ランナーズ2

十乃三

第1話 卯月

   1


 スタート前。

 ざわついた空気。

 春シーズンの開幕は善行の競技場だった。今年、最初の記録会。五千メートルの三組目が走り終わった直後。十五分を切ったかもしれない。

「おい、あのユニフォームどこだっけ? 知らねぇぞ」

「おれも」

 緑に黄色のボーダーライン。

「三位の奴も同じランニングだったぜ」

 おれだってお前らなんて知らねぇよ。そう思いながらジャージのファスナーを少し持ち上げた。

「領南だよ。女子の短距離に一人速いのいるだろ」

「おい」と背後から声がした。振り返ると水色のジャージ。

「しばらくだな」

 おれは素っ気なく応えた。京田怜。中学時代の同級生。一度も勝てなかった男。

 名門大根高校に進学したが、入部早々に退部している。そこにどういう風が吹いたのか―。昨年の暮れに再入部したという話は斉藤から聞いていた。

「あれが北澤か」

「あぁ」

「和泉さんが負けるとはな」

「お前んとこの先輩もな」

「栗原先輩に勝ったとなると、インターハイもあり得るな」

「お前、ずいぶん余裕だな。そろそろスタートだぞ」

「おう、いけね。復帰戦でちょっと緊張してんだ。あんまり先に行くなよ。ブランクあんだからよ」

 京田はへらへら笑いながら離れていった。

 知ったことか―。

 今日の相手は別にいる。

 少し離れたところに準備万端の背中が見える。昨日の千五百は別の組だった。十八秒差。決定的完敗。それでもそこは奴の土俵だから言い訳が立つ。記録会とはいえ、公式戦を同じ組で走るのは初めてだ。五千で負ければ完全に力の差。中垣(アホ)には絶対負けられない。

 この組で一番速いのはたぶん三澤高校の杉岡俊一。昨年の駅伝は三区。インターハイ候補の筆頭。前の組で好タイムが出ている。スタートからハイペースは必至。まず、ポジション取り。スタートラインには二十人以上が並ぶ。レベルはまちまち。杉岡の持ち時計は十四分台。ついて行けば確実につぶれる。

 コールがかかった。おれは手早くジャージを脱いでコースに出た。今年初めて履くスパイク。タータントラックの感触が心地いい。おそらく京田はより強く感じているだろう。

 おれは二列目の外側で位置についた。前列の内に杉岡。中垣もそのそばにいる。京田はおれのふたつ隣。ついさっきの軽口から表情は一変している。

 乾いたピストルの音が競技場に鳴り響いた。ことさら歓声が上がるわけでもなく、スパイクの音が一斉にトラックを揺すり始めた。

 予想したとおり、杉岡が集団を引っ張る展開になった。やはり速い。

 おれは外側のポジションから中団に入ってペースが落ち着くのを待った。目標タイムは十六分二十秒。一組目で藤井が十六分三十秒を切った。同じ組で走った井上もそこから十秒そこそこの遅れ。プレッシャーがかかる。

 設定タイムは昨秋より一分速い。それでも無茶とは思わなかった。千メートル三分十六秒ペース。それを速いとは思わなくなっていた。

 ポジション取りが決まると、ペースは落ち着いた。とはいえ、ペースが落ちたわけではない。前が飛ばしているから隊列はどんどん伸びてゆく。中垣はその先頭集団のまっただ中にいた。相変わらず無謀。アホだ。まったく成長がない。すでに五十メートル近くは前にいる。先頭がどれくらいのペースなのかスピード感がつかめない。このままだとさらに差を広げられそうだ。不安との戦い。

 少しペースを上げる。内側の選手を少しずつ抜いて前に進出してゆく。その時になって、背後に荒い息づかいがぴったり張り付いていることに気づいた。コーナーで視線をずらすと、目の端に水色のランニングが見えた。京田怜。こんなにも呼吸が荒い京田はちょっと記憶にない。練習以外でおれの後ろにいるのもたぶん初めて。

