泡が消えるとき 音はしない

茅野 明空(かやの めあ)

<1>



 私は幼いころ、“人魚姫”の話が大嫌いだった。


 人間に恋をして、自分の姿かたちを変えてまで相手の世界に踏み込んで、そしてあっけなく捨てられ、泡となって消えていく少女。

 恋に恋する人魚姫の描写に、嫌悪感を覚えた。少し怖いと思ったくらいだ。自分ではない何かになってしまうような、“恋”とはそんなものなのかと。

 馬鹿な女だ。私は絶対に、こんな女にはならないと強く思ったのを、今でも覚えている。


 おそらく、私は他の女たちよりもドライな性質なのかもしれない。

 “恋に溺れる”という感情に陥ったことがなかった。初恋ですら、なんとなくあの人いいな、と仄かに想いを寄せていただけで、自分から告白をするでもなく、そしてその人に彼女ができたというまことしやかな噂を聞いた途端、あっさりと想いを断ち切った。その程度の心の動きだった。

 高校生、大学生、社会人となっていく過程で、何人かの男と付き合うこともあった。まぁそこそこに楽しいなと思う瞬間もあることはあったけれど、私の中で、男というのは面倒くさい生き物だという想いの方がどんどん強くなっていった。

 自己顕示欲が強くて、そのくせだいぶ繊細で、幼稚で、慣れてくると、まるで私を所有物のように扱ってくる。あつかましい生き物。


 いらないな、と思った。二十代後半に差し掛かるころだ。

 結婚したところで、男という生き物が変わるはずなどない。むしろ、年々相手にうんざりすることが増えていくのだろう。そして、それは相手も同じこと。そんながんじがらめの契約関係を、この先何十年も、自分は続けていけるだろうか?

 答えはわかりきっていた。同年代の友達が次々と結婚していくのを横目で眺めながら、私はその場限りの関係や、短い期間だけ付き合うことを繰り返していた。それが一番、心地よかったから。

 要領よく、楽しい時間だけつまみ食いして、心穏やかに生きていく。そう決めていた。



 彼に出会ったのは、会社での飲み会だった。


 三十人程度で、そこそこおしゃれな居酒屋の個室で行われた、他部署との親睦会。上司がいる間はみんなおしとやかに仕事の話などをしながら飲み交わしていたが、程よく酔った上司達がお先にと退出すると、その場は出会いを求める男女の合コン会場へと様変わりした。

 女性の多い部署と、男性の多い部署同士だったので、その変化は必然だったのかもしれない。イケメン花形営業部の男性に自分の部署の若い女子たちが群がっているのをぼんやり眺めながら、私は黙々と残っているサラダや揚げ物を口に運んでいた。こういうとき、手つかずで残されてしまう食材たちが可哀そうに思えてしまうのは私だけか。

 自然と、テーブルのはしにぽつんと取り残される形になったが、もう一人、私と同じように取り残されている男性がいた。

 第一印象は地味な人だな、だった。顔だちも整っていて、座っているので定かではないが、おそらく平均以上の高身長だと思われる。清潔感のある身なりもしていて、普通だったらイケメンの部類に入りそうなのに、なんだかオーラがパッとしない、そんな男性。

 ちらっと彼の左手に目をやり、私は秘かに納得した。薬指に光る指輪。そりゃぁ、既婚男性からしたらこの場は退屈この上ないだろう。上司もいないからここに残らないといけない理由もない。そろそろ退出するのかな、と思ったが、男性は何か熱心に携帯を操作していた。

 眉間にしわを寄せていた顔が、何かを見つけた様子でパッと輝いた。


「あった!」


 無意識だろうか、声が漏れている。

 余り物もあらから食べつくし、手持無沙汰だった私は、男性に声を掛けた。


「何があったんですか?」

「えっ」


 男性は驚いたように顔をあげて私を見ると、照れたように頭をかいた。


「あ、声出てましたか」

「はい。よほどうれしかったんですね」


 当たり障りのない笑顔で小首をかしげて見せる。男性は一瞬、恥ずかしそうに視線を外した後、「実は」と口を開いた。


「この後レイトショーで映画でも見ようかなと思っていて、近くの映画館の上映スケジュール見てたんですけど、僕が大好きな古い映画がやっていて、しかもちょうどいい時間だったから嬉しくて」


