参
朝。
制服に着替えた
「おはよう、千景ちゃん」
千景は挨拶を返し、自身の席に正座する。ご飯と味噌汁、魚に和え物にお漬物。平日はパートで忙しい母だが、朝ご飯はしっかりとしたものが並ぶ。
両手を合わせ、箸と茶碗を取った千景に、
「昨日のお散歩はどうだった?」
テレビから目を離したちとせが問い掛ける。千景の夜の散歩について、両親は難しい顔をするのだが、祖母だけは寛容だった。
千景は、茶碗を持ったまま黙する。泥に埋まった女。その腕に抱えられた赤ん坊。千景の体質を知る祖母には、視たままを全て話しても良いだろう。――けれど。
「……御守は、役に立っているって」
言葉少なに語る千景に何を感じ取ったのか、祖母は喜びもせず、ただ頷いた。
箸で少なめにお米を
泥の中に何かが居て、赤ん坊がそれに狙われていることを、口にするのは簡単だった。だが、口にしてどうなるだろう。泥の中に入っていけない自分が、話のネタにして面白がって、彼女を、赤ん坊を、救えるのか。
「千景ちゃん」
食卓を睨む孫の様子をじっと見ていた祖母が話し掛けた。
「あのね。今日のお散歩なんだけど――」
月は満ちていたが、今日もまた薄い雲の向こうに隠れ、その姿は朧げだった。紗幕の向こうから投げかけられる光は、普段の満月より暗い気がした。
いつもは気紛れな千景の散歩だったが、今日は昨日と同じ道を歩いた。手ぶらな普段と違い、肩に鞄を掛けて、アスファルトをそっと踏み締める。
件の駐車場に辿り着くと、さすがの千景も目を瞠った。昨日はまだ膝までしか埋まっていなかった女が、今日は腰まで泥の中に埋まっている。
「…………また来たのかい」
掻き抱くように赤ん坊のくるみを抱いた女の声は、弱々しかった。
「駄目だよ、あんたも。頻繁にこんなところに来ちゃあ」
千景の身を心配する女の顔は、疲れ切っていた。暗い中ではあるが、心なしか顔色も悪い。事態は危機に瀕しているのだと分かる。
「何があったの?」
千景は眉を
「油断しただけさ」
赤ん坊の背を叩いていた女は、こんなときでも気丈に振る舞い、肩を竦めてみせた。
千景は唇を引き結ぶ。肩に掛けた鞄の紐を握り締める手が硬くなった。女はそんな少女の様子を認め、あんたの所為じゃないよ、とぶっきらぼうに励ます。
「こういうことも、わりとよくあるんだから」
胎児の命なんて、儚いものだよ。
女は笑った。だが、その表情は脆く、どうしようもない哀しみが浮かんでいた。彼女なりに小さな命を守ろうと必死に足掻いてきたのだろう。それでも現実は、彼女に厳しかった。彼女をせせら笑うように、泥の中に引きずり込んだ。
蜘蛛の巣に捕えられた蝶は、大人しく餌になるしかない。
千景は顔を上げた。駐車場の敷地に入り、泥の沿岸まで歩を進める。
「やめな!」
女は声を張り上げた。
「その先は、人間が入っていい場所じゃない!」
千景は泥の際で足を止めた。据わった目で泥濘を見つめ、鞄に手を伸ばす。中を
くびれた刃が、淡い月明かりに鈍く輝く。
千景は、凍えた表情で鉞を携えた手を下ろして、此岸に立った。
「あんた――」
呆然と少女を見つめる女の前から、
――ねちゃ。
泥を掻き分ける音がした。
女は、はっと
――ねちゃ。
音は、子を守る女の
唸り声。女を守るように、白い犬が現れる。三角の口から犬歯を剥き出しにして、音源の辺りをじっと睨む。
――ぽこ。ぽこ。ぽこ。
千景と女の間に、あぶくが浮かぶ。ゆっくりと数えることを促すように、少しずつ、少しずつ。
――ぽこ。ぽこ。ぼこ。
あぶくは少しずつ大きくなり、やがてひと一人呑み込めそうなほどの大きさになった。
わん、と犬がひと吠え。
だが、犬の威嚇にも構うことなく、〝それ〟は窪みから現れた。ぬっと泥の手を伸ばすと、
――びたん。
と大地を叩く。
泥が跳ね、女の白いシャツの腕を汚した。女は身を捩り、少しでも〝それ〟から子を引き離そうと、ささやかな抵抗を試みる。
――びたん。
もう片方の手が現れた。
泥の両手に力が籠もる。何かが這い出ようとしていた。
犬は敵を追い返そうと、必死に吠え続ける。
千景は表情を
――ぬちゃあ。
あぶくの弾けた底から顔を出したのは、のっぺらぼう。泥だらけの丸い頭。鼻はなく、
命を喰らう悦びに満ちていた。
醜悪なその顔を見下ろして、千景はただちにその頭に、鉞を振り下ろした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます