朝。

 制服に着替えた千景ちかげは、居間に下りた。畳部屋の真ん中には、大きな長方形の炬燵こたつ。テーブルの上にはすでに朝食が並べられていて、上座に座った祖母が一人テレビを見ながら焼き魚を突いていた。


「おはよう、千景ちゃん」


 千景は挨拶を返し、自身の席に正座する。ご飯と味噌汁、魚に和え物にお漬物。平日はパートで忙しい母だが、朝ご飯はしっかりとしたものが並ぶ。

 両手を合わせ、箸と茶碗を取った千景に、


「昨日のお散歩はどうだった?」


 テレビから目を離したちとせが問い掛ける。千景の夜の散歩について、両親は難しい顔をするのだが、祖母だけは寛容だった。

 千景は、茶碗を持ったまま黙する。泥に埋まった女。その腕に抱えられた赤ん坊。千景の体質を知る祖母には、視たままを全て話しても良いだろう。――けれど。


「……御守は、役に立っているって」


 言葉少なに語る千景に何を感じ取ったのか、祖母は喜びもせず、ただ頷いた。

 箸で少なめにお米をすくい、ちまちまと食べる。エンタメを報じる賑やかなニュースの音だけが、二人きりの居間に流れる。母は何処で家事をやっているのか、一向に来る気配がない。

 泥の中に何かが居て、赤ん坊がそれに狙われていることを、口にするのは簡単だった。だが、口にしてどうなるだろう。泥の中に入っていけない自分が、話のネタにして面白がって、彼女を、赤ん坊を、救えるのか。


「千景ちゃん」


 食卓を睨む孫の様子をじっと見ていた祖母が話し掛けた。


「あのね。今日のお散歩なんだけど――」




 月は満ちていたが、今日もまた薄い雲の向こうに隠れ、その姿は朧げだった。紗幕の向こうから投げかけられる光は、普段の満月より暗い気がした。

 いつもは気紛れな千景の散歩だったが、今日は昨日と同じ道を歩いた。手ぶらな普段と違い、肩に鞄を掛けて、アスファルトをそっと踏み締める。

 件の駐車場に辿り着くと、さすがの千景も目を瞠った。昨日はまだ膝までしか埋まっていなかった女が、今日は腰まで泥の中に埋まっている。


「…………また来たのかい」


 掻き抱くように赤ん坊のくるみを抱いた女の声は、弱々しかった。


「駄目だよ、あんたも。頻繁にこんなところに来ちゃあ」


 千景の身を心配する女の顔は、疲れ切っていた。暗い中ではあるが、心なしか顔色も悪い。事態は危機に瀕しているのだと分かる。


「何があったの?」


 千景は眉をひそめた。泥の表面を見渡す。ところどころ山になり、掘り返されたような穴がある。昨日の夜よりも状態がひどい。激しい争いがあった証拠だろう。


「油断しただけさ」


 赤ん坊の背を叩いていた女は、こんなときでも気丈に振る舞い、肩を竦めてみせた。

 千景は唇を引き結ぶ。肩に掛けた鞄の紐を握り締める手が硬くなった。女はそんな少女の様子を認め、あんたの所為じゃないよ、とぶっきらぼうに励ます。


「こういうことも、わりとよくあるんだから」


 胎児の命なんて、儚いものだよ。

 女は笑った。だが、その表情は脆く、どうしようもない哀しみが浮かんでいた。彼女なりに小さな命を守ろうと必死に足掻いてきたのだろう。それでも現実は、彼女に厳しかった。彼女をせせら笑うように、泥の中に引きずり込んだ。

 蜘蛛の巣に捕えられた蝶は、大人しく餌になるしかない。


 千景は顔を上げた。駐車場の敷地に入り、泥の沿岸まで歩を進める。


「やめな!」


 女は声を張り上げた。


「その先は、人間が入っていい場所じゃない!」


 千景は泥の際で足を止めた。据わった目で泥濘を見つめ、鞄に手を伸ばす。中をまさぐり取り出したのは、全長が三十センチ強のまさかり

 くびれた刃が、淡い月明かりに鈍く輝く。

 千景は、凍えた表情で鉞を携えた手を下ろして、此岸に立った。


「あんた――」


 呆然と少女を見つめる女の前から、

 ――ねちゃ。

 泥を掻き分ける音がした。

 女は、はっと泥濘でいねいに視線を落とし、子どもをかばうようにきつく抱きしめる。

 ――ねちゃ。

 音は、子を守る女の焦燥しょうそうあおるように、ゆっくりと嫌らしく響いた。

 唸り声。女を守るように、白い犬が現れる。三角の口から犬歯を剥き出しにして、音源の辺りをじっと睨む。

 ――ぽこ。ぽこ。ぽこ。

 千景と女の間に、あぶくが浮かぶ。ゆっくりと数えることを促すように、少しずつ、少しずつ。

 ――ぽこ。ぽこ。ぼこ。

 あぶくは少しずつ大きくなり、やがてひと一人呑み込めそうなほどの大きさになった。

 わん、と犬がひと吠え。

 だが、犬の威嚇にも構うことなく、〝それ〟は窪みから現れた。ぬっと泥の手を伸ばすと、

 ――びたん。

 と大地を叩く。

 泥が跳ね、女の白いシャツの腕を汚した。女は身を捩り、少しでも〝それ〟から子を引き離そうと、ささやかな抵抗を試みる。

 ――びたん。

 もう片方の手が現れた。

 泥の両手に力が籠もる。何かが這い出ようとしていた。

 犬は敵を追い返そうと、必死に吠え続ける。


 千景は表情をうしなった顔で、じっと泥の窪みを覗き込んだ。据わった目で、〝それ〟が現れるのを待つ。右手を軽く持ち上げる。鉞が鈍色の頭を上げる。


 ――ぬちゃあ。

 あぶくの弾けた底から顔を出したのは、のっぺらぼう。泥だらけの丸い頭。鼻はなく、眼窩がんかは窪む。ただ口だけがよく見えて、三日月の形に笑んでいた。

 命を喰らう悦びに満ちていた。

 醜悪なその顔を見下ろして、千景はただちにその頭に、鉞を振り下ろした。

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