⑨ 星の殺し方

 見渡す限りの草原に光が一つ、ポツリと佇んでいた。一台の車から発せられている光。夜を振り払う力強い光だった。カカカカと軽いエンジン音を鳴らし、車はじっと動かない。ふと、車のドアが開く。運転席からトレンチコートの男が出て来た。男は道をふさいでいるテープに近づいた。テープは道の両側に立つ電柱に巻き付けられていて、五年間もの間、風雨にさらされたために、「KEEP OUT」の文字は掠れている。男はコートのポケットから折り畳みナイフを取り出し、それを切ると、再び車に乗り込んで草原を進み始めた。

 空は星に溢れていた。白や黄色、赤など色とりどりの星々が彼の行く先を照らしている。男は少し前かがみになってフロントから、頭上の空を眺めた。あれがオリオン座だと、幼い娘が得意げに話していたことを男は思い出す。

「オリオン座ってさ、真ん中に三つ星が見えるでしょ?」娘がビルの向こうのオリオン座を指差した。都会の灯に照らされて、ほぼ消えかけているような、おぼろな星座だった。

「確かに三つあるな」

「アレの名前知ってる?」

「いやぁ、知らないなぁ」

「アレがね」娘は一番左の星を指す。「ミンタクで、その次がアルニラムで、最後がアルタニクっていうんだよ」

「そうなのか?」男は笑った。「ホントに物知りだな、お前は。」

娘はニコニコと父親に笑みを見せると、星空に視線を移した。彼女は俯くと、顔の前で両手を強く握り合わせ、ギュッと目を瞑った。

「パパがタバコを止めますように!」

男はフフッと笑った。「それ流れ星じゃないと効果ないんじゃないのか?」

「オリオン座でも叶えてくれるよ」

「どうしてそう思うんだ?」

「だって、神様っぽくない? 『オリオン』って」

「そうか?」

「絶対、神様の名前だよ」

「……確かに」

男はオリオン座の三ツ星を見つめていた。その日だけ、ひときわ強く輝いているような気がした。

「そんなに止めてほしいのか?」

「パパが死んじゃうのは嫌だ」

「死んじゃう?」

「タバコ吸ってる人って死にやすいんだって」

「だからパパが死ぬと思ってるのか」

「うん」

「パパはそんくらいで死んだりしない」

「でも、肺がボロボロになっちゃうんだよ」

「大丈夫だよ」

「でも、止めてほしいんだよ……」娘は俯いた。

男は娘の顔を見つめていた。口がもごもごと小刻みに動いていたが、その目が少し煌めくのを見て、意を決したように口を開いた。

「パパは神様じゃないが、お前がそこまで言うなら止めるよ。」

「え?」

「タバコは止める」

「ホントに?」

「あぁ、」夜空を見上げたまま、男は言った。「ホントだ」

その日の夜、彼は二十数年付き添ったライターを都会の川へ手放した。波紋を受けて、水面のオリオン座が揺らめいた。

 甘い回想から戻ってくると、男は車を停めた。前方に黒い巨大な塊が見える。目を凝らすと、それは街だった。夜だというのに街灯はおろか家々の窓にすら灯りはついていない。空を溢れんばかりの星に照らされ、その錆びた街並みをぼんやり浮かび上がらせるだけである。男はギアを一速に入れ、ゆっくりと街の中へと入っていった。

 男は車を徐行させたまま助手席の方へ手を伸ばした。グローブボックスをカチッと開き、中から一枚のメモを取り出す。依頼人の拙く、細長い文字がメモには刻まれていた。メモに書かれた情報を横身に見ながら、外の景色を眺めた。街は完全に朽ち果てていた。放置された自転車に花が絡みつき、建物のコンクリートから短い草が噴き出す様に生い茂っている。アーケードからはツタが垂れさがり、メインストリートのアスファルトに出来た大きな窪みに水が溜まって浅い池が出来ていた。エンジンを止めて車を降り、池を覗き込んだ。揺れることのない水面に中折れ帽を被った男の顔が映り、背景に一面の星空が構えていた。街には人はおろか、動物すら存在しないように思われた。通りは完全な静寂に包まれていた。時が止まったような完全なる沈黙がそこにはあった。ふうーっと、息を吐き出して、白い霞を空気中に投げ出しても、それはすぐ星空に吸い込まれ、再び完全な沈黙が始まるのだった。男は車に戻り、エンジンが沈黙を引き裂いてパラパラと音を立て始めた。通りをもう一度進んだ。

