんなふうにまとまることはほぼなかった。先生がベルーガでプレッシャーをかけ続けない限り、必ず集団は割れた。ふたつ。あるいは三つ。時には四つに。和泉先輩は北澤とどんどん先に進んだ。おれたちが帰ってくるまでのあいだに、トラックで距離を上積みしているシーンもたびたびあった。気まぐれか、新境地か。まぁ、どちらでもよかった。たぶん、気まぐれだ。
そしてゴルフ場のクラブハウスに向かう次の急坂。ここで再び中垣が集団を壊しにかかった。アホは単純すぎて始末が悪い。和泉先輩がすぐに応じてピッチを切り換える。全員が流れに巻き込まれた。 ここはさほど長い坂ではない。電波塔のように息が上がるほどではない。集団もばらけない。ただ、坂を上がったあとのペースは上がった。旧コースと新コースの分岐点を曲がると、徐々に斉藤と夜野が遅れ出した。やがて新コースの急な谷を下って、その先に急な坂が見えてくる。旧コース本線まで続く一キロにわたる長い坂だ。
もちろん中垣(アホ)がダッシュするのは目に見えていた。背中から気配があふれ出している。いっそ奴の踵を踏んで靴を脱がしてやろうかと思った。そんなことを考えていたら、下りの終わる手前で今度は和泉先輩自らが先陣を切って飛び出した。
やれやれ―。
不意を突かれた中垣は動きが鈍い。井上が先輩のあとを追いかけてゆく。井上(バクダン)には負けられない。井上も昨年の秋から伸びているが、こっちにも意地がある。たとえ練習でも負けられない。練習で負けると本番でも負ける。
おれは井上に並びかけていった。併走状態はしばらく続いた。そして息づかいで相手を呑んだ。駆け引きでは負けない。仮に力が同等でも、心理面ではまだこっちに分がある。ギアを一段上げて、井上を背中に追いやる。あとは前にいる先輩だけを目標にした。その背中は相変わらず自分のペースでぐいぐい進んでゆく。決して近づくことはない。
坂を上がりきって本線に戻っても、先輩のペースは緩まなかった。もう遅い奴につきあうつもりはないようだ。二番目で坂を上がりきったおれも続いた。後続を待つ手もあった。一年前なら迷わずそうしている。ただ、今日の流れで中垣が集団に収まるとは思えなかった。必ず和泉先輩を追いかける。それがわかっていてアドバンテージを捨てるのは無意味だった。
結局、和泉先輩との差は広がる一方だった。後ろ姿を確認したのはバス道路に戻ってからのほんの一瞬。それでも結果として、中身のある練習にはなった。後続をしのぎ切れたのは調子もよかったからだろう。旧コースを走っている一年はまだ誰も戻ってない。
こういうことか―。
一年前、一年後にこんなことができるだろうか、と思ったのを覚えている。そしていまは当たり前になっている。
ただ、さらにここからの一年。その未来はどうなっているだろう。期待よりも不安のほうが大きい。
中垣(アホ)は井上、藤井、鹿沼先輩よりも後ろで戻ってきた。
6
いつもの帰り道は中垣、藤井、夜野の三人だった。一人いないだけでこんなにも空気感が違ってしまうものかと夜野は中垣と藤井の後ろを走りながら考えていた。
「くそくそくそくそくそくそくそ……」
中垣がぶつぶつ独り言を呟いている。藤井もそんな中垣を扱いかねていた。
「おい、ラーメンでも食ってかねぇか?」と突然中垣が声を高くする。
「食わねぇ」
「やめておくよ」
藤井と夜野はほぼ同時に答えた。
「なんだよ。つきあい悪ぃな!」
「うちの親父がな、酒飲んで酔っ払うとお前みたいな感じだ」
「どういうことだよ?!」
「そうやってすぐ絡むんだよ。そっくりだぜ。お前、酒も飲まずによく同じになれるな」
「うるせぇ!」
「とにかく帰る。実は最近ちょっと太り気味でよ。晩飯前にラーメンなんて食ってる場合じゃねぇんだ」