「京田には負けないよ」

 昨日、プログラムで同じ組に京田の名前があるのを見て、北澤はそう言った。

 この一年のアドバンテージは才能だけでは埋められない―。

 北澤は自信満々に言い切った。説得力のある言葉だ。そしてそれは証明されつつある。

 おれは京田を意識の外に追いやった。今日は負けない。

 二千メートル通過までに数人抜いた。先頭との差はさらに広がっている。百メートルはあるか。もし杉岡が十五分ちょうどのペースで走っているなら、百メートルの平均は十八秒。千ごとのラップで九秒程度しか遅れていない計算になる。十五分四十五秒のペース。間違いなくオーバーペース。このまま残り三千は乗り切れない。計算するまでもない。わかっていた。身体機能の端々が訴え続けている。呼吸はぎりぎり。脚も腕も疲労のうねりが近づいてくる。

 中垣の背中は三十メートルくらい前。ポジションは刻々と下がってきている。その背を見据えつつ、おれは両腕を下げて肩に入った力を抜いた。

 意識的にペースを落とすのは不可能だ。そんな度胸はない。おれはすぐ前を走っている男の真後ろでペースを合わせた。海老名商業の海老茶色のランニング。選手の名前は知らない。去年の駅伝は七位。ただ、それだけではなんの証明にもならない。おれ同様にオーバーペースの可能性はあり得る。

 六周目を通過したあたりから先頭集団がばらけ始めた。杉岡は相変わらず軽快。差は広がる一方。一方、中垣(アホ)は近づいてくる。とはいえ、こっちも相当に厳しい。息は上がりそうだし、腕も重い。それでも脚だけはまだ持ちこたえていてる。海老茶色のランニングも頑張っている。どうやらそこそこ速い奴みたいだ。

 もう一度腕を下ろしてこわばった肩をほぐす。

 まだ、いける―。

 限界の上限には達していない。その隙間に残っている空気を肺に取り込む。

 三千を過ぎたところで中垣の背中を捕まえた。海老茶色が外から中垣をパスする。その背後から一緒になって中垣(アホ)を抜いた。同時に前の海老商も追い抜いた。このレース、中垣だけには絶対に負けられない。だらだら追い抜くと、必ず背中に張り付かれる。最終周までもつれらたら勝ち目はない。こっちも苦しいが、ここで諦めさせる必要があった。

 背中に回った足音がすうっと遠ざかる。海老商も追いかけてこない。まだ早いと思っているはずだ。だが、こっちの相手は中垣(アホ)一人。結果的に海老商に抜かれるのはかまわない。中垣だけには前を譲らない作戦。一か八かの作戦―。

 懸念はふたつ。中垣が海老商をマークしてきたら、最後には立場を入れ替えて抜かれる。ペースメーカーを失ったこのあとのペース配分も懸案事項。

 残り千五百。オーバーペースでつぶれた選手がパラパラ落ちてくる。そこに合わせるわけにはいかない。一周二周と周を重ねる。ペースは半信半疑。その時、残り一周の鐘が鳴った。コーナーふたつ分、百メートル後ろに杉岡が迫っている。もし、奴が十五分フラットのペースなら悪くない。というよりも、むしろ良すぎる。実力を超えたタイム。おそらく杉岡はペースを落としている。前半に飛ばしすぎたせいだ。

 残り一周を前にした直線でスパイクの靴音が迫ってきた。ラストスパートの靴音。ゴールラインを過ぎたすぐ背後で音が消えた。杉岡のゴール。かろうじてしのぎきった。でも、ほっとしてはいられない。中垣をその気にさせる射程圏に入れるわけにはいかない。最後の一周は残らず力を出し切った。ペースはわずかながらも上がったはずだ。結局、迫ってくる靴音はなかった。