 街の中心から少し外れた辺りまで来ると、男は急に車を停めた。彼の右には朽ちたガソリンスタンドが佇んでいた。メモを見、もう一度ガソリンスタンドを見た。このガソリンスタンドこそ依頼人が教えた建物に違いなかった。男は開いたままグローブボックスに再び手を突っ込むと自動拳銃を取り出し、ズボンの後ろに挟むと、エンジンを切って外に出た。

 ガソリンスタンドに屋根はなく、二台の給油機は野ざらしだった。男はその傍を通り過ぎると、事務所らしき一階建ての建物に近づいた。ガラス張りのドアを少し押すと、後は勝手にキキーッと開いていった。懐中電灯を点け、男は建物に入っていった。入るとすぐに簡単なコンビニがあり、その奥が事務所になっていた。彼はゆっくりと一歩一歩踏みしめるように事務所を目指した。棚には商品がまだ幾つか置かれていた。新聞、ビール缶、ボールペン、イチゴのグミ、チョコレート、青いタオルに制汗スプレー……。店の床はやはり所々窪んでおり、黒い水溜まりが出来ている。まるで外の闇が店の中へと侵蝕してきているようだった。そこにもあの満天の星空が浮かんでいた。

 男は事務所のドアを開けた。木製のデスクが部屋の中心に置かれている。男は引き出しを幾つか探ると、目的のものを探り当てた。幾つかの書類だった。男はそれをポケットにねじ込むと、事務所を後にした。店の中は相変わらず、外と同じような静寂に包まれている。男は窓の外の空を見やった。その瞬間、不思議な違和感と、奇妙な感覚に襲われた。長年の探偵としての勘が彼の脳に働きかけた。


今すぐに伏せろ


彼は咄嗟に地面に伏せた。そのとき、彼は違和感の正体に気が付いた。空の中心に佇むオリオン座。その真ん中に星が四つあった。

 次の瞬間、窓ガラスが沈黙を破って弾けた。男は窓に近い商品棚に身を寄せると、ズボンに差した拳銃を引き抜き、右手に握った。耳を澄ます。何も聞こえない。街は元の静寂に戻っていた。そう思うと、次のガラスが弾けた。男は荒く息をつく。彼には何が何だか分からなかった。銃声は聞こえなかったはずだ。なのに、なのに一体何が起こってるんだ?

 次にガラスが砕けた時、男の銃が何かに弾かれた。銃は店の床を滑っていき、黒い水溜まりに沈んだ。男は水溜まりまで這って行き、水溜まりに手を突っ込んだが、フニフニとした感触が手に残るばかりで銃はなかった。男は悪態をつくと、うつ伏せのまま店内を見渡した。武器として使えそうなものは何もない。いや、そんなわけない、何かあるはずだ、と血眼になって探す。が、やはり何もない。男が絶望に打ちひしがれながら、ふと水溜まりに目を戻すと、水溜まりの端に銀色に何かが光っているのを発見した。男はそれを掴んだ。それは彼が手放したものにそっくりのオイルライターだった。蓋を開け、滑車を親指の腹で思い切り回転させる。彼の顔をボッと小さな炎が照らした。まだ使える。男は店をもう一度見渡した。そして、とある棚の前まで這って行くと、腕を伸ばして最上段にある制汗スプレーを指で小突いた。バランスを崩した制汗スプレーが棚から落下し、カン、と床を跳ねる。男はコロコロと転がっていくスプレーに這って追いつくと、左手にスプレー缶を握り、右手にライターを持ち替えた。そして男は窓際の壁にもたれかかった。少なくともここからなら外から見えないはずだった。

 しかし、それでも攻撃は男の傍のガラスを襲った。男は半ばパニック状態になり、無意識の内に目を瞑ってライターの火を点け、制汗スプレーを空中に吹き付けた。目を開くと、実に奇妙な光景が男の目の前で起こっていた。「宙」が燃えていた。店の中の、宙の一点が燃えていたのだ。燃える「宙」は曲がりくねった軌道を描いて飛ぶと、途端に落下した。地面に着くなり、火は消え、何も残ってはいなかった。

 男の混乱は更に加速した。あろうことか男は窓から大きく顔を出し、外の景色を眺めた。星空を見た。やはり満天の星で輝いている。しかし、やはり違和感がある。あんなに星が多かったか? それにあの三ツ星は、もう明らかに三ツ星ではなかった。そこには何百という夥しい数の星が存在していたのだ。

 突然、最後のガラスが砕けた。男は大胆にも店の中から飛び出した。夜空の「星」が動いたのを、彼は目撃した。「星」は夜空で動いたと思うと、急降下し、キラリと輝いて男の肌を掠めていく。制汗スプレーとライターを振り回し、一目散に車へと駆け出した。給油機の傍を通る際、直前までその存在に気が付かず、慌てて火を消した。火炎放射を食らった「星」は、ゴウゴウと燃え、全て同じように曲がりくねった軌道を描いては地面で燃え尽きるのだった。

 男は車に乗り込むと、アクセルを目いっぱい踏み込んだ。ギャギャーッとタイヤが悲鳴を上げ、車が急発進した。車のガラスも破られ、男は腕で顔を覆った。ガラスの破片でコートの袖が着れた。男は街中を駆け抜けて、あのテープの外に出ようとあがいた。その間、車のボディーに何かがめり込む音がし、ガラスが一枚、また一枚と割られていく。急に、ハンドルが聞かなくなった。タイヤを破られたのだ。車は制御を失い、メインストリートにあった窪みの池に落下した。

 ドアを開けて池の中に立ち、男はよろめいた。血がその額を伝って頬へと流れてゆく。車の中にあった制汗スプレーとライターを掴むと、頭上のアスファルトを掴んだ。血塗れの手足を動かしながら、何とか窪みから這い出すと、男は走り出した。再び制汗スプレーを吹き付けようとしたが、もう何も出てこなかった。缶の横には大きな穴が開いていた。すると、走る男の右肩を何かが食い破った。「星」に貫かれたのだ。男は一瞬、衝撃によろめいたが、左手で肩を押さえてすぐに持ち直し、アーケードの下のレストランへと飛び込んだ。

 男は壁に背を持たせかけると、そのままずるずると壁を擦って座り込んだ。赤い軌跡が壁に描かれた。男は絶望していた。もう俺は「星」に殺されるしかない。何も考えられなかった。額から流れた血がルートを変え、今度は彼の目に流れ込む。彼はそっと目を閉じた。自分の呼吸が弱くなっていくのが感じられる。暗黒の中で、彼はどこまでも落ちて行った。

 しかしふと、右手にある感触を思い出した。硬くて、つるりとしている。蓋が付いていて、それが開くと、滑車が現れる。それを強く回すと、赤く燃え上がった。彼は痛みで目が覚めた。見ると、人差し指の皮膚が真っ赤にただれ、握っていたライターに火が付いていた。男はゆっくりと身体を動かし、窓から外を覗いた。車が窪みの黒い水溜まりに光を投げかけている。車は黒々とした血を、左後部から流していた。窪みの向こうには、草原が広がっている。男は空を見上げた。未だにそこには夥しい数の「星」がひしめき合っていた。そうだ。俺は帰らなくちゃいけない。男は再び立ち上がると、レストランから飛び出した。

 男は窪みへ向かって全力で駆けた。もし自分の考えが正しければ、「星」は俺を一直線に追ってくるはずだ。ならその通り道に、「壁」を用意してやればいい。チャンスは一度しかない。男は有らん限りの力を持って走った。そして、窪みに差し掛かった。今だ。彼はライターに火を点け、窪みの端を蹴って飛んだ。火のついたライターを車に向かって投げ込むと、車は爆発的に炎上し始めた。男は何とか窪みの向こう側に着地した。男は燃え上がる窪みのほうを振り返った。すると、幾つもの「星」が車の爆炎を潜り抜け、その身体に火を点けた。何百、何千という火のついた「星」が男のそばを掠めて行った。そのどれもがあの奇妙な軌道を描いて落下し、焼失した。男は街の外へ歩き出した。もう、何も追って来るものはなかった。男は広がる草原を眺め、そこを横断する道の先を眺めた。彼の足取りはおぼつかなかったが、不思議と不安はなかった。彼は必ず次の街に辿り着けると、娘の下に帰れると確信していた。空ではあのオリオンの三ツ星が、ひときわ強く輝いていた。

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