「一杯くらいのラーメンで変わるかよ」
「その一杯が次の一杯につながるんだよ」
「ちぇ、つまんねぇ野郎だ。おい、夜野はダイエットの必要ねぇだろ。つきあえよ」
「いや、おれもちょっと約束が……」
「なーにが約束だよ。どいつもこいつも嘘つけよ、くそー」
「絡むなって」と藤井が割って入る。
「あーあー、わかった。わかっさたよ。一人でいきゃいんだろ、一人でいきゃ。二度と誘ってやんねぇぞ」
「まぁ、そう言わずにまた誘え。断ってやるからよ」といつもの調子で藤井はからかった。
「絶対誘わねぇ! 誘わねぇからな!」
中垣は捨て台詞のように吐き捨てると、ペダルにぐっと力を込めた。中垣の姿が見る間に遠ざかってゆく。
「あらら、いっちまったよ」
「つきあった方がいいかな……」と夜野は不安げな顔を浮かべた。
「放っとけって。ラーメンなんて食いに行く気分じゃねぇよな」
藤井は遠ざかってゆく中垣の姿を目で追いながら、ただ小さくため息をついた。
7
おれと斉藤は部活帰りにラーメン屋に寄っていた。こっちはその気もなかったが、斉藤にわざわざ駅前までつきあわされた。いつもの京風ラーメンだ。おれはラーメンだけだが、斉藤はかやくご飯まで注文した。
「いいだろ、おごってやんだからよ」
「別に文句は言ってない」
「顔が言ってんだよ」
「そういえばお前、一年に追いつかれずにゴールできたのか?」
「話そらすなよ」
「お前こそそらすな」
「そらしてねぇ。ちゃんと前で帰ってきたよ。すぐ後ろまできてたけどよ……」
「油断してると抜かれるぞ」
「お前、また古傷をいたぶる気か?」
「いやいや、実際感心してるんだぜ。この冬はけっこうまじめにやったよな」
斉藤はちっと舌打ちした。
「そこまでやって地区大会で負けてりゃ世話ないぜ」
言いながらもまんざらではない顔だ。
「北澤がな、今年はお前も駅伝のメンバーに入れそうだって言ってたよ」
「いつ」と斉藤は少し驚いた顔をした。おそらく北澤が面と向かって斉藤を褒めたことは一度もない。
「春休み前」
「もっと早く言えよ」
「言うか。ばか」
褒めると緩むタイプ。黙ってろと言ったのも北澤だ。その性格は早いうちからバレていた。
「でも、これからは練習の流れも変わるだろうな」
「そうか?」と斉藤はとぼけた返事をする。
「中垣(アホ)が飛ばして何度も流れを壊したろ」
「それがどうした?」
「今日みたいな日が当たり前になる。引き締めていかないと、電波塔から先はずっとだらだら走ることになる」
「楽でいいや」
おれはため息をついた。
「かくして今年も駅伝を走れなくなるわけだ」
「うるせぇ。わかってるよ。奢ってもらってくるくせに少しは言葉を選べ」
「親切心で言ってんだぜ。奢ってもらったお礼に」
「嘘コケよ……」
8
夜野亨は藤井と別れたあと、自宅に向かう道とは違う方角にハンドルを切った。サイクリングコースを外れて西へ向かう。やがて道は湘南平に続く桜並木の坂道になった。夜野は自転車のギヤを落としてペダルを漕いでゆく。桜は若い緑の葉桜。五月に入って陽はすっかり長くなった。さすがに鋭い西日は力を弱めたものの、まだそのオレンジ色の光で桜の葉を焦がしている。長い坂道に息が切れる。制服の下のTシャツが汗ばみだした頃、ようやく頂上の駐車場が見えてきた。
がらんとした駐車場の端に自転車が止まっている。ハンドルの前に赤いかご。遠見了子の自転車。その隣にスタンドを立てた。
レストハウスはすでに閉まっていたが、了子は外のベンチにいた。紺のブレザー。スカートはグレー。紺とグレー。季節を問わず、どちらでもいいことになっている。ただ、ほとんどの生徒は男女ともに紺。グレー派は珍しかった。
