永久凍結領域

 はるかはるか、遠い世界。

 その世界の極地には、巨大な氷雪地帯が存在した。

 きめ細やかな雪で出来た白銀の大地が広がる、全てが凍てつく静止の世界。

 永い歴史を感じさせる氷山の麓には、崩れた氷塊を浮かべた大河が広がっている。

 冷たい大気は、一呼吸するだけで肺に刺すような痛みをもたらし、身体を芯から冷やしていく。

 永久凍土スティーリア――――

 温もりという言葉とは縁遠く、下手をすれば命を落としかねない過酷な環境であるにも関わらず、この地を訪れる者が後を絶たない。

 人々が命を賭してまでも、この凍土に足を踏み入れる理由。

 それは、この地の最奥に聳え立つ一つの宮殿にあった。


 ――煌々と白く輝きながら厳かに佇む氷の宮殿、その最深部。そこには、永遠の命を与えるという聖水の泉がある――


 そんな噂が探検家の中でまことしやかに囁かれた。

 誰が言い始めたかも分からない、眉唾物の情報。

 初めは酒場で語られる程度のおとぎ話に過ぎなかったが、いつしか氷の宮殿の存在は世界中へと広まっていった。

 噂を聞きつけたならず者たち。

 遠方より来たる他国の調査団。

 数え切れぬほどの人間が凍土へと旅立ったが、そこから戻ってきた者はただの一人もいない。

 いつしか凍土は「死の秘境」と呼ばれるようになり、人々から恐れられるようになったが、その地に挑む者たちの数は依然として減らず、むしろ増える一方である。

 そして今日もまた、新たな犠牲者となるであろう一団が凍土へと足を踏み入れるのだった。



 

 凍土へと足を踏み入れた一団。

 彼らは凍土の調査に赴いた研究者と、その護衛である雇われ兵の一行である。

 その兵士の中に、一人の男がいた。

 彼の名は、グラシア。

 グラシアは屈強な肉体と強靭な武力を持つ腕利きの精鋭だが、己の命や欲を何よりも優先し、有事の際には他人を切り捨てることも厭わない冷血漢でもあった。

 彼は、調査団の前に現れる魔物を淡々と屠りながら進んでゆく。

 だが、過酷な環境や魔物による攻撃に耐えられず、調査団のメンバーは一人、また一人と脱落していった。

 ついに宮殿前へとグラシアが辿り着いた時には、彼以外のメンバーは誰ひとりとして残ってはいなかった。

 もはや守るべき存在はいない。

 しかし、グラシアは表門をくぐり、宮殿へと歩を進めていく。

 己の欲に忠実な彼は、仲間の死を悼むより、不死の泉を独り占めできることしか考えていなかったのだ。

 そして宮殿の入口へと辿り着いたグラシアは、ゆっくりと正面玄関への扉を開いたのであった。




 宮殿の中は、酷く静かだった。

 人どころか、生き物の気配すら感じない。

 ただひとつあるものと言えば、蒼く透き通った壁面や床に反射したグラシアの姿であった。

 噂が本当ならば、泉は宮殿の最深部に存在するはず――――

 地下へと続く通路を見つけるため、グラシアは広大な宮殿内を歩き回った。

 書斎や大広間といった宮殿らしい部屋や、悪趣味な人間の氷像が多く見つかる中、肝心な通路はどこにも見当たらない。歩き疲れたグラシアは、やがて最後の部屋となる玉座の間へと辿り着いたのだった。

 緻密に造形された氷のシャンデリアや、煌びやかな装飾が施された玉座がこれでもかというほどに存在を主張しているが、この玉座の間においても、地下へと続く通路の手掛かりは見当たらなかった。

