⑩ 台風一過

 チャイムも無く、ロータリーを行くバスの音も無く、夜のホームでは静かに時間が流れている。カホは近くの青いベンチに腰を下ろし、はーっとため息を付いた。照明に照らされて、白い息が浮かび上がったかと思うと、ホームを飛び出して闇の中に消えてゆく。左を向いて、電車が来るであろう線路の先を見た。住宅地に向かって、緩やかなカーブが伸びている。駅を出て数分の場所にある踏切が音も無く赤く点滅しているのが見える。つまり、電車は近くまで来ているはずだが、カホがいくら目を凝らしたところで影すら見えはしなかった。昔だったら見えたのかな、とズレた眼鏡を正位置に戻しながら彼女は思った。

 一度腰を上げ、傍にある自販機へ向かった。ピューッと寒風が頬を掠めたので、チェックのマフラーをグイッと顎の上まで引き上げると、黒いバッグの中から財布を取り出す。百円を一枚と、十円を二枚。硬貨を入れて、最下段の淡い橙色のボタンを押すと、自販機がココアの缶を吐き出した。缶を掴むと、冷えた手が暖まって、そのうち激しい痛みに変わっていく。左手に右手に、と缶を持ち替えながら、彼女は再びベンチに座った。電車は未だに見えなかった。

 五人掛けのベンチの右端に彼女は座り、同じタイミングでパーカーを着た男性が左端に座った。二人は黙って、列車の到来を待っていた。男は黒いパーカーの前を開け、その下にベージュ色の薄いポロシャツを一枚着ているだけだった。子供の頃、年中半そでだったタイプのおじさんだな、とカホは横目で彼を見た。そして、ココア缶に目を落とした。相変わらず、凄まじい熱さで握ることもままならない。

 そうしていると、ベンチの下からひょっこりと小さい影が伸びた。カホは驚いて、一瞬手の動きを止めたが、ココアの熱さに耐えきれなくなり、またすぐに再開した。ヒリヒリと痛む手の感覚に眉をひそめながら、彼女は足の間から現れたそれを見た。一匹のドバトだった。街中でよく見るように、何の考えも感じられない瞳を前方に向けながら、首を振ってベンチの前をペタペタと歩き回った。この時、人生で初めて、カホはハトをじっくりと眺めた。ふさふさと、櫛で撫でつけられたような毛並み。人工的な眩い光を受け、首元で鮮やかに輝く薄いピンクとシアンブルー。白と灰のモザイク模様がついた羽。日常にいる鳥にしては、かなり綺麗だなと、彼女は思った。

 ハトはベンチの前をクルクルと二周、円を描くように歩き回ると、ピタリとカホのほうを向いて止まった。その瞳は真っすぐ、カホの持つ缶に引き寄せられ、くぎ付けになっていた。ハトはピタリとも動かなかった。

「ちがうよ」カホは囁くように言った。「お前のじゃないの」鳩にはその声は届かず、口元の動きしか分からない。だからなのかは分からないが、ハトは右に向かって首を傾げた。

「お前にはあげない」

カホはハトの目をじっと見ながら、手の動きを止めた。ココアは手で持てる熱さになっていた。プルタブを起こすと、中からチョコの甘ったるい匂いが溢れ出た。ふうーっと息を吹きかけて、熱気と立ち昇る湯気を飛ばすと、少しだけ啜った。甘さと喉を通る熱で、体内がジワリと暖まったが、舌の先がビリビリと痛んだ。眼鏡が曇って、ハトがぼやけた灰色の塊に変わった。

ハトはなおもカホのことをじっと見た。カホもハトをじっと見つめた。ハトを見るために、カホは湯気で曇った眼鏡を外した。そうして、黙ってお互い見つめ合いながら、カホだけがココアの缶を傾けて、チョコレートの絡みつくような甘さを味わった。続けて二言、このココアがお前の餌などではない旨をハトに告げたが、向こうはそんなの知ったことではないと視線を逸らさなかった。

カホはこのハトを見ているのが段々と面白くなってきた。彼女はバッグのファスナーを開け、中に腕を突っ込むと、あたかも何かを取り出したかのような仕草をした。ハトの首が前にクッと動き、ペタペタと彼女に近づいて来た。次にカホは何かを掴み、それをバラまくような仕草をした。そうすると、ハトは無我夢中で地面を突っつき始める。カホはその姿を見て、声は出さなかったが、顔はニヤけて仕方がなかった。ハトの勘違いを可愛く思う気持ちと、ハトの頭脳の小ささを嘲笑う気持ちが、彼女をそういう表情にさせた。しかし、ハトも筋金入りのバカではない。次第にそれが彼女のウソだと分かると、地面を突くのを止め、再び彼女に向き直った。その目は、自分を騙した彼女を責めるような目ではなく、あくまで餌を乞うような、急かすような目だった。

「ごめんね、ないんだよ」

彼女は少しバツが悪そうに、笑って囁いたが、ハトは依然として、彼女に餌を期待していた。カホは腕を組んで、ハトから目を反らしたが、頭の中はいつまでもハトに対する罪悪感で一杯だった。

 そのとき、助け舟を出す様に、電車の到着を告げるチャイムが鳴った。カホは眼鏡を掛けると、再び腕を組んで線路の先を見た。立ち並ぶ住宅の合間合間から、電車の眩いヘッドライトが断続的に光を放っている。ポポッと近くで低い音がしたが、カホはそちらに視線を向けなかった。

 電車は遂に踏切を越え、ホームに進入しようとしていた。カホは缶を傾けて、喉をジリジリと焼きながら、ココアを胃へ流し込んだ。立ち上がって自販機の傍にあるゴミ箱に近づく。カホはわざと缶を投げてゴミ箱に捨てた。そうして、あたかもハトを気にしてないかのように振舞おうとした。ハトは、特に落胆の色も見せず、またベンチの前をペタペタと巡回し始めた。

 カホは再三、ベンチに腰を下ろした。電車に乗る段になるまで、なるべくベンチから離れたくなかった。彼女がハトと電車とパーカーの男性を一度に視界に捉えたそのとき、男性の携帯が鳴った。彼はパーカーに入っていた黒いスマートフォンを取り出すと、画面をタップして耳に当てた。

「もしもし……あぁ、こんばんは」

電車はホームの端に差し掛かっていた。男を横目に、カホは電車の赤い帯を見ていた。

 突然、男性が歓喜の声色で叫んだ。

「マジか、良かったじゃん!」

バッ、と男性が勢いよく立ち上がった瞬間、それに驚いたハトもバッ、と飛び立った。

「まっ……」

カホも反射的に立ち上がった。しかし、ハトはすでに電車の目の前に飛び出していた。バン、という風船の弾けるような音がしたかと思うと、白い羽が爆発したように、辺りに飛び散った。撥ねられたハトはベンチに向かって弾き飛ばされ、驚いた表情のカホの顔面に直撃した。カホはバランスを崩して転倒し、そのままベンチに頭をぶつけた。カホは声にならない掠れた呻きを口から漏らしながら、ホームのザラザラとしたコンクリートを掴み、うずくまって横たわった。ハトが直撃した鼻先と、ベンチにぶつけた右側頭が、拍動に合わせて、ズキ、ズキ、と周期的に激しく痛む。地面につけた右頬が、何やら生暖かい感触に包まれた。腕を突っ張って上体を起こすと、地面に黒い水溜まりが出来ているのが、歪む視界と割れたレンズ越しに見えた。彼女の額の右端からは、それに向かってポツリポツリと血が垂れていた。その傍では、体の右半分が大きく変形したハトが地面で激しくのたうち回っている。ハトは数回それを繰り返した後、ググッとゆっくり首を垂らし、遂に動かなくなった。電車がシューッと空気を吐いて止まり、ドアが開いて車内の光がハトの上に注がれた。

「……」

人生初の大量出血と目の前のハトの死によって、カホはただ、混乱することしか出来なかった。右手で傷口を押さえて、ただハトの亡骸を見つめていた。

 男性は数秒の間、その光景に唖然としていたが、我に返ると直ぐに電話に向かって話を始めた。

「ごめん、ちょっと、後でかけ直すから。……うん、ごめんな。いや、大丈夫だって。そこに受かれたなら、お前の人生はバラ色も同然だって!」


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いつかの鳥について トロッコ @coin_toss2007

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