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最初はそんな風に、飲み会が終わってから映画をただ一緒に見るだけの仲だった。そのうち、映画が終わってからカフェで感想を語り合うようになった。
私はあまり、登場人物に感情移入はせず、全体的な物語の構成や、シーンの素晴らしさに感銘を受ける性質だったが、彼は完全に物語に没入して登場人物が泣くシーンで一緒に泣くような人なので、全然違う視点の感想が聞けて面白かった。
彼もそう思ったのだろう。最初は私が勝手に、映画を見に行く彼についていくスタンスだったが、そのうち、彼のほうから誘ってくれることが増えた。
気が付けば、映画館での席は隣同士になり、帰りの時間はどんどん遅くなっていった。
最初に体を重ねたのは、どちらから誘ったのだったか。
なぜか、今までになく必死だったので、あまり覚えていない。お酒も入っていたかもしれない。
ただ一つ覚えているのは、他人のような、自分の声。
「ねぇ、私を見て」
熱い体を抱き寄せながら、私は何度も懇願した。彼のうるんだ瞳を何度も覗き込んで、私の望む熱を探した。彼を受け入れながら絡めた手は、震えていた。
彼の目には、隠しきれない罪悪感と、温もりを渇望する亡者のような冷たい炎が揺らめいていた。彼もきっと、救いも未来もない欲望に身を投じたことが、怖かったのだろう。
私は初めて、泣くほどに乱れた。体が芯から溶けてしまうのではと恐ろしくなるほどに。そして、さらに恐ろしかったのは、事が終わった後も、自分が心身ともに彼を貪欲に求めていることだった。
私たちは出会うべくして出会ったのだと。
そして出会うタイミングを、間違えてしまったのだと。
何度も逢瀬を繰り返す中で、そうやって言い訳をしながら自分をだましていた。
そうしないと、みじめで狡猾で淫らな自分を直視できなかったから。
「美沙、愛しているよ」
彼が耳元で囁く言葉が、吐息が、私を夜に溺れさせる。
私は何かを、ただひたすらに欲していた。いくら体が満たされても、その、心から欲しいものはなかなか手に入らなかった。
私は彼の首に手をまわし、彼の顔を覗き込みながら、囁き返す。
「ねぇ、私を見て」
そのうち、映画を見る頻度は減り、仕事終わりにホテルへ直行し、夕飯を食べて帰るという流れが通常になった。
なんだか完全に体の関係だけになってしまったようで、少し不安だった私は、ある日彼に久しぶりに映画に誘われて、心から嬉しかったのだ。
「これ、本当に大好きな映画なんだ。また映画館で観れるなんて、嬉しいなぁ」
映画館に向かいながら、彼の声は弾んでいた。その映画は、十年ほど前に流行ったミュージカル映画だった。
男女が出会い、恋に落ち、そして時の流れの中ですれ違い、それぞれの答えを出すという、王道の恋愛もの。音楽やダンスがすばらしくて、私も当時、何回も映画館に足を運んだことを思い出す。
最後のシーンが本当に感動的で、音楽も相まって、周りで号泣している人が沢山いたなぁということも思い出した。
きっと、彼は最後のシーンで号泣するだろう。私の予想通り、スクリーンの青白い光に照らされた彼の頬には、滂沱の涙が流れていた。その顔を隣で盗み見ながら、私の胸には言葉に言い表せない愛おしさがこみ上げた。
私は同じシーンを見ても泣けないけれど、こんなに泣ける彼が心底可愛いな、と思う。愛おしいな、と思う。その人間らしい熱が、おそらく私の惹かれている部分なのだ。
私も、この人の様に映画を見て泣ける心を持っていたらよかったのに。
そんなことを思いながら、二人でシアタールームを出た時だった。彼が赤くなった目元を緩ませて、愛おしそうな顔で私の顔を覗き込んだのだ。
「昔一緒にこの映画を観たとき、二人で最後号泣したよな!」
「え」
私は言葉をなくして立ち止まった。胸の中で、透明な泡が音もなく弾けた。
「それ、私じゃない」
「えっ」
彼は狼狽えた顔で、一瞬視線をさまよわせた。何か記憶をたどるような遠い目をして、「あ」と小さくつぶやく。そして、ごまかす様に笑って見せた。
「ごめんごめん、勘違いだった」
私は感情の抜け落ちた顔で作り笑いを浮かべた。そう、勘違いだ。十年前の映画だもの。私と一緒に観ているはずがない。彼が一緒に観たのはきっと、きっと。
あんなに愛おしそうな顔で、同じシーンで共に涙を流したことを共有したかったのは、きっと。
そうだ。最初から分かっていた。最初に彼の目を見て恋に落ちてしまったときから、ずっと。私が欲しくてしょうがなかった彼の目に映っていたのは。
最初からずっと、私ではなかったのだ。
心の底から、笑いがこみ上げた。それと同時に、胸がかき乱されるように苦しくなって、気が付くと頬に熱いものが一筋、流れていた。泣いたのなんて、何年ぶりだろうか。私の中にも、こんなに熱い液体が流れていたのだなと驚いてしまう。それを彼から気付かれないように指先ではらって、私は一つ、深呼吸をした。
彼の前に進み出て、向かい合う。
「ねぇ、純ちゃん」
改まったように呼びかけると、彼は驚いたように私を見た。
顔面の筋肉を総動員して、自分が一番可愛く見える笑顔を浮かべて見せる。
「もう、会わない。さようなら」
わけがわからず、その場に棒立ちになっている彼に背を向けて、私は颯爽と歩きだした。
儚く泡の様になんて、消えてやらない。
彼の記憶に残る私の最後の笑顔が、どこまでもしたたかであればいいと、心から願った。
泡が消えるとき 音はしない 茅野 明空(かやの めあ) @abobobolife
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