了子は一心に文庫本を読みふけっていた。夜野が近づいていっても顔を上げない。その本のうえに夜野の長い影が伸びた。
「ちょっと待って。もう少しなの」と文庫本の活字を追ったまま、了子は夜野に言った。
夜野はその場所に立ったまま、そのもうちょっとを待った。その時間はほんの一分ほどだったが、夜野にはずいぶん長く感じられた。まるでそれは待ち合わせに遅れた罰のようにも思われた。おそらく三十分以上待っていたはずだ。そうであればしかたがない。夜野はなにも言わずに待った。
「お待たせ」
やがてページを閉じた了子は、本を鞄にしまって立ち上がった。
「なに読んでたの?」と夜野は訊いた。
「司馬遼太郎」
「司馬?」
意外だな、と夜野は思った。
「意外でしょ」と了子は見透かしたように夜野を見る。
「ま……まぁ」と夜野は曖昧な返事をした。
「昔つきあってた彼が好きだったのよ」
「……昔?」
「そう。中学時代。ふたつ上の先輩」
夜野は何か言わなきゃならないと思いながらも、言葉が出てこなかった。
「気になる?」
その目に悪戯っぽい色が浮かぶ。
「い……いや、別に」
反射的に出た言葉。夜野は強がりを言った。少し腹も立った。でも、それを嫉妬とは思わなかった。
「そ」
了子の目がその奥で翻ったように思えた。
人気の絶えた広場を二人は電波塔に向かって歩いていった。なんだか気まずくなって次の言葉が出てこない。
空にはすでに星が光り始めていた。半分近くまで欠けた月が赤と白に塗り分けられた鉄塔をぼんやり照らしている。
鉄の階段を踏んで段を上がってゆくと、その先に夕暮れの街が広がっていた。淡い光の数は空に光る星の数よりもはるかに多かったが、夜野の目には華やかさとは対局にある寂しげな光に映った。
「菜幹は大丈夫かな……」
了子は光のなかに小さくつぶやいた。
夜野は言葉を見つけられなかった。
「今日は学校を休んだみたい」
「そう……」
青井菜幹にとって北澤はどれほどの存在だったのか。想像はできる。でも、正解ではない気がした。頭には霧が立ちこめ、言葉をひねり出す蛇口はみつからない。
その時、夜野の手のひらに暖かい指先が絡んできた。了子の手に触れるといつも緊張する。その緊張を気づかれないように強く握り返した。了子の視線を感じていた。
眼下に広がる街の光は頭を素通りした。夜野はぎこちなく首を回した。油の切れたチェーンのような音が耳の奥で鳴っていた。
その顔は思ったよりも間近にあった。そしてその艶やかに厚みのある唇が夜野の口をふさいだ。無意識のうちに握った手に力が入っていた。
9
海は静かに波を打ち寄せていた。
藤井直人は一人、その波打ち際を走っていた。部活の後に自主練習をするのは初めてだった。
腹減った―。
くー、という音が腹から聞こえてくる。それでも食べてから走ろうとは思わなかった。食べたら走れない。その気がなくなるとわかっていた。食べる前に入らなきゃならない。
砂のうえのランニングは足腰を重たく引っ張った。ぼんやり走っていると、知らずに心が後ろを振り返っている。
直人は振り払うようにペースを上げた。返す波で濡れた砂の境界線を走る。濡れて締まった砂がシューズのソールをつかみ、蹴った砂を後ろに跳ね上げる。
いったいおれたちはこれからどうすればいい―。
また、腹が鳴った。
意識を千切り捨てんとするように、直人は全力疾走した。
10
おもしろくねぇ―。
中垣竜二はひとりだった。
いつものラーメン屋。摩周湖に一人で来るのは初めてだった。テーブルを挟んだ向かい側にはいつだって涼やかですかした顔の男が座っていた。