 ゴール―。

 両手を腰に、肩で息を整えつつ振り返ると、ちょうど海老商がゴールするところだった。その向こう、直線に入ってくる中垣(アホ)の姿が見えた。すぐ後ろに水色のランニング。京田だ。

 一瞬、おれはぞっとした。一年のブランクはどこにいった。

 おれはゴールした中垣(アホ)そっちのけで京田の姿を追っていた。

 しかし京田はそこで走るのをやめなかった。コーナーを回ってバックストレッチへ向かって行く。

「おい」と背中からの声におれは振り返った。

 コースを区切る柵の向こうに斉藤がいた。

 斉藤は手にしていたジャージとシューズを投げてよこした。

「どこで抜いた?」

「京田か? さぁ」

 おれは自分でも気づかないうちに京田を周回遅れにしていた。

 十六分十八秒―。

 一年かけて築いた最初の成果。




   2


 今年の桜はせっかちに生き急いだ。三学期が終わる前に開花宣言。三月のうちに満開を迎え、春休みのうちに降った雨であっという間に散ってしまった。二度目の気怠い春。

 クラス替えはなかった。教室には去年と同じ顔。刺激に欠ける新学期。

 とはいえ、陸上部にも新一年生は入部してきた。半分は女子。全員が短距離。言うまでもない。青井菜幹の影響。今年はインターハイ出場はもちろん、そこでもけっこうやれるかもしれない。

「速い選手の影響力はすごいねぇ」

 斉藤が他人事のように呟いた。まるで別の部の出来事であるかのように。

 男は十二人。全部合わせても女子の数に満たない。長距離は五人。

去年、おれが入部する前と同じ数。そこから二人増えて七人になった。

「去年も遅い入部の奴はいたけどな。二人ぐらい」と藤井がつまらないことを言う。

 たしかにおれは入学式から二週間後。斉藤はゴールデンウィーク明けだった。

「うるせぇよ」とおれは返した。

「斉藤はともかくおれは繊細なんだ。学区外の順応にちょっと手間取っただけだ」

「お、繊細さならおれだって負けねぇぞ」

 斉藤が首を突っ込んでくる。

「笑わすな。なにが洗剤だ。洗剤だってんならおれのパンツでも洗ってろ。バカヤロー」とアホの中垣まで割り込んでくる。バカヤローはてめぇだ。まるで話がかみ合わない。

 ちょうどそこで練習開始の声がかかる。

「さぁ、やるか」

「そうだな」

 おれと藤井は斉藤と中垣を置いてきぼりにしてトラックへと歩き出した。

「おい、洗剤ってどういう意味だよ?」と後ろで斉藤に問いただす中垣の声。ホンモノだ。本物のアホ。

 練習のパターンは三月後半から変わり始めていた。トラックを使ったスピード系のメニューが増えている。

 この日もトラック。ビルドアップ。新入生は別メニュー。去年のおれたちと同じ。

 グループはふたつ。Aグループは七人。三年の和泉先輩と鹿沼先輩。二年は北澤、中垣、藤井、井上、そしておれ。Bグループは長倉先輩と斉藤、夜野の三人。ビルドアップは予め設定したラップを刻む練習だ。千メートルごとに設定タイムを上げて四千が一セット。これを四セット。十六キロ。能力によるグループ分けは仕方ない。脱落したら意味がない。Aグループは四分から二十秒刻みで三分までアップする。昨年夏からの設定。さすがに慣れた。それでも最後の千メートル三分は五千メートル十五分に相当する。余裕はない。それを北澤と和泉先輩だけは楽々とこなす。おそらくこの二人だけはもう一段上の設定でやれる。望んでもいるはずだ。巻き添えにならないことを祈るしかない。そう思っていた。