 そう話す男性の声は弾んでいる。私は興味本位で「なんていう映画ですか?」と尋ねてみた。男性は迷うようなそぶりを見せたが、


「多分そんな有名な映画じゃないから知らないと思うけど……」


 そう前置きして、映画の題名と写真が映った携帯の画面を見せてくれた。それは、三十年ほど前の洋画で、ある程度有名な監督の作品だが、内容が地味なので確かにそこまでの知名度はないものだった。だが、私の口は自然とほころんでいた。実は私も、その映画が好きだったのだ。


「あ、私もこれ好きです。いいですよねぇ、なんだかあったかくて」


 何の気なしに言って顔を上げた私は、男性の顔を見て驚いた。まるで別人のように、彼の目がキラキラと輝いていたのだ。


「本当ですか!?」


 ぐいっと身を乗り出してきた彼に、私は少し気圧されながらも頷く。


「え、えぇ。若いころのディカプリオの演技がすごくて、驚いたのを覚えてます」

「そうなんですよね! 彼の演技が本当に光ってますよね! それに、最後のシーンとか、主人公のあの表情が清々しくて、また何度も見たくなる映画なんですよねぇ」


 突然饒舌に、楽しそうに話し出す彼を見て、あぁ、本当に映画が好きなんだなぁ、なんだか可愛いなぁと思った。それと同時に、なぜか少し意地悪な気分になって、浮かんだ疑問をぶつけていた。


「でも、映画になんて行っていいんですか? 奥さん、お家で待ってるのでは?」

 途端に、男性の顔が曇った。「あぁ……」と呟き、何かあきらめたような表情で肩をすくめる。


「いいえ、待ってなんかいませんよ。むしろ、早く帰ったら煙たがられるでしょうね。まぁ、僕もこうやって飲み会を口実に映画を観れるから、いいんですけど」


 そして携帯に目を戻して、少し寂しそうに付け加えた。


「昔は、妻もこの映画を一緒に観てくれたんですけどね。『飽きた』って言われちゃって」


 その時の、もう戻れない、でもとても愛しいものを懐古するような男性の目を見たとき、私の中で何か強い感情が揺らめいた。

 その目が欲しい。そう思った。次の瞬間、自分でもびっくりな提案をしていた。


「あの、その映画、私も観に行ってもいいですか?」

「え?」


 男性が戸惑うように声をあげ、チラッと確認するように周囲に目を走らせた。周りに人はいなかったが、今の会話が聞かれていないか不安だったのだろう。私は焦って手を振って見せた。


「すみません、別に変な意味とかではないですよ? 本当に私もその映画好きなので、映画館でやってるのは見逃したくないなって思っただけで。それに、もうここから早く帰りたくて」


 勝手に盛り上がっている他の社員たちを指さして、困ったように笑って見せると、男性もつられたように苦笑した。私は相手を警戒させないように重ねて言う。


「別に、隣同士で観るっていう意味じゃないですよ。離れた席で観ますから」

「いや、別に僕は全然かまいませんよ」


 どこかほっとした表情で、男性はほほ笑んだ。私は自分が最高に可愛く見える角度で口角を上げ、笑顔を返す。


「すみません、自己紹介がまだでしたね。経理部の武藤美沙といいます。よろしくお願いします」


 男性も、軽く頭を下げて名乗ってくれた。


「鈴木純也です。よろしく」



 その後、私たちはさりげなく時間差で飲み会を退出し、同じ映画を観た。

 少し離れた、斜め前の席に座っていた彼を、私は映画を見ている間、時折盗み見た。彼は全神経を集中させて映画を観ているようだった。

 最後の感動的なシーンが流れる中彼を見ると、その頬は流れる涙で濡れていた。隠すでもなく、拭うでもなく、涙が流れるままにする彼に、なぜか私は、目を奪われていた。



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