久しぶりだった。前にきたのは去年の暮れ。年内最後の練習のあと。北澤と昼飯を食べに来たのが最後だ。
四人掛けのテーブルが四つ。四本足の細いパイプはどれも黒く錆びている。背もたれのない丸椅子は揺するとガタガタする。入口は磨りガラスの入った引き戸で、床はコンクリート。店の奥に縁の黄ばんだ暖簾が掛かっていて、その奥に厨房がある。
北澤は中垣の誘いをほとんど断らなかった。交換条件付き。でも、それはそれでよかった。五キロか十キロの自主練につきあえば済む話だった。
「おまちどおさん」とテーブルにタンメンが到着した。野菜たっぷりの丼の真ん中にバターの塊が乗っている。いつものラーメン。一口すすると野菜スープの味が口のなかに広がった。
「おい」
ふいに頭のうえから声が降ってきた。見上げると、さっきドンブリを置いていった店員が脇から見下ろしていた。短く刈り込んだ髪を茶色に染めたキツネ目。鼻筋の通った細面で、眉毛の色がほとんど見つけられないくらい薄い。半袖のTシャツにエプロン姿。横柄な態度。
「久しぶりだな、中垣」
そう言われて、中垣はようやくその顔に記憶を結びつけた。中学時代は五厘のイガグリ頭だった。
「松木か! ここで働いてんのか?」
中学時代の同級生。三年の時はピッチャーで三番。たしか地元の工業高校に進んだはずだ。
「ずいぶん変わったな。わかんなかったぜ」
「へ! お前は変わんねぇな」
「お前んとこの野球部はそんな髪でも平気なのか?」
「あぁ。辞めたんだ」
「なんだ、野球辞めちまったのか」
「いや、高校を辞めた」
「いつ?!」
「去年の夏だ」
箸が止まっていた。
「―そうか。うちの学校にも何人かいる」
「北澤は残念だったな」
「知ってんのか」
「新聞で見た。犯人は?」
「まだだ」
店は空いていた。中垣以外に客はいなかった。
「待ってろ」と言って松木はいったん店の奥に引っ込むと、栓を抜いたビールの瓶とグラスをふたつ手にして戻ってきた。
「まぁ、飲め。おれのおごり」
松木は中垣の向かい側に腰を下ろすと、ふたつのグラスにビールを注いだ。
中垣にも躊躇はなかった。片方のグラスをつかむと、テーブルの真ん中でグラスをぶつけて一気にあおった。初めての味ではなかったが、やはりうまいとは思わなかった。苦みだけが喉の奥を通り抜けていった。
「お前、今日はこのあと暇か?」と松木は訊いた。
「帰って寝るだけ」
その時、店の扉が開いた。
「いらっしゃいませ」と言って、反射的に松木は立ち上がった。同時にビールとグラスをつかんでいる。
「なら、ちょっと出てこないか?」
「どこに」
「一向堂、知ってるよな」
「レコードレンタル屋の?」
「あぁ。地下の喫茶店に八時だ」
中垣の返事を聞かないまま、言い捨てるようにして松木はテーブルを離れていった。
パールロードに面した三階建て。一階が楽器屋で、一向堂は二階に入っている。地下に潜ったことは一度もない。ただ、そこがライブ喫茶になっているのは知っていた。
中垣はスープまで飲み干して席を立った。その間に残り三つのテーブルは全部埋まっていた。レジでくしゃくしゃの千円札を出しながら、もう一度松木と話した。
「じゃ、あとでな」と松木は釣り銭を手渡しながら笑顔を作った。
「あぁ」
釣り銭をポケットに突っ込みながら、もう中垣は行くつもりになっていた。
11
針を刻むアナログ時計の音が耳障りだった。
井上裕次は勉強机に向かっていた。英語の参考書はいたる所にマーカーの線が入っている。英語は苦手だった。だが、将来必ず必要になると思っていた。苦手でも逃げられない。
背中の棚にはヘルメットとグローブ。壁にはハンガーに掛かった革ジャン。