   3


 男子の部室は道場の裏手に並んでいる。鉄筋コンクリート造り。ドアを入った横に下駄箱。スノコが一枚あって、その奥にレジャーシートが敷かれている。五畳ないくらいのスペース。一年が入る余裕はない。おれたちも昨年の駅伝以降にようやく使えるようになった。それまでの本拠地はグラウンドの縁に沿って伸びるコンクリート段だった。そこではいろいろ大変な目に遭った。ロードに出ている最中に雨に降られようものなら最悪だ。カバンごとずぶ濡れになったりした。

「おい、大村」と和泉先輩から声がかかる。

 制服はほとんど置きっぱなしだ。通学は雨でも雪でも自転車。行きも帰りもジャージのままだ。いつもならとっくに出ている。脱出が遅れたのは斉藤のせいだ。

「お前、今日の練習まだ余裕あったよな」

「いえ、いっぱいいっぱいです」とおれは即答した。

「おい中垣、お前どうだ?」と今度は中垣に振る。まったく嫌な先輩だ。

「もちろん余裕ですよ」と平然と言い切る。

 思わず舌打ちした。最初から見越している。

「よし。じゃあ、もう少し設定上げるぞ」

「いいですよ」と中垣は太々しく応じた。

「藤井と井上はどうだ?」と先輩は残り二人に目を向ける。

「大丈夫です」と藤井。井上はただうなずくだけだった。

 ズルい奴らだ。特に藤井なんて、先に振られたら絶対おれと同じ返事をしたに決まってる。

「決まりだ。大村、Bグループに移っていいぞ」

「おう。邪魔だから移れ移れ」

 中垣が調子に乗る。

 おれはもう一度、舌打ちした。

「わかりましたよ。やりますよ」

「無理にとは言ってないぞ」

「やらせてください!」

 そう言ったところへ、斉藤がトイレから戻ってきた。

「おー、待たせたな。ちょっと腹の具合が―」

 脳天気すぎる。おれは斉藤をドアの外に向けると、その尻を蹴飛ばした。

「痛っ! なんだよ!!」と斉藤が色をなす。

「お前のせいだ!」

 先輩と北澤が満足げに顔を見合わせている。おれは振り切るように部室を後にした。




   4


 帰り道はいつものメンバー。北澤、中垣、藤井、そして夜野。

「うひゃひゃひゃ、さっきのあれは愉快だったな」と中垣が楽しげに笑う。

「計算ずくだろ?」

 はしゃぐ中垣を尻目に藤井は北澤に話しかけた。

「まさか。あれは先輩の提案だ」

「嘘コケよ……」

 藤井はため息で応えた。

「藤井もやれるだろ?」

「程度によるな」

「先生だって無茶は言わないさ」

「誰を基準にした無茶だよ」

「大丈夫だよ」と北澤はどこまでも楽観的だった。

「おい夜野ー、お前もはやくこっちのグループこいよ」と中垣は夜野の肩を叩いた。

「おれはまだまだだよ」

「平気平気。あの大村だってやれんだからよ」

 夜野は相手にしなかった。ただ自嘲的な笑みを小さく浮かべた。

「夏までには全員同じメニューでやれるといいな」と北澤までが似たようなことを言う。中垣が言う分には冗談で済む。北澤が言うと真実味が加わる。

「なっ!」と中垣はもう一度肩を叩いた。

 夜野は肩にとても重たいものを載せられた気分になった。




   5


 伊勢原駅に向かってペダルを漕ぐ。日はだいぶ長くなった。それでも六時前ともなるとだいぶ暗い。

「うひゃひゃひゃ」

 蹴飛ばされた理由を聞いて、斉藤が嫌な笑い方をした。

「そのアホな笑い方やめろよな」

 まるで中垣が人をバカにするときの笑い方だ。

「いやいや、Aグループは大変だなぁ」

「お前、他人事のように言ってるけど、北澤がBグループを放置しておくと思うか?」

 その瞬間、斉藤はぎくりと押し黙った。

「たぶんBグループもセットだぜ」

「え……、うっそ~」

「うっそなもんかよ」

