(OmeLet!!)

道草

第1話

「オムレツ」と呟いてみる。その音の響きが既に美しい。まるでそう呟かれるためだけにこの世に存在しているような、完全無比の響きがそこにはある。オムレツ、オムレツ。

 ショパンの『英雄ポロネーズ』にのせて呟けば、何やら優雅である。発音も自然と「omelet」になる。

 この音楽的美妙をも含有する西洋料理を生み出した人間を、私は一種の敬意をもって殴り飛ばしたい。「オムレツ万歳」と叫びながら殴りたい。

 さて、今私の目の前にはプレーンオムレツが白い皿の上に乗っかっており、机上のランプに煌々と照らされて淡く光っている。見事なラグビーボール型をしたそれは寸分の狂いも無いシンメトリーであり、思わずその表面積を求めたくなってしまう。

 私は小さなスプーンを手に取って、その黄金色の表面をぺちぺちと叩いてみた。オムレツは心地よい弾力で揺れ、ぷるぷると私を誘惑した。

 そこで一旦スプーンを皿の前に置いて、今一度オムレツを眺めた。オムレツの類いまれなる曲線美に、私は思わず陶酔する。この優しさに満ち溢れた、聖母マリアの掌のような丸みは、料理において他に類を見ない。この丸みは世の邪悪をも優しく包み込み、一切を抱擁して浄化し得る丸みである。これこそ無形文化遺産に相応しい食べ物なのではなかろうか。

 私はケチャップを冷蔵庫から取り出し、深呼吸をしてからオムレツにそれをかけた。真っ赤な正弦曲線がオムレツを彩り、卵の太陽色と見事に調和した。

 このオムレツを抱けたならば、どれほど幸せだろうか。人間の深層心理が求める愛というものは、実はこのオムレツにあるのではないだろうか。なるほど、鳩が平和の象徴であるように、オムレツは愛の象徴であるのかもしれない。

 私は再びスプーンを手に取り、オムレツの左先端、結び目の綺麗にまとまった部分をすくおうとした。

 しかしスプーンがオムレツに触れる瞬間、私は躊躇った。

 何かが私を拒んだのだ。

 私は早くも、そのオムレツに対して親愛を抱き始めていた。その親愛ゆえに、繊細な美しい身をスプーンで裂くのは憚られたのである。

 私はスプーンを再び元の位置に戻して、腕を組んだ。

 私の意識はオムレツの真上で葛藤し、矛盾する親愛と食欲の間で煩悶した。私はこのオムレツを食べたいが、心に深く根を張った親愛がそれを拒み、一方で腹はぐうぐうと無遠慮な音を立て、しかし一向に手は動かず、それでも目はオムレツを見つめ続けた。

 愛と苦悩は表裏一体である。人間の欲は相反しながらも絡み合う矛盾の蔦である。

「オムレツよ、私はどうすればよいのか」

 悩み続けた挙句、私はオムレツにこう問うていた。無論オムレツは沈黙している。

 もし私が食べずにただ愛で続けたならば、このオムレツは如何なる最期を遂げるか。例えこれほどまでの美しさであろうと、時間は容赦なく奪い去っていくだろう。太陽でさえ永遠ではないのである。オムレツが輝きを放っていられるのは、ごく僅かな時間である。

 ならばせめて、美しいままの姿で食べてやることがオムレツにとっても本望なのではなかろうか。オムレツは美しいまま私の記憶に残り続けるのである。腹ではなく、心へ入れればその美しさは不変である。

 私は再びスプーンを持ち上げた。

 そして今度こそ先端をスプーンですくい、ゆっくりと目の高さまで持ち上げた。オムレツの欠片は小さなスプーンの中にちょこんと収まり、スプーンの銀の中で一層強い金の光を放った。それは輪光となってオムレツを囲い、神々しさすら感じられた。

「いただきます」

 そう言ってオムレツを口に含んだ瞬間、私は未だかつてない衝撃を受けた。卵の風味が広がり、口内でカンブリア爆発が起こったかのようであった。あまりの衝撃に、私はしばらくその場を右往左往した。あと少しで踊り出すところであった。否、すでに踊り狂っていた。

 やがて落ち着いてくると、私は再びオムレツの前に座った。先程スプーンですくった部分の断面を見てみる。やや湿り気を帯びたそれは柔らかく固まっており、きめ細かく卵が密集している。

「おォ……」

 それから私は人間の理性を失い、黙々とオムレツを食べた。他のものは何も眼中になかった。白い皿の上で、そこには私とオムレツしかいなかった。


     *


 不意に時計の時報が私の耳に入った。私が最後の一口を丁度口へ運んだときのことであった。そうして私は我に返った。

 私は皿の空白をじいっと眺め、眠っていた間の夢を思い出すようにオムレツを脳裏に描いてみた。しかしその輪郭は蜃気楼のように揺らめいて、表面の色は大理石模様に渦巻いた。

 あれだけ美しかったものを、美しすぎたがゆえに、私は思い出せなくなっていた。私の心の中のどのオムレツも、先程まで皿にあったオムレツの美しさには遠く及ばないものであった。

 その事実に気付いたとき、私の心は不意に寂寞たる様相を呈した。私は果てしなき虚空を彷徨い、あるはずのないオムレツを捜し求めた。

 それからしばらくして、机上のランプが淡く明滅したとき、朦朧としていた私の意識が徐々に固まり始め、やがてラグビーボール型になった。それはぽこぽこと分裂して増殖し、たちまち脳内をぎうぎうに満たした。

 それらは無数のオムレツであった。

 かくして私は気付いたのである。一つのオムレツに執着する必要はないのである。オムレツは、オムレツであるというだけで既に美しいのである。

 私の心を満たし得るのは、オムレツである。

 私は「ようし」と呟いて、席を立った。それからキッチンへ向かい、冷蔵庫を開く。もう一度オムレツを食べるのである。

 しかし、私はそこで卵を切らしていることに気付き、再び無限の虚空を彷徨うことになったのである。

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