走りに出たかった。でも、いまは乗れない。いまRZに跨がったら、きっとフル・スロットルで暴走してしまう。よくわかっていた。だから、しばらく我慢しようと決めた。しかし、単語も構文もいっこうに頭に入らない。エンジンをニュートラルで空ぶかししているような苛立ちが収まらない。
時間を刻む針の音だけが、部屋を包んでいた。
12
約束の時間を少し過ぎていた。
中垣は茶色いタイル張りの階段を下っていった。その奥からギターとタイコに混じって地獄で焼かれているようなしわがれ声が聞こえてくる。
喫茶店にしてはやけに頑丈な分厚い木製ドアを押し開けると、吹き飛ばされそうな分厚い音に弾かれた。
薄暗い店のなかは熱気に包まれていた。混んでいる。十字に切った四人掛けのボックス席が縦にふたつ並び、両方の壁際に四人掛けのテーブルがふたつずつある。音の源はテーブルの奥に設えた小さなステージからだった。スポットライトの真ん中で、ヴォーカルの男が焼け焦げながら歌っている。左にベース、右にギター、後ろにドラムの四人組。曲はT・レックス。イージー・アクション。ヴォーカルの英語がへたくそでしばらくわからなかった。そこでベースを弾いているのが松木だった。
「中垣くんかい?!」と耳元で大声がして中垣は振り返った。それくらい声を張らないと聞こえない。腕まくりをしたワイシャツに黒いエプロン。ステンレスのトレイを持った五十絡みの男だった。はっきりした目鼻立ち。鼻の下に白髪交じりのヒゲを蓄えている。同じように白髪の混じった髪は、ウェーブのかかった軽めのパーマ。どうやら店主らしい。
中垣はその顔に向かって黙ってうなずいた。主人はアゴをしゃくって促すと、壁際の後ろの席に中垣を案内した。
テーブルには女が座っていた。ストレートの長い黒髪。大人びた化粧。ファッション。それとは裏腹にくりっとした大きな瞳だけが子供っぽく見える。不思議な雰囲気だった。中垣は一瞬で心まで奪われた。
向かい側の席に腰を落ち着けると、彼女はテーブルに身を乗り出してきた。
「タダシの友だちね?」と大声で叫ぶ。中垣もテーブルに顔を出してうなずいた。松木忠志。言われるまで忘れていた名前。
演奏は中垣の背中で続いてた。曲は邦楽に変わっていた。洋楽よりずっと聞きやすい。ただ、音がガチャガチャしているのは変わらない。ヴォーカルも下手くそだった。
「うるさいでしょ?」と言って彼女が笑う。笑うと大きな瞳がいっそう幼く感じられた。
彼女はジョッキに少し残っていたビールを一気に飲み干した。中垣の背中に向かって手を挙げる。振り返るとさっきの主人がいた。再び顔を戻すと彼女がピースサインを作っている。もう一度背中を見るともう主人は店の奥に姿を消していた。
「ビールでいいよね?」
「おれ、カネないぜ」
「タダシが今日のギャラで払ってくれるわ」
彼女はにこっという感じで笑って見せた。
松木たちのバンドの演奏は三十分にわたって続いた。拍手と指笛に送られて四人がステージを降りると、店の中はようやく通常の空間を取り戻した。店内が明るくなり、喫茶店らしい落ち着いた雰囲気になった。これほど雰囲気が変わるものかと、中垣は少し驚いた。目の前のビールジョッキが妙にそぐわない。
「よぉ、どうだった?!」
しばらくして首からタオルを下げて松木がやってきた。当然といわんばかりに彼女の隣に腰を下ろす。
「うるさすぎる」
そう言って中垣はビールをあおった。苦味が口に広がる。まずかった。
「わかってねぇな」と松木は舌打ちした。
「つきあってんのか?」と中垣はテーブルの向かい側に座る二人を見比べるようにして訊いた。
「まぁな」
松木は少し自慢げな表情を浮かべる。
「バランス悪いな」
「うるせー! 女子大生と高校中退でいいわけねぇだろ」
「威張るんじゃねぇ!」
「よーし! 今日は飲むぞ!!」
「バカいえ。おれは明日学校だ。朝練もある」
「休め休め。今夜は北澤の供養だ。おれがおごる。大船に乗った気でついてこい!!」
演奏が終わったばかりでまだ気分がハイだった。中垣はため息で応えた。
13
朝から冷たい雨だった。
こんな日は気分が乗らない。
「いつもそうだろう?」
北澤ならきっとそう言い返す。たしかにそうだ。
朝は自主練習。各々がマイペースでマラソンコースを走ってくるのがパターン。朝練用の着替えをバッグに突っ込むと、カッパを着込んでいつも通りに家を出た。最初の三分で靴はびしょ濡れ。覚悟はしていたが、予想以上だった。学校に着く頃にはカッパの下まで全身くまなく濡れそぼっていた。
部室には同じようにずぶ濡れの夜野がいた。ちょうど朝練に出て行くところだった。
「おっ」
「あ、おはよう」
「他の奴らは?」
「さぁ、誰もいなかったけど。カバンはあるから何人かはもう出てるみたい」
「ちょっと待て。一緒に行こうぜ」とおれはバッグを部室に放り込むと、カッパを脱ぎ捨てた。カッパの下はTシャツ、ランパンで走れる格好になっている。
「よし、行くべ」と連れだって校門を出た。
走り始めて気づいた。夜野と二人で走るのはたぶん初めてだ。もちろん中垣(アホ)や井上(バクダン)と走ったこともないが、まぁそこはこっちもあっちも避けてるからわかる。でも不思議と夜野との接点はなかった。あるいは避けられていたのかもしれない。
お互いにしばらく無言だった。北澤とは走ったことがあるはずだ。おそらく何度も。北澤はそういう奴だ。
「北澤と二人で走ったことあったか?」とおれは最初の急坂を上りきったあとで訊いた。夜野はしばらく無言で息を整えていた。それから「六回」と答えた。具体的な数字。印象的な体験。おれとはゼロ。おそらく中垣ともゼロ。井上とはどうだろう? 入部当初の井上は遅かった。たばこを吸っていたし、パーマ頭でいかにも走りづらそうだった。走っているかもしれない。藤井とは走っているだろう。斉藤―。朝はいつもぎりぎりだからたぶんゼロ。でも、放課後は去年の駅伝後にグループを組んでいたはずだ。
「お前、クラスじゃうまくやってんのか?」とおれは訊いた。目立たない奴だった。わずか十数人の長距離でこの調子。五十人からの中に入れば存在感は紛れる。
「まぁ……。問題ないよ」
歯切れの悪い返事。慣れている。そういう返事。中垣(アホ)みたいな自信過剰も考え物だが、夜野の消極性は度を超えている。
「ちょっとペース上げようぜ」
「いいよ、先に行って」
「ダメだ。ついてこいよ」
おれは半ば強引に夜野を引っ張ってペースアップした。柄でもない。そう思っていた。この先はインターハイだけでいい。
本音。
でも、どうしょうもなく相反する方向に気持ちが駆り立てられる。こんな雨の朝はそんな気持ちになる。
普段の雨の日よりペースは早くなった。湿度が高く走りやすい。やがて雨に煙った先におれたちと同じような格好で走る後ろ姿をとらえた。誰なのかはすぐわかった。
「追いつこうぜ」とおれはさらに夜野にペースアップを促した。今朝の夜野ならやれそうな気がした。たった五キロ半。余力を残す必要もない。
おそらく夜野は全力に近かった。その斜め後ろを伴走する形で続いた。
その背中がみるみる迫る。だらだら走っている証拠だ。「一気に抜いてぶっちぎろうぜ」
なんだか楽しくなってきた。
かつて、アップ後に準備体操をしていた短い直線で一気に藤井を抜き去った。さらにペースを上げてヘアピンカーブの下り坂に入る。藤井は背後の靴音に気づかなかったようだ。下りで背後の靴音を置き去りにした。
「おい!」と雨音に混じって声がした。おれは後ろ手にピースサインを送った。夜野は下り坂が得意らしい。一瞬、おれも置いて行かれそうになった。
坂を下りきり、そのままの惰性で校門まで続く最後の坂に入っていった。目に見えて夜野の足が重くなった。
「もう、ちょっとだ。死ぬ気で走れ!!」
柄にもない。心に囁く声がした。
そして最後まで藤井を後ろに置いたまま校門をくぐり抜けた。
土砂降りの雨のなか、ゴールするやいなや夜野は膝に両手をついて背中で荒い息を吐いた。振り返ると憮然とした顔で藤井が校門をくぐってきた。
「よ、お疲れさん」とおれは藤井に親指を立てた。
「バカ野郎!」
藤井の憮然とした表情。おれは笑いながら夜野の背中を叩いた。
三人ともずぶ濡れだった。その脇をしっかりと傘を固めた制服姿の生徒たちが続々と通り過ぎてゆく。傘の下からちらりと投げる視線が一様に冷たい。雨の方がよほど暖かいくらいだ。
「くそ、やり返してやる」
そう言って、藤井はおれと夜野の背中を押した。
「絶対仕返ししてやる。覚えとけ」
「覚えてるわけねぇだろ」
藤井の恨み節をおれは軽く一蹴した。
部室に戻ると、すでに制服に着替えた井上と鹿沼先輩が部室を出るところだった。
「中垣と斉藤は?」
先輩に挨拶したあとで、藤井が井上に訊いた。
「知るか」
井上は振り返ることなく部室をあとにした。
「間違いなくあいつの代で店つぶれるな」
藤井は肩をすくめた。
狭い部室で着替えをしていると、珍しい光景が飛び込んできた。斉藤が和泉先輩と一緒になって戻ってきた。もちろんずぶ濡れ。
「おはようございます」とおれたちが挨拶すると、うなずくだけの素っ気ない反応。慣れている。
「珍しいな。お前が先輩と一緒に走ってくるなんて」
「バカ、校門の手前で追い抜かれただけだ」
「先輩、どこ走ってきたんですか?」と藤井が訊く。
「新コースだ」
おれと藤井は顔を見合わせた。ただ黙って。
「雨の日はいつもそうだ。最近まで連れがいたけどな」
平板な口調が部室内に響いた。
先輩はさっさと着替えを済ませると、上履きを履いた。
「遅れるぞ」と言い残して、先輩は出て行った。
遠くで始業の鐘が鳴り始めた。
「やべ」とばかりにおれたちは動き出した。
中垣(アホ)のことはみんな忘れていた。
14
中垣が目を覚ましたのは薄暗い見知らぬ部屋だった。
濃いブラウンのカーペットを敷き詰めた六畳ほどのワンルーム。こたつテーブルとチェスト、セミダブルのベッドとスチール製の本棚。無駄のないシンプルな部屋だった。部屋の隅には小さなテレビがペットのように直置きされている。テレビすらインテリアの一部のようだった。端々に女性の部屋らしい雰囲気が感じ取れる。チェストの上には花ビンに挿した淡いオレンジ色の君子蘭。壁のカレンダーはモネの睡蓮。淡いアイボリーのバラがちりばめられたカーテン。教科書や辞書、テキストと文庫の小説がずらりと並んだ本棚。一番上の段には女性ファッション誌や芸能雑誌が平積みになっていた。
記憶が少しずつ戻ってきた。
喫茶店を出た後は、三人で繁華街の外れまで歩いた。雑居ビルの二階にあるバー。中垣は生まれて初めてバーと名のつく店に入った。初めてバーボンという名の酒を飲み、初めて路上で吐いた。
中垣はぼやけた頭を振りながら体を起こした。中垣はベッドのすぐ脇のカーペットに毛布一枚で寝ていた。服を着たまま寝たせいで、体の節々が少し痛い。
カーテンの向こうで雨が激しい音をたてていた。中垣は部屋の中を見回してみたが、目に入る場所に時計は見当たらなかった。白いカーテン全体が明るくなっている。たぶん、朝。
ふいにベッドの端から素っ裸の尻が目の前に飛び出してきた。中垣はぎょっとしたが、次の瞬間、ぶっと強烈な音とニオイを発した。
「く……クサ……この野郎……」
中垣は小さく呻きながら、はみ出した尻にキックをたたき込んだ。尻は布団の奥に引っ込んだが、尻の持ち主は目を覚ます気配すらない。
中垣は手で団扇を作って臭いを飛ばしながら立ち上がった。
松木の隣で昨夜の女が眠っていた。背を向けた背中には何も身につけていなかった。中垣は小さく舌打ちした。
中垣はキッチンの流しで蛇口をひねり、がぶがぶと水を飲んだ。ステンレスのシンクがダンダンと水のリズムを刻んだ。胃の中が水でいっぱいになっても、喉の渇きは癒されなかった。
「帰るの?」と部屋から声がした。
部屋に目を向けると、彼女がベッドから体を起こしていた。毛布を首元まで引っ張り上げているが、白い素肌は肩口まで露わになっていた。
「あぁ。帰る」と中垣は玄関で靴を履いた。
「そこにある傘持ってっていいわ」
ドアの脇に赤い傘が立てかけてあった。中垣は一瞥しただけでドアに手をかけた。もう一度来る口実を作りたくなかった。
スチール製のドアを押して外に出ると、雨は激しい土砂降りだった。外の明るさからして、もう学校は始まっている。
そこは一戸建てが建ち並ぶ住宅街にある二階建てのアパートだった。知らない場所。それでも部屋に戻って訊こうとは思わなかった。
中垣は雨の中に飛び出した。十歩でずぶ濡れになった。それでもかまわず走った。闇雲に走れば、そのうち知っている場所に出るだろう。先のことは何も考えなかった。
15
雨は放課後まで降り続いた。教室の窓から見えるグラウンドは田んぼのように水が浮いていた。雨粒の波紋がお互いを打ち消しあうように戦っている。
「今日は新コースだな」と斉藤が憂鬱そうな声で言った。
「そうだな」とおれは答えて立ち上がった。
連れだって部室に行くと、すでに藤井と夜野がいた。
「中垣休みだってよ」
おれの顔を見るなり藤井が言った。
「へーえ、バカでも風邪ひくのか」
「さぁ。風邪かどうかは知らん」
「違うのか?」
「連絡がないらしい」
「ふうん……」
死んだわけじゃないんだろ―、と言いそうになって口をつぐんだ。どうもやりづらい。
練習はやはり新コースだった。短距離の部員は誰も部室にこない。休養日。いつもなら斉藤が「おれも短距離ならよかった」くらいはいいそうなところだ。言えば和泉先輩に睨まれる。怒るかもしれない。それでも言ってしまうのが斉藤だ。バカなところ。そして美徳。でも、言わなかった。誰も愚痴らない。全員がいろいろなところで少しずつ遠慮していた。
スタートからペースは速くなった。最初のヘアピンを上がりきった時点で、前のグループは五人。和泉先輩、鹿沼先輩、藤井、井上、そしておれ。おそらく電波塔までだ。和泉先輩は全員を引きちぎって先に進む。そういう空気だった。
はたしてどこまでついて行けるか―。
考えはみんな同じ。中垣がいない分、展開はシンプルになった。あのアホがいると、転換点が読みづらくなる。
和泉先輩に負けるのは仕方がない。でも他の三人には負けたくない。おそらく他の三人も同じ考え。それを前提にした展開を考える。
いったいいつまで続くのだろう―。
北澤がいた時だって負けたくない気持ちは同じだった。しかしゴールデンウィークの前と後とでは何かが違っている。
一時の感傷なのかもしれない。少し時間がたてば慣れるのかもしれない。あるいは元の感覚に戻るのか―。
五人一塊のままバス通りを離れ、おれたちは電波塔に向かう坂へと入っていった。
ランナーズ2 十乃三 @tono03
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