 そうなるに決まっている。斉藤の口は急に重たくなる。

「お前、あんまり楽してるとまた悪夢の再現だぞ」

 斉藤は中学最後の駅伝でメンバー落ちしている。入部に時間がかかったのはその影響もあった。

「う……うる……、うっそ~」

 うるせぇと言いかけてごまかした。

「ホントだよ」

「お前も厳しいねぇ」

「北澤ほどじゃないだろ」

「あ~あ、やっぱり陸上なんてやるんじゃなかったぜ」

 聞き慣れた台詞。

 黙殺した。

 おれたちはお互いに重苦しくペダルを踏んだ。




   6


 長距離グループの新入生五人のうち、一人が早々に間違いに気づいた。最初の二週間で一年は四人になった。北澤がどんな反応を示すかと思ったが、案外あっさりしていた。

「押しつけたって長続きしないのはわかってる」

「おれは和泉先輩にガミガミ言われ続けてるぞ」

「それはお前にやめる気がないから」

 あっけない返事。

 たしかに。

 練習は嫌いだがやめる気はない。その矛盾がもどかしい。いずれにしても二週間で脱落一人なら上々か。

 放課後。授業が終わって部活が始まるまで三十分。

 おれと北澤が部室に行くと、狭い部室がごった返していた。ブルーシートの床には白黒写真。百枚以上はありそうだ。その写真を先輩や藤井たちがより分けている最中だった。

「なんの写真だ?」とおれは部室の入口にいる夜野に訊いた。

「この間の記録会だって」

「日比野先輩だ」

 手を動かしながら藤井の声。

 日比野先輩―。

 おれたちと入れ違いに卒業した先輩。領南でただ一人の全国大会経験者。推薦入学の話を断って専門学校に行った話は聞いている。写真の専門学校。

「専門学校は半年でやめたらしい。そのあとは沖縄で漁師の手伝いしながら写真撮ってたって」

「へーえ」

「来月からは北海道に行くらしい」と言いつつ、藤井は束ねた写真の塊を後ろ手に差し出した。

「とりあえずお前らの分」

 目はさばききれない写真に向けられたままだ。

 写真の束を受け取った斉藤が、それらをさらにより分けた。おれと北澤と夜野が自分の分を受け取る。井上と中垣(アホ)はまだ姿を見せない。

 おれには五枚の写真が手渡された。写真の善し悪しはわからない。ボケた背景。その中心にぴたっとピントの合った被写体。苦悶の表情。そのなかに京田を追い抜くカットがあった。いかにも苦しげな表情。そこには京田への意識はまったく写っていなかった。図らずもあのゴール後に感じた意外を再認識することになった。

 そこへ中垣がやってきて、にわかに騒がしくなった。

「おー、なんだよその写真。おれのもあるのか? くれ~」

 本当にうるさい。すぐ後ろに井上もいたが、存在感がない。

「行くか」

 北澤がバッグのポケットに写真を突っ込みながら、苦笑いを浮かべておれを見た。

「あぁ」とおれも応じた。

 どかどかと部室の奥に踏み込んでゆく中垣を尻目に、おれたちはグラウンドへと向かった。




   7


 その日の帰りは一人だった。

「用事がある」

 斉藤にしては珍しい。一体なんの用事だ、と思いつつもさほど気にはならなかった。

 晩飯を食って部屋のベッドに横たわり、もらった写真を改めて眺める。

 なぜ京田は戻ってきたのだろう―。

 いくら想像してみても、その答えは曖昧模糊としている。考えても答えは出ない。訊いたところで正直な答えが返ってくるか怪しいところだ。それくらい京田の復帰は意外だった。京田は入学前の春休みから練習に参加して、入学式の時にはもう辞めていたらしい。辞めた部に再び入り直す勇気は並大抵ではない。大根の練習は領南よりもはるかに厳しいはずだ。そんな環境に戻る勇気を京田にもたらした理由とはいったい何だったのだろう。

 そんなことをうとうと考えていたら、いつの間にか寝ていた。そんな寝方をしたせいで、京田が夢にまで出てきた。京田は中学時代の速さをすっかり取り戻していて、おれはその背中を見て走る存在に戻っていた。




   8


 朝から雨だった。

 雨の日の朝練はロードになる。各々が自分のペースでマラソンコースを走る。いつの間にか決まった暗黙のルール。

 雨の中、自転車を漕いで学校についたのが七時半。ずぶ濡れになって部室に入ると、ちょうど北澤が出てくるところだった。

「ちょうどよかった」

「ちっともよくねぇよ」

 間が悪い。北澤と一緒に走って楽だったためしがない。

「電波塔コースに行こう」と走り始めるやいなや早速だ。二キロ半増。長い坂が加わる。反論の余地はない。

 春の雨はまだ冷たい。それを紛らわせるために、自然とペースは上がる。電波塔の坂を上がり始めると、北澤がもう一段ギアを上げた。本練習と変わらない展開。かといって、一人で空回りさせるとあとあとがやっかいだ。無言の抗議に晒される。その空気が和泉先輩に流れて余計面倒臭くなる。やむなく、競って坂を上がる。最後は全力に近いスピードで坂を上がりきった。もちろん負けた。

「ひぃー。勘弁してくれー」とおれは脚を止めた。それに合わせてやむなくといった具合に北澤も立ち止まった。

「ホームルームまであと三十分しかないぞ」と腕時計のデジタル表示をおれに向ける。最近買ったランナー用のデジタルウォッチだ。ブラックのケースはプラスチック製。ナイロンベルトをマジックテープで固定するランナー仕様。

「まったく、嫌な野郎だね……」

 おれは渋々上がってきた坂に脚を向けた。

「お前、ホントに練習好きだよな。斉藤に爪の垢煎じて飲ませてみろよ」

「おれだって好きなわけじゃない」

 スローペースで坂をだらだら下りながら北澤は言った。

「ただ後悔はしたくない」

「誰だって後悔なんかしたくねぇよ」

 でも、せざるを得ない。つらいことや苦しいことは先へ先へと送ってゆく。それがごく普通の考えようというものだ。

「明日があると思うからダメなんだ」

「明日はあるだろ。未来はまだまだずっと先まで続いてる」

「そうとも限らない。未来はいつ終わるかわからない。いつ終わってもおかしくない」

「そりゃ、映画かなにかの見過ぎだ」

「次の角を曲がったときに終わるかもしれない」

「賭けるか?」

「もし角の先でクルマが突っ込んできたら?」

「いちいち考えてたらきりがねぇ」

「例えだよ。おれだって常にそう思って動いてるわけじゃない」

「だろうさ」

 もし、アメリカやソ連の偉いおっさんが核の発射ボタンを押せば、次々と連鎖が起こって地球上の生き物はすべて消滅する。そうなれば、部屋で読書をしてたってアウトだ。

「いま死んでも後悔しない生き方をしたい」

 おれはため息をついた。

「疲れるな」

 茶化す気力さえ沸かない。なにしろ北澤は本気でそう思っている。間違いなく。勝てるわけがない。

 雨は蕭々と降り続いた。幸いにも車には轢かれなかった。核ミサイルも飛んでこなかった。無事に学校に戻ってきた。おそらく十年先も二十年先も、おれたちは普通に生きているはずだ。




   9


 丸九に来るのは何度目だろう。最初に来たのが去年の夏。一学期の期末テスト期間中だった。斉藤が当てた馬券でごちそうになった。

昨日もかなり財布を膨らませたらしい。

 もともと二年の長距離グループはそれほど結束力が高いほうではない。おれと中垣は水と油。バクダンと呼ばれる井上は個人主義。極端なくらい人付き合いが悪い。バイク屋を経営する商売人の息子とは信じがたい。夜野にはほとんど自己主張がない。我の強すぎる中垣(アホ)とは対極。北澤は向上心の塊みたいな奴だが、まとめる能力が欠落している。というよりも、最初からそんな気はないようだ。斉藤は元来のお調子者。大抵の人とは折り合える。唯一、苦手な相手は世界で和泉先輩ただひとりかもしれない。武家の末裔で大地主の長男。これも自分から動くタイプではない。一番まともなのは藤井だろう。あの中垣(アホ)でさえそう思ってるはずだ。今日の丸九だって藤井が七人全員を集めた。井上(バクダン)を連れてくるなんてほとんど奇術に近い。

「しかしよぉ、チョッパゲ」とアホの中垣が不器用にへらを使ってお好み焼きの形を整えながら斉藤を見る。去年の夏、長距離グループ全員で坊主頭になった際、頭に線のようなハゲが見つかって以来、斉藤は時折そう呼ばれている。

「いいのかよ、高校生が馬券なんか買って」と身も蓋もないことを言う。

「文句あるなら帰れ」と藤井が舌打ちする。

「食ってる時点でみんな共犯だから」と斉藤は意に介さない。

 おれの隣では北澤が我関せずだ。意識は鉄板に集中している。この店に初めて来たとき、北澤の作ったお好み焼きはとても食えるような代物ではなかった。あれから何度か来るうちに、かなりまともになってきた。それどころか、いまでは中垣よりも確実にうまい。

「ところで今年の一年には速い奴いるのか?」と斉藤がいかにも斉藤らしい質問をした。

「小物は大変だなぁ。後輩まで気にしなきゃなんねぇのか?」

「お前もちゃんと聞いておけ」とおれは付け加えた。

「なんだと?!」と席の対角線で中垣が腰を浮かす。去年までのおれなら最初から言わない。だが、いまはへっちゃらだ。周りが中垣(アホ)をあしらってくれる。

 おれは無視して鉄板に箸を向けた。すかさず藤井が場を納めにかかる。

「まぁ、いいから座れ。お前、いまから血圧上げてると老人になってから苦労す―」

「うるせぇ!」

 懐柔されて素直に腰を下ろすあたりは、チンパンジー並の学習能力は身につけたらしい。証明して見せた。

「今年入った五人―、四人になったんだっけ。たぶん一番速いのは川口だな。千五百を四分台で走ってる」

「四分台のどれくらいだ?」

「後半だろ。県大会の決勝まではいってないはずだ」

「なんでぇ、遅ぇじゃねぇか」と中垣。

「去年のお前だって似たようなもんだろ」

「うるせぇ!!」

「川口か。強敵だな……」

 斉藤は呟きつつ夜野と顔を見合わせてうなずき合った。

「あとは?」と北澤が訊く。

「そこだ」と指を鳴らして北澤を差す。こいつ、テレビか映画の見過ぎらしい。

「本堂。おれの中学の後輩なんだけどな。ひょっとすると川口より速くなるかもしれない」と隣の中垣を差す。

「お前、ケンカ売ってんのか?」

「変な時期に入部してきた奴だったな。とにかく練習熱心な奴でさ。夏の炎天下でみんながリタイヤしても、必ず最後まで残ってる奴だった」

「井上の後輩もいたよな」と今度は北澤が井上(バクダン)のほうを向く。

 北澤と夜野だけは井上をバクダンとは呼ばない。少なくとも聞いたことはない。

「あぁ」と井上は北澤に目をやった。

「速いのか?」

「さぁ。おれは中三になってからほとんど部活に出てないからな」「どんな奴なんだ?」と今度は藤井が訊く。

 井上はしばらく考えていた。

「……バカなお調子者だ」

「こいつとどっちがバカだ?」と藤井が中垣を指す。

「バカに上も下もない」

「なんだと?!」

「もっともだ」

 いきり立つ中垣を片手で制して藤井はうなずいた。

「残りの一人は夜野の後輩だよな」とすかさず藤井は話題を切り替えた。

 それまで黙っていた夜野がはっとみんなを見渡す。

「あ……あぁ。品川だよね」といつもながら歯切れが悪い。

「どれくらいで走るんだ?」

「まさか、お前より速いってことはないよな?」と中垣がはしゃぐ。そのデコを藤井が叩いた。

「黙ってろ」

 おれがやればケンカになる。藤井や北澤だとそうならないのが不思議だ。

「いまはどうか知らないけど。おれが中三の頃は勝ったり負けたりだったな」

「なんだ、後輩とどっこいどっこいかよ」

 再び叩こうとする藤井にこんどは中垣も身構えてブロックする。「なら大丈夫だ」と北澤。

「いまは勝てるよ」

 こともなげに断言して最後の一切れを平らげた。

「そ……そうかな……」

「圧勝だ」

 こういう時の北澤は実に説得力がある。

「そうか。むしろ危ないのは……」とおれは斉藤に目を移した。はっとした表情で斉藤がおれを見返す。

「お前、いまおれを見たか?」

「見てないよ」

「いや、絶対見た」

「見てないって」

「お前、おれは負けるかもって思っただろ!」

「思ってないって」

 面倒くさくなってきた。

「さて、そろそろ帰るか。斉藤、ごちそうさん」

 藤井がタイミングよく立ち上がるのに合わせてみんなが立ち上がった。

「大村、お前にはおごるのやめた!」

「ごちそうさま~」と言っておれはそそくさと表へ出た。出口はこっちのほうが近い。出た者勝ちだ。

「くっそう、品川だと? 絶対負けねぇからな!」と後ろから斉藤の声が聞こえてくる。

 いやいや、一年は品川だけじゃないから―。

 斉藤との帰り道はその話が別れ際まで続いた。




   10


 開校から九年目。最近は新設校という呼ばれ方もしなくなってきた。もはや個性も特徴もない田舎の高校だ。開校から八年でインターハイに出た生徒は一人。野球部は三回戦進出が一回。サッカー部はない。水泳部はプールさえないから当然ない。生徒数は各学年ほぼ五百人ずつ。古くからあるいわゆる伝統校にはそれほど多くの生徒数を受け入れる教室がない。必然、しわ寄せは新設校に来る。もちろん、生徒数が多いいまはこれで問題ない。だが、将来的には子供の数は減少に向かうらしい。その時に割を食うのも新設校の役割のようだ。三十年後は老人ホームという噂も聞く。

 とはいえ、たとえ事実だとしてもまだ先の話だ。いまこの坂の上で時間はリアルに進み続けている。高校の二十年先、三十年先を気にしている生徒はたぶん一人もいない。考えているとしたら自分の未来だけだ。そしてここには今だけがある。

 おそらく今年の陸上部からは二人―。もしくは三人のインターハイ選手が誕生する。昨年、関東大会に出場した青井菜幹はほぼ確実。三年の和泉先輩も五千で県内五指に入る時計を出している。少なくとも関東大会までは進むだろう。そして北澤。先日の記録会で和泉先輩よりも速いタイムを出している。和泉先輩を抜いたとは思わないが、少なくとも互角のレベルには達している。他はせいぜい県大会の決勝に残れるかどうか。もちろんおれ自身もそこに含まれている。

 インターハイは五千にエントリー。和泉先輩と北澤と同じ種目。練習でも勝てない相手がすでに二人。関東大会のイスは残り四つ。そして数えるまでもなく、速い奴はそれよりはるかに多い。つまり大会の名前に意味などなかった。県大会は関東へのステップではない。最終地点だ。

 県大会の予選にあたる西湘地区大会は落とせない。応援するためだけに行く競技場は足が重い。あんなむなしい気分は昨年の新人戦だけでたくさんだった。落ちればなにを言われるか―。和泉先輩と北澤には傷口に塩をすり込まれる。中垣に笑われるのも癪に障る。

 そして運命のゴールデンウィークは、もうこの週末に迫っていた。

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