弐
学生が補導されてもおかしくない時間に、そっと家の外に出る。黒いワンピースの上に、灰色のコートを羽織る。季節は早春。コート一枚でも十分に温かい。
薄暗い街灯が照らす住宅街の小道をスニーカーで踏みしめる。気紛れで、灯りを消した家の角を曲がる。あるかなきかの夜風が、千景の長い横髪を揺らした。春本番も、ほど近い。
やがて、千景は緑のフェンスに囲まれた駐車場の前を通りがかった。家並ぶ中にぽっかりとひらけた土地。闇が静かに鎮座する。
千景は駐車場の入口、フェンスの切れ間に入った。敷地の手前で立ち止まり、中を覗き込む。乗用車が十台駐められる広さの、昼間なら砂利が敷き詰められたそこ。しかし今は、
敷地いっぱいに広がる
――否。膝まで地面に埋まっていた。
「……あんたかい」
千景を見た女は、
「ずいぶんと埋まったわね」
千景は腕を組み、女に言葉を投げかける。千景は一週間前の夜も、この駐車場の前を通った。そのときは、彼女はまだ、足首までしか埋まっていなかった。
「これでも耐えたほうなんだよ」
女は肩を
ラグビーボールくらいの大きさのそれが何なのか、千景には察しがついていた。白い布にくるまれたそれは、顔こそ見えぬものの、どう考えても赤ん坊だった。
千景は泥濘を見下ろした。それから再び赤ん坊に目を戻す。
「その子なの?」
とだけ、尋ねた。
「そうだよ。泥の中から、付け狙ってきやがる」
〝それ〟からかばって、このザマさ。女は片手を広げ、泥の中に引きずり込まれた自らの現状を示した。
千景は再び泥濘に目を向けた。月明かりの下で光沢を放つ泥の表面、その凹凸は凄まじかった。掻き回されたというよりも、この泥の上で誰かが乱闘したかのような――
「あんたのおばあちゃんの、御守のおかげだよ」
千景は視線を上げ、小首を傾げた。
「ユキコに渡してくれたろう?」
千景の耳の奥で、チリと小さな鈴が鳴った。思い出すのは、戌のストラップ。祖母が息子を身籠っていた際の御守で、妊婦のユキコが迷惑そうに貰っていった。
千景は、女と赤ん坊の正体を看破した。
「……その子、ユキコさんの
「そうさ。順調にすくすく育っていたって言うのにね、ある日突然あれに付け狙われた。とりあえず魂だけでもと思って連れ出したんだが……完全に捕まっちまったね」
女は身を
はあ、と女は溜め息を吐いて、天を仰いだ。
「せめて、お月さまが霞んでいなきゃねぇ。母親のところに帰せるんだけど」
千景は女につられて、月を見上げた。真円に近付いた月は、薄い雲の向こうに隠れてその輪郭を
「それか、あんたに託せればねぇ」
だが、如何に千景が泥の際まで寄ったとしても手の届かないところに女は埋まっていた。赤ん坊を受け渡しなど、とてもできない。
千景は足を一歩踏み出した。踏みしめられた砂利が鳴る。それでももう少し近づけば、あるいは――。
「おやめ」
女は、鋭い声で千景を制した。
「解っているんだろう? 戻れなくなるよ」
女の忠告に従い、千景は立ち止まった。
握りしめられた拳がだらりと垂れ下がる。
――ねちゃ。
粘着質のある音が、突如夜闇に浮かび上がった。女は舌打ちをし、鋭く視線を周囲に走らせる。
「……来たね」
女は赤ん坊をきつく抱き寄せた。
一足遅れて、唸り声。いつの間にか女の傍らに白い犬が立っていた。千景に尻を向け、ふさふさの丸い尾をピンと立たせ、身を低め。暗闇の奥を警戒している。
「すまないけど、頼んだよ」
犬は一つ返事をする。
――ねちゃ。ぽこ。
水気をたっぷりと含んだ泥を掻き分ける音に、あぶくが混じる。泥濘の中から、何かが浮かび上がろうとしていた。
岸に立つ千景は、ただ状況を静かに見つめている。表情なく、視線だけを泥地の表面を走らせている。
――ぽこ。ぽこ。ぽこ。
あぶくの音が増えた。犬の唸り声が大きくなる。月の光が翳って、闇が重量を増した。
振り返って音源を確かめていた女は、千景に視線を戻した。
「行きな!」
帰れ、と叫ぶ女の向こうで、
――びたん!
泥の表面を叩きつける音がする。
千景はさっと顔を上げ、女に急かされるままに後退した。足が砂利の敷地を出ると、踵を返してアスファルトの車道を駆け出した。
去り際、犬が何かに飛び掛かるのが、視界の端に入った。
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