 グラシアは酷く落胆すると同時に、どこか諦観していた。

 もとより調査の発端は、誰が言いだしたかも分からない噂話である。

 彼はそんな情報に踊らされた自分を情けなく思うと同時に、今まで死んでいった探索者たちの無様さを嘲った。

 もはやここに留まる意味など無い。

 そう思ったグラシアは、せめてもの腹いせとして、乱暴に玉座へと腰かける。

 これからどうしようかと彼が考えていたその矢先――――玉座後方から轟音が響き渡った。

 驚いたグラシアは玉座から飛び降り、咄嗟に後ろを振り返る。

 するとそこには、下層へと続く階段が構築されていた。

 どうやら玉座後方の壁面が変形し、この隠し通路を出現させたようであった。

 ついに地下へと続く通路を見つけたグラシアは、足早に階段の奥へと進んでいく。

 最深部に眠る聖水の泉を見つけ、不死を得る――――

 彼の胸中には、その思いしかなかった。

 それは雇い主に先立たれた者の贖罪ではない。

 心底から湧き上がる生への渇望であった。






 やがて地下通路を抜け、最下層へと辿り着いたグラシア。

 煌びやかだった正面玄関とは異なり、最深部は薄暗く、唯一の灯りは中心に位置する光源のみである。

 そしてその光源こそ、グラシア一行が探し求めていた不死の泉そのものだった。

 光り輝く泉からは、聖水が懇々と湧き出ている。

 グラシアは芸術に疎い。だが、そんな彼の目から見ても分かるほど、その泉は神秘的な雰囲気を放っていた。

 ついに見つけた――――

 彼は泉へと駆け寄ると、その場にしゃがみ込み、満々と聖水を湛える泉に触れた。

 柔らかな聖水は外気より僅かに温かく、滑らかに手から零れ落ちていく。

 興奮冷めやらぬ中、グラシアは聖水を零さぬように両手で掬いあげると、それをそのまま一息に飲み干した。

 喉を駆け抜ける温かな聖水は、過酷な調査の疲れを癒してくれるようだった。

 充足感を感じるグラシア。

 だが次の瞬間――――全身を串刺しにされたかの如き痛みが彼を襲う。

 ふと自らの身体を見やると、全身にくまなく霜が生じ始めていた。

 訳も分からず狼狽えるグラシア。

 そして今度は、彼の脳内に悍ましい人間の絶叫が流れ込む。

 

 「身体がっ、身体が氷漬けになっていく!」

 「嫌だ! ここまで来たのに、死にたくねぇよ!」


 その時、グラシアは理解した。

 凍土に挑んだ人間たちの真なる末路を。

 宮殿内でたびたび目撃した人間の氷像。

 あれは自分と同じようにこの聖水を飲んだ者の成れの果てだったのだ。

 もちろん凍土で凍え死んだ者もいるだろうが、調査者の中にはこの宮殿まで辿り着いた者もいる。

 そして自分と同じように泉を見つけ、聖水を飲んだはず。

 不死とは時間の停滞――――すなわち彼らは、永遠に死ぬことが出来ぬ生きた氷像と化したのだ。

 精神を蝕むほどの慟哭。 

 しかし、それらに晒されても、グラシアの心は揺らがなかった。

 氷像となった者たちと、グラシア。

 二者の違いは明確だった。

 前者は死の恐怖に怯えていたのに対し、後者は最後まで生きることを諦めなかった。


 氷漬けなんて御免だ、俺は絶対に生き延びてやる――――

 俺は生きて不死の存在となるんだ――――

 

 グラシアは凍り付く身体と脳内に響く絶叫を経験してもなお、気丈に振る舞う。

 すると、永遠を望む彼の覚悟に泉が応えたのか、不意に彼を蝕んでいた凍結と絶叫が和らいでいく。

 変化が止まり、僅かに落ち着きを取り戻すグラシア。

 しかしその束の間、今度は彼の肌に異常が起こった。

 彼の浅黒い肌が、瞬く間に純白のものへと変わっていくのだ。

 痛みは伴っていないが、予想だにしない出来事にグラシアは驚きを隠せない。

 彼は自らの風貌を確認するため、目の前に広がる泉の水面をのぞき込んだ。

 どうやら変化したのは肌だけではなかったようだ。

 自慢の黒髪は白磁の如き白髪へと変わり、生来の赤い瞳は宝石のように輝く碧眼と化していた。




 かくして、不死の存在たる氷の帝王がこの世へと生まれ落ちた。

 思えば、なぜ主のいない宮殿に玉座が用意されていたのか。

 おそらくいつの日か、このような人間が宮殿に訪れるのを泉自体が待っていたのだろう。

 悠久の時を生きる覚悟を持つ、泉の守護者が現れることを。

 宮殿の主にして凍土の支配者となったグラシアは、玉座の間に赴くと、それがさも当然だと言わんばかりに悠然と玉座に腰をかけるのだった。




 グラシアが宮殿の主となり、永い年月が流れた。

 今や不変の存在となった氷帝に、時間という概念は存在しない。

 彼は今日もまた玉座の間にて、いつまでも変わらない凍土の風景を眺め、泉に手を出さんとする逆賊どもを斬り捨てる。

 彼が生き急ぐ必要は一切ない。

 なぜなら彼が死ぬことなど、到底ありえないのだから。

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ワンス・アポン・ア・ワールド 大里 易 @Ozato_eki

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